第4部 ニナを引き止めるもの(2)

 馬車の座席はあまり清潔そうでなかった。村長からの命令で半日で隣村まで運んでくれる馬車を急いで探した為にあまり贅沢は言えないのだが、それでも今までパトラスが乗ったものの中で最低に匹敵する程の乗り心地だった。元々あまり乗り物が得意ではなく、加えて重要な任務を与えられた緊張からパトラスは吐き気を覚えるほど気分を悪くしていた。

 彼が村長から与えられた命は、隣村まで馬車で行き、そこから国境付近まで馬車を乗り換えて警官隊と合流、村長からの親書を届けた後に村へと報告に戻る事だ。峠を越えていけば半日ほどで隣村には辿りつける。そこから国境までは近く、小1時間もあれば余裕を持って到着できる。馬車は既に峠を越しており、隣村まではもう目と鼻の先だった。ただ、馬を全力で走らせる事にやや無理があったのか、予定よりも少し遅れている。外はもう暗くなりかけており、完全に日が暮れてしまうまでの間に隣村に着かなければ明日の朝までに村へ帰る事はできない。それに、夜間を通して馬を走らせる事は必ずしも安全だとはいえない。パトラスの手元にも借りてきた銃が置かれており、実弾が装填されていた。

 パトラスはそれを不快げに見やると、前方の小窓に目を戻した。目の前を針葉樹が次々と過ぎ去っていく。普段ならば気分よく眺めていられたのだろうが、今はそういう訳にもいかなかった。気分がすぐれない理由は他にもあった。それは一昨日の夜に自分自身が体験した出来事に起因している。あの時、パトラスにはハンスを助ける事ができなかった。手首から流血するハンスを手当てしたのも別の村人だった。パトラスはその悲劇を自分が臆病であったことから生まれたと考えている。もちろん彼がその時小屋の中に入っていたとしても事態は変わらなかったであろうし、それについて何ら自責の念を感じる必然はない事は自分でも判っていたのだが、ハンスの身を襲った余りにも遣り切れない出来事に対して自己を責める事で理由を求めようとしていたに違いない。

 遣り切れない気持ちはそれだけではなかった。ルガース一家についてもそうである。小屋の中から何者かが飛び出してきたとき、パトラスはそれがニナであると確信しており、傷ついたハンスもその様に証言していたのだが、何故か村長たちはそれを認めなかった。村長が自分の娘が生き返って人を襲うなどという事を信じたくないのは判るが、そこに居た誰一人ニナとしてはっきり視認できたものがいなかったのだ。ハンスは大怪我から発熱してしまい、熱ゆえのうわ言と一蹴され、残った者もその人物が女性だとすら明言できていなかった。考えてみれば一度埋葬されたニナが蘇って村人達を襲ったという意見は正気の沙汰ではないが、それでも最初に吸血鬼の存在を提示したのは他でもない村長自身だったはずだ。それを自ら否定するような行動をとるあたり、何かしら公にできない理由が裏にあるのではないかと疑い、パトラスは村長への疑念をつのらせるとともに得体の知れない恐怖を感じた。後から出てきた人物がルガースだった事からもその事実は揺るぐはずがない。ルガースは何らかの方法で蘇生させたニナを匿ってあの小屋に潜んでいたに相違ない。

 だがそれは何を意味するのか?少なくとも、ジョシュアがそれ以前にルガースの深夜の奇行を目撃している為に彼が疑われるのは明らかだが、可哀想なのは彼の母親だ。息子が愚かな行いをしたために一生村人達から偏見を受けるのは想像に難くない。もしかすれば村から出て行かざるを得なくなるかもしれないが、彼女1人で他の村へ行って新たな生活をするのは困難過ぎることだろう。とはいえパトラスにはあの人物がニナであったと皆の前で証言する勇気が持てなかった。あの時ルガースに向かって発砲してでも止めるべきだったのだろうが、銃を撃つ事ができなかった事実に恥を感じてもいたし、そこまで自己を犠牲にして人を助ける事が考えられなかったからだ。ルガースはニナを追って森に入っていき、自分は村に残った。村に残ると決めた以上、村の者達が決めた事に異を唱えるつもりはない。今更ニナが犯人だったと話したところでその告白を正当と認めてくれる者はないだろうし、自分自身一昨日のあれは幻だったのではと思い始めていた。いや、思い込もうとしていたのだった。

 おそらく国境を越えようとしてルガースは捕まるだろう。あの人間離れした動きを見せていたニナは逃げ切れるかもしれないが、ルガースには無理に違いない。そうすれば今まで村全体が抱えていた恐怖や不満も解消され、また元の生活にも戻れる、誰もがそう信じて疑わなかった。その為にはパトラスにしても多少の危険な仕事も請け負わなければならないのだろう。あの夜に皆の前で潰してしまった面子を回復する為にも、元通りの生活に戻ったときに今まで以上の信頼を持ってもらう為にもこれは避けては通れない試練だった。試練、と呼ぶにはそれでも容易なもので、ただ単に手紙を渡して帰ればいいだけだ。馬車の運転にしても自分がするわけではないし、護身の為に銃も持ってきているがこれを使う羽目になる事はおそらくないだろう。ある種の野蛮な人間と違い、銃を握っていれば安心すると言う愚鈍はパトラスには当てはまらなかったが、それでも何も身を守る手段を持っていないよりは余程ましだった。

 夜は見る間に更けていく。まだ眠くなる事は無かったが、帰りも同じ道を辿っていかなければならないと考えると憂鬱にもなった。未だに隣村にも着かないという事は、明日の早朝までに家に戻れる事が不可能である事を示している。
 いくら村長の命令だと言っても、その日程の遂行の困難さに舌打ちをしたくなっていた。ふと馬の速度が落ちていく。ここまで全速力で飛ばしてきたので馬にも疲れが見えたのかとも思ったが、御者にしてもそれは判っていたことだ。それを承知で通常より多目の報酬を約束している事を思い、御者に警告しようと左手に下がる紐を引き、合図のベルを鳴らす。そうしている間にもみるみる馬は速度を落としていき、今ではほとんど並足になってしまっていた。さすがに文句を言わねばとベルをしきりに鳴らしながら御者を呼んでみるが、一向に反応が無い。馬に鞭を入れている音も聞こえず、御者が眠ってしまったのではと疑いを持ち、小窓を開けて肩まで身を乗り出してしきりに目を凝らし御者の姿を見ようとするが、御者台の上にあるべき姿がない。
 その内に馬が二の足を踏んで止まった。ようやく身の危険を感じて慌てて体を客室の中に戻し、パトラスが銃を手にする。客室のドアを開けて少しだけ顔を出し、外の様子を伺って見るも辺りはほとんど闇に覆われてしまってよく判らない。馬車の前方を見て、パトラスは凍りついた。隣村へ続く一本道には、しばしば注意されるように山賊や野盗の類が出現したわけではない。時と場合によってはそれよりも性質の悪いものだ。パトラスは自分の不運さに愕然とする。馬車を取り囲んでいたものは、数十の赤い目。野犬の群れか、あるいは、考えたくない事だが最近山道に出没して人を襲うという狼の集団だ。馬車の側方に取り付けられた小さなランプの明かりが、馬車の周りを少しだけ照らしているが、視界はそのほぼ数メートルくらいしかない。夜の子供たちはその光源を避ける様に一定の距離を保って大きな輪を作っており、それらは威嚇も恭順の態度も見せてはいない。その静寂がかえって不気味に思えた。パトラスは銃に装填済みの弾丸を確かめていたが、扱う両手が震えてしまい、危うく取り落としそうになって猟銃を抱える形になって全身の毛穴が開くのが判った。銃を手離さなかったことで 安堵を覚えたが、逆に自分がどれほど危機的な状況に陥ってしまったのかを再確認して立ちくらみしそうになる。

 パトラスの呼吸は乱れ始めていた。鼓動は全身の動脈の辺りで耳にうるさいほど強く打っており、これ以上強くなればどこかから破裂して鮮血を撒き散らしそうでもあった。ふと、そうなれば楽になれるという絶望感に襲われて身震いをする。今自分がここですべき事は狼たちを威嚇し、御者台に上って馬車を走らせ、一刻も早くこの場を離れる事だ。残念な事だが、本来の馬車の持ち主である御者本人は既にこの世の者ではないだろう。とすれば、襲撃された事実を何としてでも伝えなければならない。頭では判っているのだが、一昨日の夜と同じように足の震えがとまらない。
 こんなときに、ジョシュアならどうするのだろう。ルガースならばどうするのだろう。

