ヴラド失脚〜拘禁と死


ヴラドがオスマン=トルコを退けて後、持ち上がったのは国内問題であった。

 内紛の主役になったのはトルコに残っていたヴラドの実弟、ラドゥ<美男公>である。ヴラドと二人でトルコに捕らわれていたのだが、無骨者であったヴラドとは別に外見も美しく従順であったラドゥはスルタンの寵愛を受けており、しばらくトルコにとどまっていたのである。

 ラドゥはメフメト2世とヴラドの戦争の際にはスルタンがわに参加しており、ヴラドが北方に撤退した後、トルコから兵力を分け与えられワラキア南部に駐留していた。

 ヴラドは徹底的な戦争の継続を主張したが、彼は厭戦ムードの高まる地主貴族やヴラドに反感を持っている者へ、トルコとの和平の道を探すために自分を支持するよう働きかけ、次第に賛同者を獲得していく。
 
 国民の大多数派である農民たちがヴラドを支持し続けたならば状況は彼に有利になったのだろうが、農民たちは先のトルコとの戦争の際に破壊され尽くした耕地や家屋を復旧させるために軍事行動を避け本来の姿に戻っていた。

 ゆえに、ヴラドとラドゥの兄弟による権力闘争には関心を示さなかった。

 主に彼等を吟味したのは、トルコとの戦いにおいて真っ先に避難していた地主貴族たちであった。彼等は元より自分たちの財産が失われることに好意を持っておらず、不満が爆発したと言える。


 ワラキアは完全に二つに分裂してしまっていた。

 ヴラドはこれに少数精鋭の親衛隊をもって対抗するが、ラドゥ=トルコ合同軍の前に1462.10アルジェシュ城(ドラキュラ城)が陥落、 ヴラドはトランシルヴァニアに亡命する。
 

 そこからヴラドはハンガリー王マーチャーシュ・コルヴィヌスに救いを求めるが、彼の態度は曖昧で、打倒トルコを主張するヴラドの希望を応じることはなかった。一ヶ月以上にも及ぶ会談の結果、ヴラドに押し切られた形でマーチャーシュはワラキアに出兵する。
 これは、教皇から資金を援助されていたにも関わらず、トルコとはまったく戦争の意思が無かった事を示しており、マーチャーシュは極めて遅い速度で行軍を始める。
 ハンガリー軍がブラショフに到着すると、土地の代表者は既にラドゥを君主と認めており、それを知ったマーチャーシュは途端に今までのヴラド支持の考えを捨てた。
 
 ヴラドは今まで怨恨を抱いていたサス人系商人たちの報復を受ける。彼等はヴラドが書いたというトルコのスルタンに対する完全服従の内容の手紙を偽造し、マーチャーシュの元へ届けた。ヴラドは、それを理由にマーチャーシュに逮捕される。
 だが、これまでのヴラドの行動を見れば、手紙が偽造されたものであることは明らかであるので、マーチャーシュの意思はそれ以前に固まっていたのか、あるいはマーチャーシュがヴラド逮捕を行った後につじつまを合わせるために側近が捏造したかのどちらかであろう。

 ヴラドが狂気に駆られていたと判断するのは愚にもつかない。

 この行動に対し、ヨーロッパ諸国はマーチャーシュの動向に注目した。
 
 この逮捕劇は、マーチャーシュが教皇とヴェネツィア政府から多額の援助金を受けておきながら、トルコとの戦争はおろか兵力を移動させることすら考えていなかったという疑惑を浮上させ、マーチャーシュはヴラド逮捕の正統性を主張するために、サス人から入手した数々の悪行を例に挙げて理論武装した。

 また、パンフレットを作りこれを流布させ、ヴラドに対する恐怖を煽るとともに自らの判断を最良のものであると宣伝を行った。

 それでもヴェネツィアの元老院達はまったく信用しようとはしなかったが(おそらく本質に迫っていたのだが)、既にヴラドは地主貴族たちの反感を買っており、シュテファンと対立したことやマーチャーシュの助力が得られなかったことは彼の政治生命を絶っていた事を示していた。
 ここから12年間、ヴラドは幽閉されることになる。とはいってもほぼ軟禁に近く、その立場は楽なものであったようだ。
 
 ヴラドには好条件であった様で、捕囚以前に交わされていたマーチャーシュの妹との婚約も、幽閉中に行われている。

 この結婚についても問題があって、王妹はカトリックであり、ヴラド派東方正教徒であったため、結婚にあたってヴラドの改宗が必要とされた。君主が改宗するという事はすなわち、国教自体の変更ともなってバルカン地方の宗教勢力の均衡に影響を及ぼすものと考えられたため、個人の主義主張を超えた問題なのだが、相応の利益がヴラド自身にももたらされたのか彼はこれを受け入れ、子供ももうけている。

