スルタン夜襲


 スルタンメフメト2世のワラキア遠征が始まる。彼は自ら軍を指揮して遠征に臨んだ。
 

トルコはそれまでに徴兵組織制度を確立させており、スルタンの一命が有れば30万人を下らない兵力を集められると考えられていた。

対して、孤立無援のワラキアは12歳以上の健常な男子をすべて徴兵しても3万人弱。厳しく見積もれば2万2千人程であった。加えて、モルダヴィアとの緊張の高まるキリアに兵を投入しなければならなかったため、実質トルコに回せる兵力は1万5千人余。戦力の差は明らかである。


 おまけに、通常は農民である市民を徴兵したワラキア軍が、常設の正規軍がほとんどであるトルコ軍に対抗し得るとは考えられない。
 しかも、トルコのスルタンを防衛するのは世界最強と噂された親衛隊、イェニ=チェリである。
 

 彼等は異教徒や異民族の子弟をムスリムに改宗させて教育を施したもので、スルタンはこのイェニ=チェリに、非常設のトルコ人騎馬兵よりもはるかに信頼を置いていた。


 実際にワラキア侵攻に参加した兵力は定かではないが、スルタン・メフメト自身の書簡によると、15個師団を投入した、とあるので、おおよそ15万人程度ではなかったかと思われる。通常数千人単位で行われた当時のヨーロッパの戦争の中で、この規模は驚異的であり、コンスタンチノープル攻略戦以来と噂された。
 

 しかも、その内容は重装将兵、重砲兵部隊、正規軍騎馬兵、精鋭歩兵部隊イェニ=チェリと、考えられるだけの強力な武力であった。
 メフメトはこの地上部隊に加え、艦艇部隊を編成、キリア港奪還に向かわせている。その後、ワラキア領内で合流して一気に首都トゥルシュゴヴィテを目指す予定だった。
 ヴラド率いるワラキア軍は、何としても両軍が合流するのを遅らせねばならず、必死の抵抗を試みる。ワラキア軍はドナウ河畔でトルコ軍を阻止するべく迎撃の姿勢をとった。
 
 トルコ軍も精鋭ぞろいだったが、ワラキア軍も最前線に最強の戦力を投入し、トルコ側も正面突破することは困難であった。そこで、イェニ=チェリを中心として特殊部隊を設け、ドナウ川の1キロ程下流に橋頭堡を築き、渡河による攻略に挑む。
 一時はワラキア軍の猛烈な抵抗に遭い全滅の危機にさらされたトルコ軍だったが、射石砲部隊の渡河に成功し、次第に盛り返していく。
 物量で圧倒的に勝るトルコ軍に正面からの白兵戦は不利と悟ったヴラドは作戦を変更、戦略的撤退をしつつ、トルコ軍に対して執拗なゲリラ作戦を決行した。
 ヴラドは伝統的な作戦、焦土作戦を敢行。行く先々で子供や老人、女性を優先してブラショフ山岳地帯に避難させた後、すべての物資を持ち出し、持ちきれないものは焼き払った。
 耕地や家屋も使用不可の状態まで破壊し、井戸と言う井戸にはすべて毒物を投げ込んだ。
 当時の戦争では食料や物資はすべて現地調達であるので、トルコ軍は極めて困難な状況に陥った。兵士たちは飢えと渇きに苦しみ、食料を調達しようと大隊を離れて行動するとことごとくワラキア軍のゲリラに狙われ、戻ってこなかった。

 また、戻ってきたものは尾行され、昼夜を問わず不意を襲うやりかたに兵士たちの神経は過敏になって磨耗し、披露困憊で士気も落ち続けていた。


 そして1462年6月17日未明、ヴラドは名高き夜襲作戦を開始する。
 

 メフメト2世も夜襲作戦は得意とするもので、彼自身コンスタンチノープル攻略戦の時に使用して成果を上げており、また、いくらゲリラ戦が効果を上げているとは言っても依然戦力の差は縮まらず、ヴラドが勝利を得るためには一気に指導者を討ち取る奇襲作戦しかないと確信し、その為の準備も怠ってはいなかった。
 