 色々と考えてみるが、自分の中の脅えがなくなる事はない。それだけ想像してみても、彼らがこんな極限状況に置かれた記憶は無かったし、あったとしても自らが同じ行動を取れる訳が無い。いくら仮定しても勇気を奮って行動を起こさない限り何も解決はしない。ふと我に帰り、再び馬車の外に神経を集中する。妄想に耽っていた時間はほんの数秒ほどだったのか、外の狼たちにも動きはなかったようだ。パトラスにはそれほど狩りの経験もなかったので実際に間近で狼の群れに出会った事はなかったのだが、整然と統率の取れた動きに脅威を感じる。群れのボスを倒せばあるいは司令塔が無くなった集団の動きも鈍るかと、また外を覗こうかと窓に顔を寄せると、何時の間にか音も無く狼のうちの一匹が光源の中に入ってすぐそばまで近づいている事が見て取れた。狼は冷たい目でこちらの様子をじっと見詰めており、更に近づこうと歩み寄る。
 パトラスの思考はそこで途切れ、両目が見開かれると共に急激な恐慌状態に陥った。
 既に充填してあった猟銃は引き金を引かれると共に散弾をばら撒く。余りにパトラスが動揺していたために客室の扉は開かれておらず、散弾は内側に張られたサテン地を突き破り、それでも弾丸は勢いを失わずに扉を吹き飛ばした。外から内を伺っていた狼は自分の方へ飛んでくる扉を横に飛んでかわすと、地面に降りてから馬車の方を振り返る。その目はあくまでも冷静で最初から弾丸が放たれる事を予測していたかのようでもあった。咄嗟に放った一撃で後方にバランスを崩したパトラスがその轟音で自分を取り戻すと、客室の内外をしきっていた結界の一角が失われた事を知った夜の住人達が獲物を求めて乗降口の方へと移動し始める。その数え切れない赤い目を見て初めてパトラスは自分の取った行動がどれほど愚かしいものであったかを思い知る事になった。
 あと一発は即座に放つ事ができる。しかしそれを放ってしまったならば、狼の群れの前にしばらくの間無防備で晒されなければならず、パトラスは早くもその手に構えつづけた唯一の力を行使する手段を持て余していた。その視線は扉を横にかわした姿に釘づけにされていたが、その一匹は先程の一撃で何らかのダメージを負ったのか、後に続く数匹と入れ替わり、自信に満ちた行軍を妨げない。
 彼らとは対称的に恐怖を全身で表現するパトラスは、その手に殺傷能力のある武器を持っていたとしても何ら脅威に成り得ていなかった。客室の反対側の壁に寄り添うように逃げ場を求め、そこで逃走の手段を遮られたパトラスが何一つ良い解決策を講じる事ができないまま時間に身を委ねている間に、狼達は充分に距離を縮めることに成功して一足飛びに襲い掛かることが出来る位置にまで辿り着いていた。パトラスの緊張が限界を超え、その口からどのような案もなく発せられた怒号を合図に、狼達は飛びかかる。実際には客室の出入り口は人が1人乗れるだけの空間しか確保していなかった為に目の前に広がった姿は一匹だけのものだったが、それに向かってパトラスの最後の一発が命中し真っ先に攻撃してきた狼の体が真後ろに反り返って客室に空いた矩形の暗闇に消えたと思った瞬間、一瞬だけタイミングを送らせて飛び上がった狼の体がその上に躍り出た。

 パトラスの目に映ったものは、薄暗がりの中でもはっきり認識できる狼の白い牙と必要以上に赤い舌だけだった。

──月明かりのほとんど届かぬ山道に、再び静寂が訪れた。

 連なった山の裾野を中心に森が広がっている。隣村へ続く一本の山道に分けられた針葉樹林の片隅に秘そむようにして家屋が建てられていた。しかしそれを使うものがいなくなって久しいのか、雑草が覆うにまかせてあり建てられた当初はさぞ豪華であっただろう飾り彫刻はあるいは黒ずみあるいは欠けて元の形が判明できないほどであった。注意して辺りを見る者があれば崩れた石の建築物の残骸を発見しただろう。その残骸は主となる邸宅とは作られた年代が異なっており、ずっと以前に放棄された廃墟に誰かが邸宅を新しく作ったものだと想像できる。邸宅の規模はそれほど広い敷地を使って建てられた物ではなかったが、作者は念を込めて意匠を凝らした様で、飾り彫刻にも代表されるように各所に趣向が散りばめられていた。新築の頃は人の目を引いたに違いないが、現在この邸宅を使用する者にとっては決して快適であるとは言えない物となっている。屋敷が手入れをされなくなってからは荒れ放題らしく、ただ赤い尖塔だけがその存在を主張しているのみだ。
 ルガースは壁に掛けられた絵画を見ていた。特に有名な画家の手によるものとは思えなかったが、それでも女性の姿が情熱を込めて描かれているのは判別できた。油彩らしかったのだが、まったく手入れもせずに放置してあったことから色は褪せてしまっており、保存状態は極めて劣悪だった。ルガースには絵の心得はまるで無かったのだが、前の住人が絵を放って何処かへ行ってしまったことからもその絵はさして重要なものではなかったのだろうと推察したのだ。
 部屋の中は全体的に饐えたような匂いが取れなかったが、しばらく寝泊りしているうちにそれにも慣れてしまった。決して清潔とはいえなかったが、またベッドの上で眠る事ができるとは何と幸運なことか、それを思うと、自分達が逃亡生活を送っている事を忘れそうになる。館の中はとても静かだった。山道から森に入りしばらく歩くと生えている植物の傾向が変わり比較的背の低い雑草に変わる。それでも茂る草木に立ち入る隙間を探すのも容易ではなかったのだが、元来は庭園だったものが乱雑に群生する目に遭ったのか、邸宅を人の目から隠す事と周りの音を吸収して館の中を静寂に包む効果を上げているようだった。壁の絵から離れ、再びルガースはベッドに寝転んだ。部屋の中に瞬時に埃が舞ったのだが、部屋自体が薄暗いこととルガースがそれに拘泥しなくなっているために彼の注意を引くことはなかった。ルガースは何を考えるともなく上方の天蓋らしきものを見詰める。昔はベッドを飾っていたであろう赤茶けた色の布切れを見ると、時間の流れが色々な物を風化させる事を気付かせられる。自分の存在は村の人々の記憶から風化していくのだろうか。そう考えると、反対に自分の中に残し てきたものへの想いが根付いている事に思い至る。母親は孤独な暮らしを送る事になるだろうか。ニナを追う自分を銃を向けてまで止めようとしたパトラス。今度の狩猟祭からは彼一人が成績の悪さを目立たせる事になるのだろう。こうしてここにいる事で、周りの多くの人々に迷惑を掛けてしまった。といって、これから村に戻って行く訳にはいかない。例え誰に憎まれようと、今ここで自分の助けを求めている愛する者を見捨てていく事は出来ないと考えていた。

「何を考えているの」
 ルガースは声の方を振り向いた。ニナが気付かぬうちに部屋の中に入ってきたのだったが、そうした彼女の現れ方にルガースは慣れ始めていた。元々ニナは騒がしい種類の女性ではなかったが、それでもこの所の気配の消し方は尋常であるとは言えない。彼女自身の言う通り、その気になれば黙って命を奪う事も可能なのだろう。そう考えれば心中穏やかならぬものを感じてもいいはずなのだが、今は不思議と違和感を感じなかった。物腰や態度がまるで変わってしまっても、ニナの姿をした生き物の中に確かに以前の彼女が残っているような気がしていたからだ。ニナはゆっくりベッドの端に寄ると、ルガースに背を向けて腰掛けた。ふと、自分の部屋でこうして夢を語り合った記憶が蘇り、何かしら切ないように思えてもくる。果たして自分達に希望はあるのだろうかと、底知れぬ不安に負けてしまいそうにもなる。
「──色々な事をさ。とりとめもない──、そうだな、母さんはどうしているかな、とか」
 気のせいかニナの体が一瞬強張った気がして、何か不味い事を口にしたのかとルガースは内心舌打ちした。しかし、ここで謝ってしまうとニナに対して咎めているような言葉になりそうで言葉を発するのはやめにした。
「わたしは──、もう帰る場所を無くしてしまったから仕方ないのだけれど──、あなたまで付き合う必要はないのよ」
 ニナは振り向かない。ルガースは彼女の背中に向けて言葉を続けた。
「必要はあるさ。君がいくら強い力を得たと言っても万能なわけじゃない。僕には君が村の誰よりも助けを求めているように思えるんだ。それに、自分が選んだ事なんだから、悔いる事は──」
「わたしは一人でも生きていけるわ。昔のただ何も知らず漠然とした期待感だけを抱いていたニナは死んだのよ。ルガース、あなたは自分で選んだというけれど、それにしたってわたしの運命に巻き込まれているだけで、後できっと──」
 ニナは棺の中に収められたときと変わらぬ格好をしていた。だが、白いはずの経帷子は様々な理由によりまだらに赤茶けたボロ布と化している。ルガースはふと、吸血鬼も汗をかくのだろうかと思いつつニナの背中を眺める。汚れた衣服からのぞく彼女の白い背中を見ると、彼の心にある感情が起こった。
 ルガースは、できるだけ自分の気持ちを正確に言い表せるよう言葉を選びつつ彼女に告げる。
「ニナ、──君を愛している。この数日間で色々考えたんだ。君を愛していると言う事は、君に何かをして欲しいわけじゃない。僕はただ君を愛したいだけなんだ。君が無事でいられるように助力する事だけが今の望みだよ」
 言葉をかけられたニナに反応はない。こちらからは顔が見えないので表情から読み取る事はできないが、普通にその言葉をかけられた者ならば何らかの感情を揺り動かされても不思議はない。普通の人間ならば。
 部屋の中は蝋燭の明かりに包まれている。ニナはベッドの頭の方に座っているので、彼女の姿の背には大窓が見えた。昼間ならばそこから森の風景が見えるはずだが、今はただの黒い板にしか見えない。気候は穏やかで風もないのか木々の葉の揺れる音もなく二人の言葉が途切れると簡単に部屋の中を静寂が満たしていく。
「素晴らしい言葉だな。人間としては最高級の善意だよ。勿論、誉め言葉さ」
 ルガースが上半身を起こして部屋の入り口の方を見ると共にニナも肩越しに振り返っていた。そこには金髪の若い青年が壁によりかかっていたのだが、その姿に声を掛けたのはニナの方だった。
「クディック──、いつの間に」