 マーチャーシュの思惑にはワラキアとモルダヴィアをカトリック教圏に入れる事が、神聖ローマ帝国皇帝位獲得の意思もあったのかもしれない。
 ヴラドのスルタンへの内通疑惑はキリスト教圏への重大な背信であったため、通常なら極刑も免れぬものが自由度の高い軟禁で済んでいる事からキリスト教各国から不信を抱かれたマーチャーシュは、ヴラドの残虐行為の数々を写本や印刷物にて流布させ、自己の立場の正当化を図った。
 しかし、ヴラド個人とはよほど密接な関係を保っていたのか、互いに信頼すら見えるほどであったという。
 そのことは、マーチャーシュが重要な外交交渉の際にヴラドを同席させていたことでも推測される。
 
 権力を失ったとはいえ、トルコとの輝かしい戦績は依然残っていたし、トルコにとってカズィクル・ベイ(串刺し公)の名は脅威であった。マーチャーシュがヴラドを随伴してトルコとの会見に臨むと、休戦交渉は瞬く間に締結したと言う。この時も、ヴラドは威厳に満ちており、健康的な様子であったと言う。
 捕囚中のヴラドに関する資料は希少であるが、その間のワラキアはどうであったか。
 
 ラドゥ3世はトルコの支援を勝ち得ていた事もあって服従の条件は緩和されており、トルコに対立しているハンガリーとも緩やかな友好関係を結んでいたが、シュテファン治めるモルダヴィアとの関係が悪化、戦闘で大敗する。


 シュテファンは親トルコの君主ラドゥを廃してワラキアを対トルコの戦力に復帰させる事を望んだため、ライオタ=バサラプを推してワラキアに侵入。 シュテファンの完勝によりバサラプの公王即位。
 

 ところがラドゥの反撃に再三逃亡を繰り返すバサラプに失望して見限り、ヴラドを復位させようとマーチャーシュに交渉を開始する。

 これによりトルコとモルダヴィアが全面戦争に突入することとなった。ローマ教皇からの支援が得られないままに戦闘に突入したが、結果はシュテファンの圧勝。ヴラドに続く十字軍指導者と期待されるが、トルコの脅威は去ったわけではなく、モルドヴァの公位に干渉を加えたことで険悪になっていたマーチャーシュに懇願してヴラドの早期の復帰を要請する。


 マーチャーシュとシュテファンは対トルコの切り札としてヴラドを考え、利害が一致すると考えたマーチャーシュはヴラドの復帰を約束するが、バサラプと友好関係を結んでいたこともあって延期を重ね、結局ヴラドは1475年7月に釈放された。
 

 ヴラドのその頃の戦果も割合にあったようで、トルコ軍を恐怖により撤退させる目的で串刺しによる処刑を再び行っていた。マーチャーシュはこの戦果を受けて、更なる資金援助を受けていた教皇にアピールするために過大な宣伝的遠征を行い、これは神の加護による敵への打撃であると手紙を送っている。


 ライオタ=バサラプはサシ人達の後押しを得てヴラドの復位を阻止せんとするも時既に遅く、その支持勢力は固いものになっていた。
 

 1476年9月、マーチャーシュの命を受けたトランシルヴァニア軍がワラキアに進攻、十月バサラプを追放してヴラドがサシ人商人弾圧の市場法を撤廃するとともに即位。
 11月、シュテファンとヴラドは、対トルコの為の固い結束を確認しあった。ところが、復帰したばかりのヴラドにはあまりにも味方が少なく、モルドヴァの駐留軍を直属親衛隊とし、それのみが護身の手段となった。


ヴラドの再位は1476年12月に彼自身の死により終わりを告げる。
 

 その内容は事故死と暗殺の両方につたえられており、前者はトルコ軍との戦闘中、逃亡しようとしたヴラドがトルコ兵の服装をしており、味方軍に誤って殺されたというもの、

 後者はヴラドのカトリック改宗による親ハンガリーを心良しとしなかった地主貴族か、あるいはトルコの計略による暗殺、または主犯が追放されて後ヴラドの死後に即位したライオタ=バサラプが黒幕であるというものである。


 真相としては、ハンガリー、モルダヴィアの両軍が引き上げた好機を良しとして、トルコ側が地主貴族を懐柔して裏切らせ、付近にいた兵士に暗殺させた、というのが最も妥当であろう。
 

 その後のワラキアがどうなったか。ライオタ・バサラプの父子の治世は1481年まで続くが、以後の頻繁な君主の交代によりトルコの圧力が増大。モルダヴィアとともに15世紀中は独立国として体裁を保つが、トルコの属国化してゆく。

 ハンガリーもマーチャーシュの死後、後継者争いの最中トルコの総攻撃に大敗、分割されて半ばトルコの直轄領となる。

 ルーマニア三国は、1593年ミハイ公がワラキア公に就任して以後、連合してトルコ軍を退けるなどあったが、トルコを退けると再び対立を始めミハイが1599年〜1600年トランシルヴァニア・モルドヴァの征服に成功。

 ルーマニアを統合したが、そのミハイも翌年暗殺され、ルーマニア三国はあいついでトルコの支配下となっていった。


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