第4部 ニナを引き止めるもの(1)

 長い夢を見ていた。眠りから覚めたばかりの茫洋とした意識の中で、以前学校に通っていたときに教師から聞いた話を思い出していた。夢というものは、人間が昼の間に体験した出来事を、睡眠中に脳が編集する作業を映像へと変換したものなのだとか。実際には複数の夢を一晩の間に見ており、別の夢を連続して解釈してしまう為に独特の飛躍が生まれるのだという。しかし、私が今まで見ていた夢はここ数日の出来事を反芻したものであり、それはあまり後味の良いものではなかった。自分としては忘れたいくらいのものが、大脳の中ではしっかりと記憶されているようだ。果たしてこの夢はどのように解釈されればよいのだろうか。消したくとも消えない記憶。享楽的に体験したものよりも、不快を覚えた経験の方が長く残るように思えるのは、悲観的な錯覚なのだろうか。
 目を覚ましてまず視界に飛び込んできたのは、古ぼけた天井だった。一瞬自分がどこにいるのか判らなかったのだが、ベッドの上でじっと天井を見ていると次第に意識がはっきりしてきた。そう、昨日はニナに連れられてこの朽ちた小屋で一夜を明かしたんだっけ。暖炉のそばでニナが話し始めるのを待っていたまでは覚えているのだが、その後の記憶がない。あのまま眠ってしまったのだろうか。私は、狭い部屋のベッドに寝かされていた。体を起こし掛け布を払ってからベッドの端に腰掛ける。部屋の中を見渡すが、ニナの姿は見当たらない。右手にあった扉から部屋を出ると、居間らしい場所に出た。部屋の中を見渡して壁に剥製や十字架などが飾ってあるのを見つけると、どうやらここは昨日最初に入った部屋のようだと判る。ニナの名前を呼んでみるが返事はない。今出てきた扉の方を振り返ると、同じ壁面にもう一つ扉があり、そちらの部屋を覗くとそこが昨日寝入ってしまった暖炉の部屋らしかったが、ここにも誰の姿もなかった。
 途方に暮れて仕方なく寝室に戻ると、ベッドの脇の小机の上に紙が置いてあるのが見えた。何やら書きつけてあるようなので机の傍まで寄り、紙を手にとって読んでみるとそれはペンで書かれたものだったが、筆跡は紛れもないニナの手によるものだった。

「夕暮れまでには戻ります。家の中で待っていてください。──ニナ」

 どういうことなのだろうか。紙を元の机に戻してしばらく考えてみる。自分からここに連れてきて、しかも何かを話したいと言うので待っていたが、昨日は結局最後まで何もニナの口からは聞けず、私を1人残して外出してしまっているとはなんと勝手な事だろうか。とはいえ、昨夜は自分も居眠りしてしまったようなので、ニナが気を利かせて私を寝室に運んでくれたのかもしれず、それを思うと少々情けないような気にもなる。とりあえず小屋の中でニナを待つ事にしたが、夕暮れまでどれだけ時間があるか知りたくなって小屋の中を探してみる。しかし、時間を示すようなものを見付ける事はできなかった。家から出てきた時も、特に長い旅をする目的で出てきたわけではないので時計を持って来てはいない。普通なら部屋に入ってくる光の加減である程度の時刻は判るのだが、部屋全体が薄暗く外からの光がほとんど差し込まない為にそれも不可能だ。元は窓であっただろう場所を当たってみるが、どの部屋の窓も外から雨戸が閉められた上に釘か何かで固定してあるようだった。中からどれだけ力を込めて引きつ押しつしてみてもびくともしない。光を入れるのは諦めて外に出ようかと考えると、急 に自分の服装の見窄らしい事に気が付いた。体中泥や埃で汚れており、どこで作ったものかシャツには鉤裂けまでできていた。まずは顔を洗いたいと思い居間へ出て水道を探すが、こんな山奥までは水道が通っていないのか、炊事をしていた場所もすっかり使われていないらしく使い物にならないようで、当然水を汲み置いてあるという状態などは期待する事もできない。小屋の外に出ようと扉を開けると、途端に大量の光が流れこみ、思わず目を閉じてしまう。徐々に目を光に慣らす為に少しずつ開いて足元を見ると、外に踏み出した自分の脚の影が短く太陽がほぼ真上にあることから考えて、今は正午過ぎであると推測された。昼まですっかり眠っていたと知れたら、普段だったら母親にどやされる事だと考えて苦笑したい気分になる。