 クディックと呼ばれた青年は口の端をゆがめて笑いかける。見るものによっては極めて人なつっこい素振りにも見えるが、一流のペテン師が得意とする誠意のない笑いにも似ていた。
「待たせて済まなかったな。少し旧友に用事があったものでね」
「クディック──?すると彼が──」
 ルガースはニナの表情と新しい屋敷の利用者とを見比べる。クディックはそういった好奇の目を向けられる事に慣れているのか、あるいは自らそうされるように仕向けているのか、平然と視線を受けとめた。
「ニナの父親だよ。君はルガース君だね。初めまして、という事になるかな。私の方は君をよく知っているのだが」
 クディックは一旦言葉を途切る。そうして次に来るであろうはずの相手の反応を待つが、二人は彼の次の言葉を待っているだけのようで、間の抜けた雰囲気が流れるのみだ。
「おや?驚かないね。こんなに若い姿をした男がニナの父親だと名乗ったと言うのに、ニナからある程度の説明は受けているのかな。まったく、最近はつまらないな。これは刮目すべき異常な現象なのだがな。科学の発展は人間にどれほど不可思議な事であっても自分なりの理屈で理解してしまうだけの強靭さを身に付けさせたとでもいうのか?」
 クディックは大袈裟に驚いて見せる。それはちょうど喜劇役者か道化の好むやり方で、古典演劇の方法を真似たもののようだった。
「ふざけないで」
 ニナは睨むように彼女の父親と名乗る青年を見詰める。本来から言えばこの構図は父親に反抗する娘というものになるはずなのだが、外見が若すぎる為にどうしてもちぐはぐな印象を与えてしまう。まるで都会に出て行った弟を叱り付ける姉、といった風にも見てとれる。これが本当に演劇だったならば、演者を選んだものにまったく才覚がなかったと言わざるを得ないだろう。ただ、クディック自身の動作はおどけているのだが、彼の表情は真剣そのものである。果たしてどこまでが意図的な行動なのか、本人にすら判っていないに違いない。
「ふざけてはいないよ。私だって今で言う科学者を目指した人間だったんだ。ヴァンパイアになった今だって、自分の持つ疑問に対する探求心を忘れていないだけだよ。そんな事より、さっきの話だが」
「何の?」
「ルガース、君がついてくるという話だよ」
「ああ、聞いてらしたんですか、なら話は早い。私も──」
 ルガースの態度はクディックの見た目に反して恋人の父親に対するものになっている。状況を知らない第三者が見れば、ともすればクディックの方が若く見えがちな為、まったくその意図は理解できない事だろう。クディックは顎を引いて眉間に皺を寄せる。口元に緊張を込めるのは、言い難い言葉を言おうとしている印だ。
「邪魔なんだよ。端的に言って。君からすれば婚約者の姿をした彼女は恋慕の対象であって別離しがたいのかもしれないが、考えてもみろ。お前が付いていた所で何ができる?昼の間の見張り番か?夜は眠らないで?無理だな。むしろ私がついてニナに見つからない方法を教えた方が早い。夜間は二人で高速に移動できるしな」
「ですが私は──」
「愛情がある、かね?それが何の役に立つ?身の回りの世話をさせるだけなら、各地で調達すれば事は済む。むしろ、君が危機に晒されたときにニナが護ろうとして命を縮める結果になる事の方がたやすく想像できないかね?」
 クディックの言葉は的を得ていた。ルガースにとってそれに従うのは拒絶を受け入れる結果になるためにあっさりと引き下がる事はできないが、実際にルガースの疲労は限界に近づいていた。元々体力は人よりも勝っている方だった為にここまで持ちこたえられたが、数日間不眠不休で普通の人間に旅が続けられるはずは無い。この屋敷に来て死んだように眠ってしまったことからも、それはルガース自身認識していた事だったのだ。加えて、自分がニナの生命に危機を呼ぶとまで言われては、それ以上主張するほどの頑強さをルガースという男は持っていなかった。返す言葉を見つけられずに黙るルガースを弁護したのは、危険が及ぶはずのニナであった。
「クディック、それは──」
「お前だって判っているのだろう?彼が眠っている間、彼を何としても護りたいと思ったのだろう?ヴァンパイアが愛情を示して何になる。所詮、我々は人間の犠牲が無ければ存在できない血族だ。それを愛した人間の隣で出来るのか?もっとも、我々の思考は極めて合理的に出来ている。自分が身の危険を感じたならば、自己存在の維持を自動的に最優先に考える。その為に、食料として随行させると言うなら話は別だが──」
「止めて!」
「同じ事だ。我々が人間の命を糧に生きている以上、いくら人間を愛しているといった所でそれは真実の愛情とはいえない。家畜に対する哀憫の気持ちとさして変わりはないのだよ」
 クディックは何時の間にか口調が老人のそれに変わっている。吸血鬼にしても、興奮すれば本来の言葉が出てくると言う事なのか。とすれば、彼はこのときまったく真実を告げていた事になる。実際、それはその通りだった。彼が特殊な立場にいる事を考えれば、彼はまったく嘘を言っていない事は誰の目にも明らかだった。
「あなたには人間としての心が無くなってしまっているのよ。わたしはまだ、人間として、人間らしく生きて──」

 『人間』という言葉を聞いた瞬間からクディックの顔に朱が走る。それは言葉の意味が示す通り本当に血液の流れが多くなったとは考えられないのだが、それでも表情は瞬時に怒りのものへと変わった。目尻が釣り上がり、語気が荒くなる。寄りかかっていたドアから身を起こし、右手を何か掴むように前へ出して振り払いながら彼は吐き捨てた。

