まず、右の図を見て欲しい。
これは、「ガラスの仮面」の一シーンなのだが、 この絵を見てどう思うか。私は初めて見た時古臭いと感じた。
典型的な少女マンガ然とした雰囲気に違和感すら覚えた。未読である、という人の理由としては、さして珍しいものでもないだろう。
しかし、まずその食わず嫌いをなくす所から始めたい。少なくとも私は、出会ったコミックの中でも最高位に位置すると考えている。

物語は、極めて平凡な少女北島マヤが演劇と出会う事から始まる。
マヤは、それまでのつまらない自分の生活に別れを告げ、女優を目指し家出同然に劇団つきかげの門をくぐる。
そこで彼女は幻の演劇「紅天女(くれないてんにょ)」 の存在と、永遠のライバル、演劇界のサラブレッド姫川亜弓と出会う。
こうしてマヤは歩一歩女優の道を目指すが、その道は平淡であるはずもなかった…。

と、これが粗筋ではあるのだが、この物語のもつ魅力、というものはむしろ別の部分に含まれている、と言っても良いだろう。

もともと友人がこれを購入しはじめ、一人暮らしで食費を削りながら一冊また一冊と買う姿を見てどこに面白味があるのかと不思議に思っていた。勧められ、一寸読んでみた際も、さして惹かれはしなかった。
後に、書店で見かけ、一冊なら暇つぶしに…。と手にとったのが出会いであり、読み始めてものの10分でとりこになった。以来、幾度となく読み返している。

それでは、、私は何に惹かれて心変わりをしたのだったろう。

まず読んでみて最初に気付くのがその臨場感である。実際に自分が観客の一人になってしまい、劇中の人物がマヤの演技力に驚愕する時、私も度肝を抜かれる。当時私は演劇と言うものを間近で見た事はなかった。にもかかわらず、私はそこに臨場感を覚えた。それは奇跡とも言える仮想体験である。
多くのコミックがそうであるように、通常は主人公に共感して好きになるものだが、これに関してはそれは当てはまらない。
ただただ傍観者となるのみだ。逆に、それが自分をしてすんなりと世界観に入り込ませた理由かもしれない。傍観者としてマヤの演技に感動する。それは極めて単純な衝動であり、だからこそ強烈なパワーを持って私を魅了する。そうして一旦とりこになった後は、自分が初めの段階で発掘した女優を応援する気持ちで、彼女が一歩また一歩と名声を勝ち得ていく姿に歓喜し、悩み苦しむ時には本気で心配しその劇中の行動に一喜一憂させられてしまう。これは、まさにファン心理そのものではないか。

次に、その対比である。先に挙げたライバル亜弓だが、マヤとは正反対の 生い立ちで描かれる。
マヤが持っていないもの、例えて言うなら暖かい家族や名声と言ったものを既にすべてもっており、 すべてのコンプレックスから開放されているかに見える。
亜弓は天才と呼ばれ、演技は人から完璧と賞賛される。そういった存在と対比させられる時、先の理由から読者は既にマヤのファンとなっているので、既に完璧と言われたものに対しいかに勝ち得るのかと心配するが、そんな気持ちを知ってか知らでかマヤは、同じ脚本、同じキャラクターを演じ、それに打ち勝つ事を自分なりのアレンジを加えると言う方法によってなんなくこなしてしまう。そうしたとき、登場人物や当の亜弓と同様に我々はマヤの非凡さをまざまざと知らされるのだ。そして、普段は何の特徴もないマヤをして「演技の天才」と評価した師、月影千草の慧眼を。
ここで、注意したいのは、コミックの表現方法として読者がお互いの 演ずる演劇の違いを知るには、演劇を二つ併記せねばならないと言う事だ。
であるなら、コミックの表現と言う段階で本当に違うものでなければ、読者にとっては苦痛以外の何者でもないと言う事になってしまう。なおかつ、そのマヤの非凡さを読者に判らせる、それも演劇を経験した事が無い人間にまで。これには大変な労力と観察眼が必要と思われる。勿論それが 成されているからこそ、絶大な人気を得たのであり、今でも繰り返し人の話題にのぼるほど名作といわれる位置を失わずにいるのだろう。

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