  一方のヴラドは、メフメトが夜襲に備えていることも熟知した上で、敢えてその作戦を実行することにした。ジウルジルでの奸計をかわした時と同じく、メフメトの予想の上を行く事に意義を感じてもいた。

 ヴラドはトルコ捕囚時代にトルコ軍の軍備制度について習熟しており、また、本人自ら変装して斥侯を行い、スルタンの幕舎の位置を詳細に把握している。準備は整った。

 夜襲の模様に関しては、色々な文献で紹介されているが、旧ビザンツ帝国のギリシア人、メフメトに仕えていた年代記作者のカルコンディラスの描写を引用してみる。

 暗い雲が月を覆い隠した深夜、野獣のように精悍で敏捷な男たちが、黒装束を身にまとい、深く覆われた木の葉で隠された入口をおしひろげて飛び出してきた。

 ──その数は全部合わせて1万人。彼等はすべて農民で、豚皮で作った靴を履き、腰に蛮刀をさげ、肩に太い木の幹をかついでいた。

 足音も静かに、携える武器も音を立てない。彼等の真中に立つ恐れを知らぬ男、さらに来襲した敵達が財貨を掠奪、荒廃させたのに復讐心を燃やしてだれ一人として声を発する者もいない。

 敵軍幕舎に近づくや、絹を裂く鋭い叫びが空を割き、命令一下、彼等はスルタン幕舎を目掛けて突進した…刻々と夜の帳は去り、わが戦士の顔前には、食を漁り疲れ果てていた多くの敵軍が立ち現れてきた。

 刃向かって来たトルコ不正規騎兵達はたちまち薙ぎ倒され、暗闇のなかに姿を消してしまった。

 しかし必死の親衛隊の一群が皇帝を守らんと死に物狂いで松明が血の様に燃える光の中で真っ黒な姿を浮かび上がらせつつ立ちはだかった。忍び寄る暁の光が力強い戦士の影をひとりひとり映した。

 ルーマニア兵は突然、踵を返した……さわやかな朝風に乗って、彼等は元来た森の中へ姿を消してしまった。


 
 ワラキア軍は最強の部隊を奇襲に投入。一気にスルタンの元を目指す。トルコ軍の中でもヴラド=ツェペシュの名はとどろいており、彼等の中に一気に恐怖が広がった。
 

 非正規兵達はたちまちの内に蹴散らされ、スルタンの命あわや、と思われた時にワラキア軍の前に立ちはだかったのは精鋭イェニ=チェリであった。彼等は自らの肉体を壁とし、決死の防衛を図り、ワラキア軍はそれより前に進むことが許されなかった。

 時間が勝負の奇襲作戦だったが、やがて夜明けが近づく。混乱しているトルコ軍にも、敵味方の区別がつくようになったなら、数で劣るワラキア軍には万に一つも勝ち目は無い。ヴラドは目的を達成しないまま撤退を開始した。


 夜が明けてみれば、トルコ軍の損害は甚大なものになっていた。メフメト2世が予測していたよりもはるかにワラキア軍の猛攻は激しいものだったのだ。
 

 態勢を立て直し、トルコ軍が首都トゥルシュゴヴィテを目指して行軍する中、郊外で目にしたものは、ジウルジウから連れ去られた同胞が、杭に刺されて並んでいる姿だった。その数、およそ3万本。

 ひときわ高い丘に立てられた杭の先にあったのは、ヴラドを計略に陥れんとして逆に捕らわれ、捕虜になっていたハムザ・パシャとギリシア人トマ・カタヴォリノスの死体であった。辺りを覆う腐臭とその光景に、トルコ軍の士気は低迷する。

 さすがの<征服王>(ファティヒ)メフメト2世も「こんな男と戦ってどうなるというのだ」と側近に漏らしたという。


別働隊であった海軍とともに大敗を喫したメフメトは、退却を決断したと言う。


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