「人間のどこが素晴らしいというのか。彼らは自らの種を特別視し、他の動物と一線を画しているかのように錯覚をしているが、その違いたる『社会性』や『人間性』がそれほど優れたものだというのか。社会性といえば聞こえは良いが、その実は個体の弱さから来る恐怖感の裏返しではないのか。我々血族は基本的に単体だ。我々はその個体のままで生きていけるのだからな。それに、人間性を唱えてみたところで、それにどれだけの価値があるのか。確かに我々は人の血を奪い殺すことで生を続ける。しかし、それは人とて同じ事だ。むしろ、生とは関係の無いところで殺しを続ける人のほうが『人間性』を欠しているとはいえないのか。彼らの言う特別さとは一人では生きられない事と、圧倒的に大量の殺戮が行えることと、自らの生命を断つ事だけだ。それでも尚、自分の中の『人間』を愛すると言うのか?」
 ルガースはクディックの豹変ぶりに圧倒されてまったく口をはさめないでいたが、言葉を投げかけられたニナはさして動じている様に見えなかった。父と娘という関係がそうさせるのか、或いは吸血鬼という同族である証拠なのか。ニナはあくまでも冷静に次の言葉を継ぐ。
「わたしの本当の母さんのことはどうなの」
「──!?」
「あなたはその『人間』を愛したのでしょう、なら──」
「確かに私はリーテルを愛した。しかし、リーテルを殺したのもその『人間』の心なのだよ。私の『愛』はあるいは滅び行くものへの感傷だったのかもしれない」
「『感傷』こそもっとも人間的な感情だわ。自分が生きている事に余裕を持った哀れみでしかないのよ」
 クディックは再びドアに寄りかかり静かに息を吐いた。正しく言えば、息を吐いたかに見えた。視線を一旦下に向けたあと、ニナに向ける目は優しさを帯びている。最初の道化た行動は廃して、今はただ彼女に自分の真意を告げたいと願っているようだった。
「ニナ、おまえは今自分がどんどん人間的な思考から遠ざかっている事に気づいているのか?──まあいい。ともかく、お前がルガースと共に旅を続けたとして、死ぬ確率が増えるだけだ。加えてお前にはヴァンパイアとして生きていく術を教えなければならない。それには、同族に認めてもらう事も含まれている。我々血族の長と呼ばれる指導者に謁見し、恭順の意思を明確にしない限り、同族から命を狙われることとなる。そうすれば、人間と同族を同時に敵に回し、寿命を著しく縮める事になるだろうな。生きることを至高の目的と考える我々にとってはそれは最も愚かな行為と言える」
 これは歴史を通じて永遠に繰り返される会話だった。年長者はいつも自分の子の行く末を案じて愚かな行為を諌めるように説得する。これは人生を半ば終えた者が良くする行動である事に彼は気づいていない。自分ではまったく人と異なる生き物である事を強調しているものの、その精神は極めて類似していると言う事だ。そして、その年長者の説得に対する若者の答えもまた、歴史を通じて普遍のものであった。
「愚かだ愚かだというけれど、やってみなくては判らないわ。してみないうちから尻込みするのはそれこそ愚かな事ではなくて?」
「判っているさ。やってみなくとも、他人がそれをしているのを見ていればすぐに判る。人間はよく結果の知れない野蛮な勇気を持った冒険をする際に『歴史が証明する』などとのたまうが、私が歴史なのだよ、ニナ。私はすべてを見てきたのだ」
「どうやったらそんな過信を生み出せるのか、とても興味が有るわね」
 ニナが視線をそらし、下を向いた。先程から様子を見ていたルガースがようやく口を挟む。
「もういいんだニナ」
「ルガース?」
「僕のわがままだったんだ。僕の目的は『君を守ること』だ。君を守る事において僕より数段優れた彼が一緒なら、こんなに心強い事はないよ」
「本気で言ってるの」
「──本気だとも」
 彼の言葉がその気持ちから生まれたものでない事は容易に理解できる。ただ、議論が行き詰まり、より良い結論が出そうになくなった状況であれば、彼がそう言わざるを得ない事も確かで、ニナは矛先を変えて問い詰める。
「『ずっと一緒に居てくれる』という言葉は嘘だったの」
「──嘘ではないよ。僕の心はいつも君と共にある。それに、君は簡単に死んだりしない強い存在になったようだし、同じ空の下に生きているならいつかまた会えるさ」
「そんなの────卑怯よ」

 それは拒絶であった。数刻前まではニナが拒絶する立場であったはずのものが、今はまったく逆になってしまっている。「いつかまた会える」ニナ達にとって時間は無限に残されているが、その生から見ればルガースの死は一瞬で訪れる。それ故に今から過ごす時間を有意義に使わなければならないものを、必要無いと言ってしまうのか。ニナはその変わりようを信じる事が出来なかった。心が共にあるだけでお互いを信じられるというなら、何も含まない空気ですら愛する事が出来るに違いない。しかし、そんな気持ちにはとてもなれなかった。ルガースの気持ちを抱いていけたとして、自分の心はどこにあるのか。ヴァンパイアとなった自分の心は。
 彼らの会話が終わりに達したと判断したのか、クディックは壁を離れ部屋の中央へと静かに歩み寄る。先程は掴むように突き出した右手を今度はニナへ握らせるように差し伸べる。それは新しい世界への鍵だった。その扉を開けば、確実に世界は広がる。代償として何かを完全に捨てる事になろうとも。和合と親愛の握手を前に差し出したまま、クディックはルガースに一瞥を投げかける。
「ルガース君は判ってくれたようだな。餞別と言うわけではないが、村に戻ってみるといい。すべての問題が解決しているはずだ。これは君に対する善意と共に、私達の存在の保護も兼ねており、極めて合理的な選択なのだよ。もしニナを連れ出した事を詰問されたら、体を傷つけるにしのびなく、山小屋の近くで火葬したと話せば良い。もっとも、そこまで君に関心を持つものももはや居まいよ。村は安堵につつまれているはずさ。さあ、行こう──、ニナ、我々の世界へ」

 再びルガースは壁の油絵をぼんやりと見詰めていた。元は赤かったであろうドレスを身にまとった女性は何も語り掛けることは無い。その表情から何かを得ようにも、過ぎ去った年月の重みが塗られた顔料をひび割れさせ剥がし尽くし、かろうじて輪郭を保っているのみであった。作者がそのモデルとなった女性に何を語らせたかったかは永遠に失われた謎となってしまっている。
 もっとも、絵画というものは本来そういうものなのかもしれない。画家が何かに感動し、その感動を見るものにも与えようと絵画を製作する。後世になってそれを観る者は、確かに作者と同じ気持ちを共有できればいいのだが、完全に同じ気持ちを持つということは有り得ない。人は誰しも自分の経験を元にしか判断を下すことは出来ず、画家が稀有な経験を絵画に塗り込めたとしたら同じ経験として共感を得るものは格段に少なくなってしまうだろう。とはいえ絵画を鑑賞する事は誰にでも許されていることであって、鑑賞者はそれぞれ違う思いでそれを解釈する。それは平均的な絵画への接し方であるのだろう。
 ルガースにとってもそれは有効的で、彼は赤いドレスの女性を愛する者になぞらえて視界に捉えていた。それを見続ける行為がさして意味の有るものにも思えないのだが、かといってまるで何をする気も起きない。それほどの気持ちになったことは無いことではなかったのだが、それでも記憶にそれほど頻繁に残されていないものであることだけは確かであった。ベッドに横たわっても眠れそうにない。ベッドの脇に備えられた古めかしい引き出し付きの机にもたれかかり、腰を床につけたまま向かいの壁にかかる絵を眺め続けている。

 ニナは自分の世界を選んでいった。父親と名乗るクディックは外見こそ若い青年の如くであるのだが、その実は数百年を生きた年長者であり、その経験から来る自信と才気は触れる者を魅了するに違いなかった。それが例え親族であったにしても、異性の立場からすれば頼り甲斐のありそうな雰囲気を察したに違いない、ルガースはそう信じて疑わなかった。本来ならばそのような解答を自分に課すなどといった奇特な行為は珍しいものなのだが、ルガースという男は自分の中ですら虚飾を許すことができない、極めて実直な、ある種の人間からは極めて愚かな男であった。
 自分が共に過ごすよりも余程彼女の安全を確実なものに出来るに違いない。自分のように、自分たった一人の生活すら満足に助けられない未熟な男とは雲泥の差だ、そう思っていた。
 何を意図するともなく、立ちあがって油絵に歩み寄る。絵の大きさは自分の上半身くらいあり、女性の腰の辺りから上はやや見上げなければならない程の高さがあった。絵の具は乾ききってひび割れていたが、近くでみると絵の具がはねて山の様に盛り上がった部分がある。指で触ると、音も無く崩れて下に落ちた。落ちたのは女性のドレスの裾に当たる部分らしかった。衣装からすればやや高貴な女性なのに違いないが、この辺りの村に貴族が住んでいたという話は聞いた事が無く、あったとしても遥かに遠い昔に違いなかった。顔の輪郭は元々はっきりと描かれていなかったのか、色が褪せている今では更に判別しづらい。

 ルガースは以前市場へ出かけていったときに小さな絵を買った事を思い出した。作者も判らず、価格も大したものではなかった事からやはり無名な画家の手によるものに違いなく、あるいはそれを売りに来ていた流れ者風の老人自身が描いたものだったのかもしれないが、描かれている風景とそこに立つ女性がルガースの琴線に触れたのだ。咄嗟にそれをニナへの贈り物にしようと考えて購入したものの、渡す機会がなく今まで家に置いたままだった。こんな時に思い出してしまった事をルガースは苦々しく思う。おそらく、あれを彼女に渡す機会は永遠に失われたに違いない。ニナ達はこれからどれだけ生きられるのか判らないが、自分が生きているうちに会える可能性は恐ろしく低い。
 ルガースが我に返るとその視線が目の前に据えられたままであったことに気が付く。絵画の女性をじっと見詰めつづけているとそれがニナの顔に変わってきたためにルガースは慌てて目を閉じた。だが、目を閉じるとさらに彼女の笑顔が鮮明に浮かんでくる為に彼は策もなく再び目を開く。言いようも無い虚無感に包まれ涙腺が緩む。目の前の絵画が滲んではっきりと見えなくなる事をかえって救われるように感じて、彼は流れる涙を拭おうとはしなかった。

