「何がニナを引き止める」

第1部 死体泥棒

──ある墓地で何かに取り憑かれた様に墓を掘り返す男がいた。
 辺りには人影が無く、男のスコップの音と荒い息づかいしか聞こえない。
 男がふと空を見上げると真冬の夜空に明るい月が白い光を放っている。

「真逆ね──」

 男は一抹の不安と希望を込めて再び掘り始めた。
──それが、永久に続く彼の闇の生の始まりになろうとは、思いもよらなかったに違いない。

 スコップの先端が硬い物に触れ、カキンと金属音を発した。男の心臓は破裂しそうなほど速く鼓動し、その表情は酷く険しくなった。
「ニナ──」
 男はほとんど誰の耳にも聞こえないほど小さく低い声を発した。次の瞬間には手に持っていたスコップを投げ出し、膝を付いて自分の手で土を掘り返した。事のほか土は柔らかく、簡単に掘り返す事が出来た。
 凍てつく寒空の元、凍える手も止めず、一心不乱に土を掘り返す彼の脳裏をある思い出がかすめた──生涯忘れる事は出来ないであろう、辛い過去が──。

 いや、これは過去ではないのかもしれない──彼自身にも判らないのだ。
 本当なら夢であってほしい、ただそれだけははっきりと言えた──。

 不安は確信に変わっていた。希望は絶望がとって代わろうとしていた。いや、その時点ではすべてが霧の中だったといえるだろう。男の額からは先程から冷たい汗が絶え間無く流れていた。その汗が掘り返す行動から出たものではない事は確かだった。ましてや、気候のせいでも。
 この蓋を開けなければ、絶望は希望のままでいられるかもしれない。
 このまま家に帰れば、残りの人生を平和に、幸せに送る事ができるかもしれない。だがもはや、そんな考えも彼にとっては無意味だった。
 己の人生すべてを賭けて愛した者の居なくなった今では。

 月が、雲に隠れた。
 今から起こる凶事から目を背けでもしたかのように。
 男は、静かに棺の蓋に手を掛け、ふと思い出した。蓋に掛けた手を思考が拒む。

──最近、連続殺人事件が街を騒がしており、もう幾人もの犠牲者が出ている。現在の時点で、新聞には十四人と書かれていた。とてつもない勢いでみな殺られている。十五人目も、もう既に手に掛かっているのかもしれない。

 十三人目が自分の愛しい人だとは思いもよらなかった。

──発見は失踪から一ヶ月程だった。その美しいプラチナブロンドの髪も、透けるような肌も変わりなかったが、一縷の望みも空しく冷たい身体での対面となった。彼女を見た瞬間、何故か嫌な予感がよぎった。死因が不明だったというのもそうだが、首筋に見た事の無い傷痕があったからかもしれない。

 自分が今、こんな所にいるのは「予感」を確かめたいからなのか、それとも──

──それより目の前の棺に集中するか。

 元々腕力には自信がある方だったので、棺に打ち込まれた釘を取り除く作業にはさして苦労はしなかった。棺の蓋を釘で打ち付ける習慣。埋葬する地方ならば当たり前の事だが、過去に幾度も繰り返されてきた行為に対して疑念がよぎる。これは棺の中の死者に誰かが悪戯をしないように接触を断っているのか、それとも──死者が現世に戻ってくるのを妨げる為なのか。いや、どちらであろうと構うまい。
 力を込めて棺の蓋を握り締める。彼の顔からはもはや恐怖や迷いは消えていた。早く彼女に会いたい。行方知れずとなった彼女を捜し求めたこの1ヶ月間は永遠に続くのかとも思えた。思えば、ただこの瞬間をのみ待ち続けていたのかもしれない。
 ろくに食事も取れずやせ細った彼は、冷たい土の上に膝まづき、先刻から自分の手で掘り返していた為に泥にまみれており、その泥はこけた頬を覆う伸び切った髭にこびりついていた。
 辺りが暗いのでよくは判らなかったが、指先には細かい傷がついてしまったようだ。月明かりに照らして見てみると、左手の薬指がキラリと光った。
彼女との楽しかった日々が脳裏に浮かぶ。こんな形で再会する事になろうとは──
 一気に蓋を開け、中を覗き込む。そこに恋人の姿を見た刹那、我知らず両目から熱いものが流れて落ちた。眼前の姿を霞ませるそれを汚れた手で拭うと、彼の口からは叫びが、いや、他に聞いているものがあったならうめき声に思えたであろう物がこぼれた。

「ああ──」

 彼の悲痛な、しかし掠れて余りにも小さな叫びは、それでも人気の無い墓地の中では重く響いた。棺の中には横たわる恋人の姿があった。生前と何も変わっていない彼女の身体は、彼女が死んでから1週間経った今でもまったく腐敗が進んでおらず、あくまでも美しい。失踪の直前、彼女にプロポーズを告げた晩、彼に愛していると応えた姿が重なって見える。
 彼女の白く透き通る肌に優しく手を触れ、愛らしい唇にキスをしたかった。あの晩愛し合ったように彼女を抱きしめたかった。
 彼女との死別、もうそんな現実は無意味に思える。左手に自ら身に付けているものと同じ指輪の感触を確かめながら、右手を無意識の内に彼女の頬へと伸ばす。彼の記憶の中よりも、やや蒼白く見えるその頬に手が触れたと思った瞬間、彼は小さく悲鳴をあげ反射的に後方に跳びすさった。何か手応えのあるものにすがる思いで、左手の指輪をきつく握り締める。
 無意味に思えていた現実が、自分の中に大きな位置を占めていた事がまざまざと知らされる。

「ニナ──生きているのか?」

 彼女の肌は弾力にあふれ、頬は生者の如く温かみを帯びていた。温かいというよりも、氷のように冷え切った男の手にはむしろ熱く感じられた。生前手をとった時よりもはるかに──。

(続く)

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