そうしているうちに「タクティクス」のスタッフが今度はFFの土壌を借りて「タクティクス」の世界を表現すると聞く。もちろん発売日に買ったのだったが、CDを手にして開けて驚く。CDジャケットは白地に黒い文字の美しいレイアウトなのだが、開けると説明書の表紙だけは黒地に金文字のレイアウトなのだ。わざわざ変える必要はまったくない。
あるとすれば、「クイーン」のCDに込められた仕掛けの再現なのである。思わずニヤリとしつつ、やってくれるなあとゲームをプレイし続けるが他にはさして共通点は見当たらない。今回はこれだけかなとあきらめていた。
 

…時は深夜、私はまさにボス戦に苦しんでいた。どうも章の終わりらしいのだが、突然巻き込まれた戦闘にさしたる装備もなく、しかも話しはクライマックスっぽいのでなんとしても負けてやりなおす無粋は避けたい。
結果、ほぼ瀕死でクリアし次章のタイトルを見ると…、「愛にすべてを〜Somebody To Love〜」とある。
それまでのタイトルは「〜もの」で統一されてきた。あきらかに違う。もちろん、クイーンの名曲のタイトルからとった事は間違いない。私は戦慄に近い興奮を覚えた。大袈裟な表現でなく、一分ほど気持ちを静める為に氷結し、適当な所でセーブする。こんなに重要な場面に入れておくとは…。なんと誇らしい事であろうか。私はこのシリーズに対し、そう心から感じた。
 

これには後日談があり、ゲームをクリアしてしばらく経ち、今一つ後半の話の展開が急すぎて、特に主人公の一方の雄、ディリータの心理描写が成されない為、不可解な部分がたしかにあった。
しかし、感動した事も事実であったので、先の「Somebody To Love」を聞いて「FFタクティクス」に思いをはせていた。何気なく日本語訳の歌詞を手に取り、読んでみる。すると、そこには一人の男の苦悩が描かれていた。

誰かおれに愛せる人を見つけてくれ
毎朝目覚めるたびに少しの間死んだようになる
自分の足で立っているのが精一杯だ
鏡を覗き込んで嘆いてしまう
主よ、私をどうしようとしているのか
おれは今までの人生あなたを信じて過ごしてきたのに
未だに救いを得る事ができない、主よ!
誰か、誰か、 誰かおれに愛せる人を見つけてくれないか?

おれの人生一日々々一所懸命働いている
骨が痛くなるまで働いている
一日が終わりやっと稼いだ金を持って家に帰り
おれは膝をついて
そして祈り始める
おれの目からは涙が流れ続ける
主よ−誰か−誰か
誰かおれに愛せる人を見つけてくれ

(彼は必死に働いているんだ)

毎日−頑張って頑張って頑張って−
でもみんなはおれをこき下ろしたいんだ
おれは頭がおかしいって
おれの脳みそには水がいっぱい入っているんだって
常識もないんだって
もう誰も信じられない
ああ−ああ そうなんだ

ああ 主よ
誰か−誰か
誰かおれに愛せる人をみつけてくれないか?

何も感じない 躍動もない
おれの鼓動はなくなったままさ
大丈夫、大丈夫だよ
おれは負けたりはしない
いつかきっとこの監獄から抜け出してやる
ある日いつの日かおれは自由になるんだ、主よ!
愛せる人を見つけてくれ

だれかおれに愛せる人をみつけてくれ

[訳:筆者]

…私はこれと良く似た状況に置かれた人物を知っている。能力はありながら、民族の違いによる身分の差に苦しみ、自分の扱いの不当さを嘆く男。勤勉であるだけであるのに、突如最愛の妹を奪われる悲しみを与えられる男。 

そう、主人公ラムザと対比して描かれるディリータの姿なのだ。 
彼が姿を消していた空白の時間、物語で語られなかった部分はここに有ると言っていい。そして、はたと気付く。何故、それが章の題に使われたのか…。そうか!この物語全体のテーマがそこにあるというのなら、作者のメッセージがここにあるなら、主人公はディリータなのだ。ずっと傍観者であるラムザが主役になろうはずがない。 
だから、彼は歴史の裏に埋もれていくのだ。ならば、ディリータの心理描写など作者がいれようはずはない。すべてはもはや語られたものなのだ。 

これにはまったくだまされた。なんという大仕掛けか。気付くものなどほとんどいないかもしれないというのに、あえて話しの根幹を想像にまかせたのはそういう理由だったのだ。であるなら、「タクティクスオウガ」の話の分岐に 相当する部分がここに当たるのではないか…とは考え過ぎだろうか。 

現在、彼らスタッフは助力はしているようだがメインになっていない。これは、次回に自分達が作る大作の為の準備段階とも思える。また、その作品が発表された時、わたしは自分が即座に手にし、かつ大量の感動を得る事を信じて止まない。 

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