 不意に、左手から破裂音が聞こえる。同時に、視界が大きく揺れた。


 ルガースが咄嗟に振り向こうと思う間もなく、彼は大窓に向けて飛ばされた。右の方へ飛ばされながら、ルガースは自分に降りかかった災難について考える。いや、災難であることすら現在の時点では判別できていない。痛みですら、彼の脳に届くほどの時を与えられていなかったのだ。余りに急激な事態に手で体を守ることも出来ずに肩からベッドの端をかすめ、窓の下方に直接激突してしまう。ガラスは音を立てて大きくたわむ。幸いなことに窓に頭から突入することは避けられたが、窓枠の下の手すりに頭をしたたかにぶつけてルガースの意識が朦朧とする。床に崩れ落ちつつ、やっと手で上体を支えたまま持ちこたえ、何とか部屋の入り口の方を振り返ると、そこには人影があった。
 肩まで伸ばした髪とがっしりした体格で誰かは判断できる。高く顔の真中に位置した鼻と獲物を睨む猛禽類の目。鷲の様な印象を与える外観は、ジョシュアのものであった。彼の顔が怒りに歪んでいる。その怒りが自分に向けられることは記憶の中ではほとんど無かった。彼が両手を前に出した形で止まっているのに気づき、その手の先に握られた黒く長い物体に視点が移っていく。それが猟銃であると判り、銃口から煙が上がっていると認識したと同時に、自分の状態へと思いが移行する。
 体中を覆っている熱い衝撃は、かつて味わったことがないほど激しい痛覚だと感じ、脇腹から夥しい量の出血が為されている事を理解した。瞬時に恐慌に陥り、思わず叫びそうになるが、意識がはっきりとしてくるとともに襲いかかる強烈な焼ける痛みに声が出ず、ただ力のない息が吐かれるのみだった。自分が今までいた場所に目を移すと、そこには撃たれた瞬間に自分の血が飛び散ったのか、赤い跡が壁に点々と着いており、油絵も汚してしまっていた。自分が撃たれたことよりも絵を汚した事に怒りを感じて睨むルガースを、ジョシュアはただ見下ろして呪いの言葉を吐きかけるのみだった。

「やっと見つけたぞ──もうこれ以上逃がしはしない。これまでの行いに報いを受けるがいい──悪魔め」

 その昔、人は悪魔の存在を作り上げた。それは元々善なるものとして創造された存在が悪の道へと自らを貶めたのだという。これは創造されし物であるはずの人間自体を元来は善なるものであることを信じたいが為に作り出した幻影に違いない。人は己の意思で悪を選択するのではない。そう選択させる悪のみの存在にしてもその根源には善があったというものだ。だが、神は悪を滅ぼすことはない。故に人の間にも、悪が失われることは無い。
 それでは悪とはどのようなものなのか。あるいは或る者にとって理解不能であることだけが悪の定義なのかもしれない。それならば、本来人は人を悪として裁く事は許されておらず、裁きと称して制裁を加えること自体が悪に組する行為であると考えられなくもない。その意味では、この場合ジョシュアは完全に悪に身を染めていた。まるで無抵抗の者に警告もなく攻撃を加えていること自体、通念からも悪と捉えられることであったろう。とはいえ、この場所においてはその悪と正義を唱える傍観者は存在しなかった。ジョシュアの中にも、客観的に判断できる材料が備わっていなかった。彼にとってはルガースこそが自らの愛する、様々な意味で愛した者を奪った悪の存在そのものであったのだ。

 ルガースにしても、冷静に判断できる状況であったならばその思考を理解することもあったろう。正しい形で彼に反論し、互いの置かれた立場を主張することもあったろう。しかしそのどちらも、この部屋の中では無意味となった。ルガースにとってさしあたり必要な事は、これ以上の攻撃を受けないように回避することだけであり、その生命を永らえる事のみが火急の選択であったのだ。
 不思議とルガースは普段傷を負った時に感じる痛みを覚えていなかった。ただ最初に受けた衝撃と、大脳の一番奥にある本能から発せられる、絶え間ない警告だけである。咄嗟に自分の身を隠すために部屋の周りを見渡し、体が十分に隠れられるだけの空間を見つけ出す。ルガースにとっては永い時間であったことだろうが、実際に流れた時間はほんの数秒であった。体よりも先に動く意識に歯痒さを覚えながら、やっとの思いでその直前まで眠りに就いていたベッドの陰に身を隠すと、ほんの刹那遅れてルガースの居た場所を2度目の銃弾が吹き飛ばす。使い古されてすっかり固くなっていたベッドは中身を撒き散らす事もなかったが、他に音を立てるものの無い部屋に響く乾いた音と大きく穿たれた穴を見れば、それが人体に向けられたならば容易に対象の生命を絶っていたことは想像に難くない。

 2度目の弾丸を放った後、それがルガースを捕らえなかった事を即座に判断したジョシュアは半ば機械的にそれまで立っていた部屋の入り口から外へ身を翻し、銃弾を装填するための用意を始めた。これまでの状況は圧倒的にジョシュアの優勢を示している。狩人としての本能がそうさせるのか、ジョシュアは無意識に装填までの時間を得る意味で獲物に語りかける。部屋の中を見れば、退路は唯一彼が立っている入り口のみであった為にそこまで警戒する必要もないのかもしれないが、ジョシュアのその慎重さが今までの狩りを成功に導いていたこともあるし、また、特異な状況からしても戦法を変える余裕は残っていなかった。心なしか、侮蔑の文句を述べる声に震えが感じられる。それはとりようによっては、絶好の獲物を得たことによる歓喜の震えにもとれた。

「ハ!抵抗することすらできないとはな!貴様はそうやって陰に隠れているのが似合っているんだろうさ。罪の無い人々を何人も手にかけることはできても、こうやって真正面から向かう者には力を発揮できないのか!化け物め──、永遠に墓から蘇ってこられないようにしてやるよ」

 ジョシュアの手は抜かりなく動きつづける。その眼は手元を半分、部屋の状態を半分見張っている。対してルガースは最初から圧倒的な劣勢に陥っていることを実感していた。不意を突かれての初撃もそうだが、退路を絶たれている上に部屋の状態を見渡せる位置を確保されてしまっている。それほど死に瀕した危機的状況に陥った経験はかつて無かったが、それくらいの事は自分でも判る。加えて体から流れつづける血液が体温を奪い始めている。この閉塞状況を打破できる時間が自分に余り残されていないことも判っていた。狩りに習熟したジョシュアを相手にして、果たして自分は生き残ることができるのだろうか。だが、それを為さない限り全ては終わりを告げてしまう。
 ジョシュアは装填を終えて、ゆっくりと部屋の中に姿を再び現した。銃を構える手は、その緊張とは裏腹にルガースの隠れた場所を狙いつつ寸分も狂わない。銃口の延長線上に見えない敵の姿を捉えたまま、一歩づつ距離を縮めていく。
「苦しいか?苦しいだろう?助けを乞いたいか?ここに貴様を助ける者は何も無い。そうやって人の命を奪っていったんだ。その罪を思い知ることだ──」

 ルガースの隠れた場所から2歩ほどの距離を置いてジョシュアは足を止めた。しばらくその場で獲物の様子を伺い、あらゆる変化に対応できるよう備えていたが、実質勝敗は明らかなはずであった。最初にルガースの脇腹を撃ち抜いた一撃で形勢は決まっている。ベッドの陰のルガースが静か過ぎることからしても、或いは銃撃を受けたショックで気絶しているか、大量の出血によりもはや絶命しているかもしれない。ルガースに反撃の手段が無いと判断し、再びその距離を詰め始める。ベッドの端からルガースの姿が見えるか見えないかの位置で更に反撃を誘うために挑発の言葉を投げかけた。

「これで楽にしてやる」

 ジョシュアが小指から握るように引き金を持つ手に力を込める。ルガースに少しでも動きがあれば、その体の中心を今度こそ貫いて仕留めるはずだった。その一瞬でルガースの姿が視界に入る刹那、銃と獲物の線上に一つの物体が浮かび上がった。ジョシュアはそれを何か判断する前に引き金をひく。銃弾は直線を描いて飛び、激しい金属音を立てて物体を床の上に投げ捨てる。丁度その物体が視界から落ちていくと同時に左側をよぎる黒い影を目だけで捉える。振り向きざまに再度の銃弾を放つが、完全に狙いを定めていた先の一撃とは違い、今度は大きく的を外した。手応えは無い。銃弾のほとんどは壁に当たりその土を散らしたのみだ。間一髪で逃れた獲物は黒い残像を引きながら部屋を飛び出ていく。

 ジョシュアは一度だけそれまでルガースが隠れていた場所に目をやるが、そこにそれまでの主人と換わって転がったものがそれまで部屋を照らしていた燭台であると知る前に部屋を出た標的を追い始めていた。とはいえ、手元で再装填を行いながらの追跡である為にその速度は最速では無い。ジョシュアは頭に血液が上ってくることを感じながら、己の初歩的な過ちに舌打ちを繰り返していた。瀕死のルガースのどこにそんな力があったのか、普段の彼を知るジョシュアにとっては信じ難い事であったのだが、手負いの獣を追い詰めた瞬間が最も危険であることは当然の話で、狩人としての腕に誇りを持ったジョシュアにとって、その方法で出し抜かれることが最も効果的な侮辱である事も確かだ。
 ジョシュアにはそれを悔いる時間は無く、体と手先は素早く動きつづけるのだが、不思議と時間が緩慢に流れている錯覚も感じ始めていた。ルガースに奪われた主導権を速やかに取り戻さなければならない。その為にもっとも合理的な動きをしてみせることが差し当たっての課題である。ルガースがその主導権を行使せず、逃亡を図った時点でジョシュアの生命の危険は薄まったが、その為に彼は自分の行動を振り返る余裕を持ってしまい、一抹の不安を抱えることになる。
 確かに力はもっていたが、まるでその力を使おうとしなかったルガース。何をやるにものろまで、皆からうすのろと呼ばれていた男。実際、ジョシュアもそう考えている節はあった。ただ、どういうわけかいつも彼を弁護する立場にいたように思う。今から考えれば、あの鈍重さがルガースの演技だったとしたら、俺はなんと間抜けな役割を演じさせられていたことだろう。心の中では、自分を嘲笑していたに違いない。その本性を曝し始めたのがあの墓地だったとするならば、まるでジョシュアに当てつけるとでもいった行動を許すことはできなかった。どうしても自分の手で決着をつけて、この数ヶ月の悪夢を終わらせたかった。
 村の者や、ニナの為でもない。自分だけの為に。

 一瞬先に行動した分ルガースの方が有利である事は確かだったのだが、彼にしても屋敷の内部について詳しく熟知しているという訳でもなく、その点でそれほど有利な点を伸ばしているとは言えなかった。クディックとニナが既に外へ出ていったのどうかはルガースの知るところでは無かったのだが、少なくとももし彼らがそう遠くまで逃げていないとしたら、1階にジョシュアを引き留めておくのは余りにも危険が大きすぎると考えて、ルガースは一気に廊下を駆け抜けた後で階上へ上がっていった。普段ならば使う者も無く、手入れもされていない為に駆け上がるのをためらわれる程の階段であったのだが、この際それを考える余裕も無い。

 ただ足元が抜けて崩れない事を祈るのみで2段とびで上がり、ドアを開けて広間へと出た。ジョシュアの挙動も決して隙のあるものではなく、瞬時の判断で的確に彼を追ってきたために、ルガースは広間から階段に通じるドアを閉めたとて何ら落ち着ける気分にはなれなかった。後ろ手にノブを回した後、素早く隠れられそうな場所を探す。広間を横切って向こうに見える小部屋の扉が比較的頑丈そうに思えたので、そこに駆け込んで内から錠を下ろした。その中はちょっとした書斎になっている。自分の右手にあった背丈以上に大きな本棚から手を掛ける部分の本を掻き出して下に投げ捨て、ドアの前に棚を寄せて扉が破られないように細工をすると、そこでルガースは自分の中の激情が収まっていくのを感じていた。荒々しく息をつきながら本棚に寄りかかりそのまま腰をついてしまう。両足は前に投げ出したまま、床を見下ろすと力任せに投げた本が散逸している。頭を後ろに投げ出すと、新たに上から一冊の本が落ちてきた。

 ジョシュアはルガースが階上へ姿を消すのを見届けると、手すりを掴んだままこれからの行動を再考する事にした。ルガースは咄嗟に階上へと逃げ場を求めた。これはすなわち、即逃亡につながる行動を採った訳ではなく、ただ単純に衝動的に退却したというだけの事だと解釈した。ならば、1階で完全に退路を断つことによって、自分の狩りの成果を確実なものにできはしまいか。そう考えたジョシュアは、自分がこの屋敷に入ってきた際に周りを照らしていたカンテラのような照明器具を思いだし、屋敷中の布類を一つの部屋に集め出した。ほとんどはボロになっており、役に立つとは思えなかったが、そこに燃料として使われていた油をかけ、ライターを点けたまま放る。乾ききった布は瞬く間に燃え広がり、同じく乾いている屋敷全体を燃やし尽くす為に火の手を広げていった。視界のあちこちで炎が揺らめき始めるのを見届けて後、ジョシュアは自分の獲物を追い詰める為に階上へと足を運んでいった。もはや自分が助かることを考えた狩りをするつもりはない。自分の敵にとどめをさす、それだけである。

 ルガースはこの数日間眠っていた部屋に飾ってあった油彩画を思い出す。あそこに描かれていた女性はどんな顔をしていたのだろう?もう今ではひび割れてしまってその美しさは分からない。もっとも、美しさを描いた絵だったという確証は何もないが。それとともに、家に置き去りにしたままの絵画に思い至る。中央都市の市場に出掛けた時、粗末な身なりをした老人が無口に売っていた1枚のあの絵。梱包も解かないまま、部屋の隅に置き去りにしてしまったその絵を思い出すと、ニナと永遠に別れてしまうことが悔やまれる。自分が再びあの絵を見る度に、ニナのことを思い出すのだろうか。いや、ここから生きて出られなければ、それも叶わない。
 それにしても、あれは誰が誰の為に描いたものだったのだろう?或いはそれは売っていた老人自身が描いたものなのかもしれなかったが、彼の口からはついに何も聞く事はできなかった。緑の中に遊ぶ少女、それをニナの姿と重ね合わせて彼女に贈ろうとしたのだったが、それも出来なかった。思えば、自分は生前のニナの為に何をしてやれただろう?何を贈る事ができただろう?彼女の臨終の刻に見守れなかった悔しさに、彼女の護衛をかってでたものの、自分が役不足であると思い知ったのみであった。ニナに贈った指輪にしても、彼女が死を迎えていた際に指にはめたのみで、彼女に面と向かって渡したわけではない。思い返せば、万事がその調子であった。ルガースはそんな弱々しい自分を憎みたい気にもなったが、今ではそのどれもがさして重要であるとは思えない。ただただ怠惰に、時間のままに過ごしていたかった。

 力をほぼ失った両手は既に床についたままになっていたが、その手を動かして傷を確かめようとすると、先ほど頭上から落ちてきた本が開いたままで視界に入っているのに気付く。それは詩集のようだった。朦朧とした意識の中でそこに書かれた文字を追っていく。どうやら若い兵士が死に至る詩であったようだ。彼は脇腹から流れる血だけを動くものとして、既に動きを止めて大地に同化しようとしている。ルガースはその内容の皮肉さに笑いたい思いだった。しかし実際には、笑うことも泣く事も今の彼には不可能だった。体内の血液は少しずつ、しかし確実に外へと流出して彼の体の熱と体力を奪っていった。脱力したまま上体を床に倒し、胎児のような格好をして丸まっていると、少し楽な気がしてそのまま違う世界へ誘われているようでもあった。意識が半ば消えかけたまま、どれほどその場所でまどろんでいたのだろうか、何か固い物が頭に突き付けられて意識が現世に引き戻ってきた。

「もう逃げる気力も尽きたか」

 ルガースはもはや答えるだけの気力を持っていない。既に聴覚も衰えていたのか、狩人が部屋に入ってくる音までも聞こえなかったらしい。目を細めて前方に視点をやれば、大きな窓が割られている。隣の部屋から外を通って入ってきたのだろうか。ジョシュアは、薄い笑みを浮かべて棚にもたれかかったルガースのこめかみにその唯一の武器を当てている。

「貴様のような奴にニナを奪われたときは八つ裂きにしても足りないほど憎く思ったものだが──、こうしていると哀れなものだな」

 脇腹から流れる血。冷たくなってゆく体。蒼白くなった顔。

「俺はニナが初めて俺の目の前に現れた時からあいつを愛していた。貴様なんかとは時間の長さが違う。だいたい、貴様の様に自己主張の弱い人間はいつも食い物にされるだけで終わるだろう?自分が必要だと思ったときに即座に引き金を引ける、それが人間の価値を決めるんだ。貴様なんかにニナを幸せにする事はできない。いいか、問題なのはあいつが誰に惚れているかじゃあない。誰があいつを幸せにしてやれるかだよ。明らかにあいつを不幸にする男に渡せる訳がない」
 ジョシュアが撃鉄を起こす。銃口をルガースのこめかみに当てたまま言葉を止める。先にジョシュアが放った火が徐々に回り始めているのか、部屋の空気がキナ臭く変化していた。ルガースはそっとジョシュアの方を見ると、苦笑いを浮かべながらつぶやく。

「ニナはもういないよ。別の世界に旅立ったんだ」
 それまでも薄く浮かんでいたジョシュアの笑みが悪魔的な物に変わる。少しだけ歯を見せながら上を向いた三日月の形に顔を割り、ことさらに声を低くしてジョシュアは応えた。
「ニナは俺のものだ。これからの時間は俺と過ごすんだ。貴様の時間は──ここで終わる」

──静寂。

 引き金は引かれない。ジョシュアはその唯一の防衛手段であった銃を書斎の床に取り落とす。重い金属音とともに、銃の上と床に敷かれた絨毯に、数滴の血痕が滴る。

「わたしは誰のものでもないわ──、兄さん」
 涼しげな、しかし重く硬質なその声はニナのものだった。ジョシュアが自分の背後を取った相手の顔を認識するよりも早く、ニナの指は喉の皮膚に食い込み、頚動脈を探り当てた後横一文字に引き裂いた。心臓から供給されたばかりの新鮮な血液は、鮮やかな緋色を大気中に放出し彼の脳に酸素を運ぶ事を止める。ジョシュアはその短い人生の中で得られた少しの物を失っていく喪失感を眼に浮かべながら、やっとの思いで後ろを振り向き、自分を殺した相手を見ることで僅かに残されたすべてが消えていくのを知りながら、力を絞って一つの単語だけを世界に残した。
「兄さん──?」
 ニナはジョシュアの急激に乾いていく唇に彼女のそれを重ねた。ルガースの目に映ったニナの白い顎のラインともはや見慣れた二つの刺し傷のような痕が、ジョシュアの生命を吸い尽くしているかのようにやや上に向いたまま動きを止める。
 首から大量の生命を迸らせながら、自分を支える力もないジョシュアの体を再びきつく抱きしめてから、ニナは両腕を下ろし男の体を解放した。それを合図として肉体が音を立てて崩れ去る。床に倒れた男の体は、頭を打ち付けるときだけ大きく部屋に響かせる。

「愛してあげるわ。貴方の過去を、兄さん」

 ルガースは目の前の光景を半ば死の前の幻想として捉えていた。だが、それは現実以外の何物でもなく、その可能性の希薄であることに気付いたルガースが発した言葉は懐疑の感情を表すものであった。
「何故戻ってきたんだ」
 ニナは血で汚れた帷子を恥じもせず、紅く濡れた手でルガースを抱き起こした。
「死にゆく者への感傷だわ、きっと」

「僕は死ぬのかな」
「助けてみせるわ、私にできるかどうか判らないけど、一つだけ方法があるの」
「まさか──」
「私を信じて、ルガース──」
 ニナの唇は先程兄に向かっていたと同じくに今度は恋人を求めて動き始める。だが、それの行きつく先は相手の唇ではなく、その首筋であった。その行為は、二人がそれまで互いの破滅を予感して忌避しつづけたものだったのだが、今は双方がそれを求めている。一旦受け入れてしまえば、時間は忘れ去られるほど緩慢に過ぎていく。ニナがルガースの肌を愛おしむように口に含む。上顎の犬歯が血を求めて長さを増し、皮膚を突き破って血管の表面に触れる。牙が触れるとともに若干の緊張が体を包むが、それも間も無く血管がその張力を超えた瞬間に小さな破裂音と共に縦に裂ける。中から溢れてきたのは、舌を刺す酸味と、誰よりも甘い愛するものの命の奔流だ。口一杯に収められるだけ含み、口元から流れるものを止めようともせずにニナは一気に彼の生命を吸い尽くす。ルガースは今、喪失感と寂寥ではなく、恍惚と充実を味わっていた。
 恋人同士が互いの愛情を確かめている間、その本来の意味とは別にそれを妨げる為だけに憎悪を持って見詰める目があった。目を血走らせ、歯を剥き出しにして嫌悪を示す様は、その見詰める対象が感情のままに行っている行動よりも獣性の強い印象を見る者に与えたことだろう。だが、その場に居た二人は彼の存在に気付く暇を持っていなかった。憎悪の塊と化し人間としての性を失くした男の姿は、それでも唯一残った記憶に従うかの如くゆっくりと立ちあがり、両手に持った他の生命を奪う目的だけに作られた道具を彼らを引き裂く為に放とうとする。
「化け物めぇ」
 ジョシュアがその人生の多くの時間、人として信念を持って行動した事を忘れたように、発した声は醜く濁って汚水が泡を弾けさせるような錯覚を与えている。その指が最期の働きを示して散弾を発射した刹那、銃口の前を遮った影がその輪郭を散らした。ジョシュアの魂を失った肉体は、今度こそ朽ち果てて只の肉隗に変わっていた。
 手の中で体温を失っていくルガースの体を支えながら、自分達を襲った死の音にニナは背後を振り返る。ニナ達を庇って凶弾を受けた影は、彼女に世界を与えた者の残像だった。
「クディック──!」

 金色の弧を描きつつ紙の束が地面に落ちるかの如くささやかな音を立ててクディックは床に崩れ落ちる。男は地面に仰向けに寝たまま、天井に視線を移して囁くように応える。
「感傷──なのかもな。私は滅びはせんよ。それより自分のしたいことをするがいい──」
 クディックの話したように、次にするべき事は決まっていた。彼女はその体になってから唯一といって良いほどその目に意思を秘め、速やかに目的を遂行する。
 傷ついた戦士を癒す聖母のようにルガースを抱いたニナは、その体を支えつつ空いた方の爪で手首の付け根を深く切り裂く。その白い肌からは想像も出来ないほど温かみのある血液が滴り始めると、抱いた手を入れ替えるようにして彼女はそれをルガースの口元に近づけた。もはや彼の体は冷え出しており、反応も鈍くなっていたがその口元に温かな液体が触れると微かに唇を開けてその滴を受けようとする。舌の上で味わう余裕もないまま、喉を通して体の中に取り込むと、最初は拒否反応を示してむせ返っていたものが、直に自分から求め始めるようになる。ルガースは終に自らの手を使ってニナの手首から血を啜り出すまでに変化した──。
 ルガースの唇とその中に入りきれずに零れ落ちた鮮血を生み出したニナの手首の傷が少しずつ塞がり始めると、部屋の中を再び静寂が包み始める。白い手首をつかみ、生命の糧を貪っていたルガースの態度が沈静化し、にわかに力を失って床に体を落としかけると、ニナはその両手で彼の体を近くに引き寄せて抱き直した。ルガースは呼吸をやや喘ぐように荒く行い、吸うよりも深く吐き出して落ち着きかけている。苦しげに歪められた表情も今は安らかなものに変わり、口元の血液を不似合いなものへと変化させていた。

 二人の静かな人影の後ろでは、クディックの体が蛇の威嚇するような音を立てて回りの空気を歪めている。その肉体は異常な熱を持っているのか、まるで熱せられた大地の上げる陽炎がそこに存在しているかのようだった。それは、彼ら吸血鬼と呼ばれる一族の恐るべき、或いはある者にとっては羨望の的となる脅威の回復力ゆえの現象であった。銃弾によって作られた傷は塞がりかけ、あろうことか欠損した部分まで新しく再生して元の形へ戻ろうとしているのだった。もう数分あれば、彼の体はまるで何らかの傷を受けたことを忘れてしまったかのようにまったく元の状態に完治することだろう。彼が死なぬと言った一言は強調でも気休めでもなく、ただ単純に事実を述べただけのものだった。

 再生される命が力を蓄えている横で、一つの生命が燃え尽きようとしていた。ルガースは再び目を開いたが、今もっとも近くに存在する恋人の見慣れた顔ですら、薄靄にかかったようにはっきりと見てとることはできなかった。人間は生まれて間もない頃世界を判然と識別する視力すら持ってはいないが、その生命を終えるときも同じ状態へと戻っていくのだろうか。極めて無力な状態で抱かれる恋人の顔を見るニナの手には小さな瓶が握られていた。香水を入れるかのように美しい装飾を施されたガラスの瓶は、さして透明度を持っていなかったのだが、それでも中に何らかの液体が入っていることは判別できた。ニナはその小瓶を、力ない恋人に手渡す。
 ルガースは朦朧とした意識の中で、自分の頼りない記憶の糸をたぐっていた。その小瓶を彼は以前に見たことがある。それはどこだったのか──、そう、あれはニナに初めて小屋に導かれたときのことだった。壁にかかる多くの聖像とともに、机の上に乗る小瓶を彼は覚えていた。それを今さらどうしてニナは自分に手渡したのか。
「これは──?」
 ルガースの問いに答える二ナの表情は暗く、目は下に伏せられていた。目を伏せると、彼女の長い睫毛が特に目立つ。それは死を告げる女の仕草だったのだが、ルガースはその美しさに死すらも障害と感じることはできなかった。
「これはあなたを殺す薬よ」
「僕を──、殺す」
「──ルガース、あなたは死へ向かっているわ。それを止める事は私にはできない。あなたが人間として死を迎えることは、誰にも止める事はできないのよ。ただ、私たちと同じ死の一族になって仮初の命を得ることはできるかもしれない。今わたしはあなたの血を奪った。そして、わたしの血をあなたにあげた。その血が合うのなら、あなたはわたしと同じになれるのよ」
「なれないときは──」
「おそらく、意識もなく腐敗もしない救われない死体になるでしょうね──。もしくは、永遠に血を求めてさまよう、理性を失った獣になるのか──。もっともその場合はわたしたちの同族と人間の両方があなたを永遠の死に誘うでしょう」
「そうなる前に自分で自分の死を選べ、そういう事なんだね」
「その薬を飲み干せば、あなたの体は溶けて無くなる。完全に、永遠の死が訪れるのよ。苦しみが無い訳ではないけれど、人間としての最後の決断を選択できる権利を奪うことはわたしに許されていないわ」
 ルガースは自分の運命を握り締める。実際に、その場にいる誰も結末を見通せてはいない。顎を上げて網膜に恋人の心配そうに覗き込む姿を焼き付けたあと、彼は最期の一息を吐いた。彼の弱々しい心音が緩慢に減っていき、そして完全に停止した。


 ヨハンは東の空を見つめていた。もうすぐ冬とはいえ、この時間になれば空は明るくなってくる。一日が始まる。人間の時間が始まる。理性と文明の証である、偉大なる陽光が世界に降り注ぐ。その朝日を見ている者が何人いるのだろうか。それは低い位置から上ってきており、細く横に何層にも連なった雲を遠くは赤く、近くは金色に染めている。雲の間からこぼれる光は、人間に生命をもたらす勝利の印だろうか。
 だが、ヨハンと同じ気持ちでその神々しい朝日を見つめるものはいないに違いなかった。彼の心にはその明かりは何ももたらすことはない。
 この村から何人もの人間が出て行った。今のところ、戻ってくる気配のある者は誰もいない。ニナ、ジョシュア、ルガース、パトラス、そしてクディック。
 皆が命を落としたか、或いは人としての生命を止めたのかのどちらかになってしまった。だが、自分が村を出て行くことは有り得ない。伝説には、いつでも傍観者が必要なのだ。それを後世に語り継ぐ傍観者が。ヨハンは自分の無力さを痛感している。彼は自分の両手をすりぬけていく、手のひらに落ちた雨粒程の命も救うことができなかった。それでいて、どうしてその共同体である村全体を救うことができるといえるのだろうか。そういう点で言えば、お前などに任せることはできないと言い放った父の言葉は正しかったに違いない。とはいえ、その言葉に自分の能力のなさを悔いるよりも、むしろその言葉を呪いとして彼に吐きつけた父の存在を逆に呪う事で彼は自分の信念を保っていた。しかし、自分がもっとも守るべきであったもの、いや、守らなくてはならなかったものはもはやここにはない。ささやかな権威、ささやかな名声、ささやかな富。顔も知らぬ誰かに賞賛してほしかったそれらの小さな財産は、本当は誰にもっとも見せたかったのか、それを考えればヨハンの人生に必要だったものが明らかになっていた。
 父になじられ、臆病であった性格を克服して、一人前の大人になった事を誉めてくれる両親はもういない。必死で自分の立場を守り、自分を守ってくれる父を尊敬する娘はもういない。ささやかながらも人生をかけて保ってきた様々の財産を受け継いでくれる息子はもういない。愛する娘を自分に代わって幸せにしてくれる男はもういない。
 そして、もっとも自分が愛情を捧げたかった女性、彼女は既に言葉を発することもできない。そればかりか、自分ひとりで生きていくことすら可能ではなくなってしまったのだ。彼には、哀れな老人へとたった一晩で変化してしまった彼には、残りの人生を空虚なものと考えて自らの命を絶つことすら許されてはいないのだ。
 いつ終わるともしれない落胆と失望を抱えた永遠。それこそ、人生でもっとも重い罪ではなかったのか?彼がそれほどの罪を受ける、どんな悪い行いをしたというのか?
 その質問に応える者はいない。目の前の朝日であろうと、過去の先人が神と呼んだものにしても、それに応えることは無い。なぜなら、彼はその問いを口に出して問うことを自分に許してはいないからである。問いを問いとして発するとき、それは既に答えを期待して為されるのであるが、彼はその点ではもう自分の中で答えを見つけていたともいえよう。それ故に、彼はその孤独な人生を選択したとも考えられるのだ。
 空から菫色の部分が消え、赤色の部分が消え、世界は黄金に包まれる。
 彼は自分と世界の両方を照らす光に背を向け、妻の待つ家の扉を開けた。







エピローグ


 村が冬に包まれる。村を覆っている大きな森は既に葉を落とし、あるいは一年を通してその姿を変えないまま冬の備えを終えていた。動物たちは長い眠りにつく為の営みを、それまで彼らが繰り返してきたように行っていく。それは人間たちにしても同じ事だった。秋の収穫の喜びは、きびしい冬を生き抜いていける喜びとなる。空気は急にその冷たさを増し、雪がこの地に降るのも間近に思われる。様々な人の思いと生活を白い一色で覆いつくす瞬間が訪れる。
 誰も覚えている者のいない昔に暮らした貴族の作った邸宅が寒さに包まれていく同じ時、その遥か下方で暗闇に動く影があった。そこは、地上の邸宅に暮らした貴族が自分の命を狙う外敵から身を守るために作った地下要塞であった。要塞とは言っても何か攻撃に転ずる手段を残していると言う訳ではなく、ただ単に数日間の暮らしを続けていくためだけの最低限の設備しか作られていない。そして、それを利用するものが居なくなり、日々の手入れをする者までもいなくなってからは、地上からの入り口もいつしか閉ざされていたはずだった。

 ほぼ正確な長方形に切り作られた石材を組み、どこまで続くかしれない長い通路を複数の影が進んでいく。明かりを採る為の窓はなく、壁に掛けられた粗末な燭台に火を灯す者もいない。たとえ明かり取りの窓が開いていたとしても、今はほとんどの生物が寝静まる深夜であったので、人間にとってこれほど動くのに適さない時間は無かったことだろう。だが、その影のどれもが、自分の進む道を迷う事無く正面に据えて足取りもしっかりと壁と同じく石畳の敷かれた床を踏みしめていた。
 たとえ人の住まなくなった地下施設だとしても、何らかの生物の痕跡があってよいはずなのだが、今はどんな住人も眠りに就いているのか、無音が騒々しく感じられるほどの静けさをその場に展開させていた。聞こえてくる音といえば、影の作る足音と、地下通路の外から染み出てくるのだろうか、水が滴る音のみであった。
「この道はどこまで続いているの」
「どこへという事はない。昔これを作った男は他の邸宅に繋げるつもりだったのかもしれないが、その計画は途中で失われたし、邸宅も残ってはいない」
「その男の人はどうなったの」
「暗殺されたのさ」
 男の声は低く通路に響き渡る。先に話し始めた女性の声はそれに答えなかった。再び足音のみが反響していく。
「村の人達は追って来ないのかな」
「彼らにはここを見つけられないよ。この通路に続いていた道はもう無いし、今我々が入ってきた入り口は中から閉じておいた。見ただけではそれと分からないし、簡単に開くことはできない」
「これからどこへ行くの」
「──我々の世界に」
 外から壁面へと出てくる地下水のせいか、通路内の空気は湿潤であった。彼らの発する声が乾いていても、外にでた途端に周りの空気に柔らかく吸い込まれてしまう。
 彼らは自分たちへの世界へと旅立っていく。それは自らが決めた事だったのだろうか。彼らは皆、人間としての運命に抗いそれを捨てた。そのささやかな反逆は運命を司る神へ真っ向から立ち向かう人間の意志の力だったのだろうか。それとも、その反逆すらも因果律によってあらかじめ定められていた事だっただろうか。だが、彼らはこの問いを発する事はない。外に向かって出すことも、自らの中で反芻することも、有り得ない。
 過去の行動に対して仮定してその正当性を懐疑することは、すなわちその未来に対する懐疑であり、不安を含んだ怯えである。その感情は、今の彼らの内には無かった。
 彼らの心にあるのは、自分の生命を維持することと、維持するための手段を確保する事のみであった。とはいえ、それは生物としてもっとも自然な形ではなかったのか。人間が高度な社会を築いていくとともに失った個体としての強さを彼らはその人間性を失うことによって初めてそれを取り戻したのかもしれなかった。
 彼らは不死の生命を手に入れたが、それは永遠を意味するものではない。自らの生命がいつまで続くのか分からない、それは人間として生きたときと同じなのだ。ただ一つ違うところは、生物としての死を一度経験したことによって生をより具体的に理解し、自分の物へしていくという部分であろうか。

 暗闇の地下通路を、三つの影が歩いていく。その足音はいつまでも消えることはなかった。

<了>

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