 小屋は深い森の中で背の高い針葉樹に囲まれており、入り口付近を歩いてみたが住人の身元を示す表札や立て札等もまったく見つける事はできなかった。こんな所に、いったい何の為に小屋を建てたんだろうと再び疑問にかられてしまう。小屋を一回りしてみると運良く井戸を見つける事ができ、やっと水にありつけるかと安堵する。急いで釣瓶を引こうと縄を引っ張ってみるが、滑車が錆び付いてうまく動かない。何度か引いて見たが、縄がほとんど朽ち掛けており無理をすれば切れてしまいそうだった。仕方なく井戸の底に沈めてあると思われる方の綱を引き上げてみようとしたが、手応えはあるものの一向に上がってくる気配はない。周りを囲んだ針葉樹林のおかげで余り陽光の恩恵を受けてはいないこの場所では、いくら天頂付近に太陽が来ているといっても井戸の底は見えず、そこにあるはずの手桶は目に入らなかった。近くにあった小石を拾って井戸の中に放って見ると、闇に吸い込まれた小石は当然上げるはずの音を出さない。とすれば、井戸はすっかり涸れてしまっていて、沈めてあったであろう手桶は土の中に埋まってしまったのだろうか。井戸の端に手を掛けてしきりに中を覗き込んで見 るが、まったく光を反射するべき液体も残されていないのか、自分の情けない表情を確かめる事もできなかった。これでは水を求めるのは諦めざるを得ないようだ。ふと、近くに民家がないかと考えもしたが、昨日ここまで来る途中にほとんどそれらしい物が見られなかったことと、何の注意もなく外を歩いていてジョシュア達に見つかる事を考えたら、付近を探しまわるのは賢い策だとは思えず、仕方なく小屋の中に戻って何か使えるものがないか探してみることにした。

 確かに誰かが生活していたであろう痕跡は残っていて、床板や壁などの最低限の整備はされているのだが、先程の井戸にも見られるようにこの小屋の中には生活臭といったものが欠けているという印象を拭えない。箪笥らしいものを見つけはしたが、長い事放置してあったのか極めて建てつけは悪く、必死に引出しを開けては見たもののその中に衣服が収められている事はなかった。寝室に戻って、何かニナが立ち寄りそうな場所の手がかりがないか探してみると、私が起き上がって掛け布が捲くれ上がった拍子にベッドの下に落ちたものか、衣服が固まって置かれている。調べて見ると、黒っぽい色のチュニックと、深い緑色の綿のズボンだと知れる。一緒に手拭いらしい薄汚れた布切れも見つかった。着ていた服を脱ぎ捨て、その手拭いで体をあらかた拭き終わると、チュニックとズボンを身に着けた。ズボンは腰周りが若干大きすぎる感じもしたが、今まで着ていたズボンに付けていたベルトをはめるとさして気にならなくなった。チュニックの方はほぼサイズ通りで問題ない。そこから考えても、ニナが私の為に衣服を用意してくれたと思うのが自然だろう。靴下だけは見当たらなかったので、汚れた ものを脱いで、直に靴を履く事にした。

 靴のままで再びベッドに横になってみる。新しい服に着替えると、途端に生き返ったような心持ちになり、昨日あんなに切迫していたのが嘘のように思えてくる。このまま、ニナとともに村を出て、それから二人で見知らぬ土地で暮らしていくのだろうか、村人の追跡の目を恐れて隠れながら──。それもあまり悪くはないようにも思えてくる。確かにジョシュアには鬼のような表情で追いかけられはしたが、私のしたことといえば、ニナの死体遺棄の犯罪だけだろうし、何の具合か現にニナは生き返って私と共にいるのだからそれはまったく意味を為さないに違いない。見つかったのが土中だった事や、連続して死体が見つかっていた事からニナが死亡していると医者も誤診したのかもしれず、ニナは仮死状態のまま埋葬されたのかもしれないのだ。詳しい事は判らないが、過去にはそういう例もあったし、素人目には判別できないほど死に酷似した状態に陥る病気もあると耳にした事がある。あとは、ジョシュアが私の事を連続殺人の犯人ではないかと疑っているらしい事だが、実際に自分がそうでない事は自分自身が一番判っているので、何も無実の人間が逃げ回る必要はないはずだ。警察に取り調べは 受けるだろうが、まったく犯罪に関係のない人間を犯人としてでっち上げるとまではいかないだろう。いっそ、訳を話してニナに村へ戻るように説得してみようか。だが、村を出てこの小屋に導いたのはニナの方だった。とすると、何か村に戻りたくない理由でもあるのだろうか──。

 ニナのいないままあれこれ考えても仕方ないので、ニナが帰るまで少し眠ろうかと考えたが、それと同時に腹の虫がなる。さしあたっての身の安全が保証されるとともに戻ってきた空腹に苦笑いしながら、さっき部屋の中を見回った時にこの小屋には食べ物が見あたらなかった事を思い出した。止むを得ず外に出て食べられそうなものを探し始める。まだ冬には早いので木の実や野草はある程度見つかるのだが、こればかりでは空腹は収まりそうにない。動物でもいないかと思ったが、自分が何も狩りの道具を備えていない事に気付く。湖まで戻れば、魚か何かがいるのかもしれないが、今日の所は木の実だけで我慢して、ニナが帰ってきたら食事する場所を聞いてみるとするか。

 外で木の実やら野草やら、食べられそうなものはなんでも漁っていたが、次第に日が翳ってくるのが判ると、ニナがいつ戻ってくるか知れないのでとりあえず小屋に戻ってくる事にした。小屋は粗末な木造で、普通に考えれば板の隙間から光が差し込んでもおかしくはないと思うのだが、これを作った人間は妙な所で神経質を発揮したのか、まったく光を入れないように造られていた。或いは後から住みついた人間が光の漏れる個所を埋めていったのかもしれないが、真実は今のところどうでもいい。私にとって問題なのは、さしあたって陽が傾いた程度でも小屋の中が暗闇に包まれてしまうことだった。部屋の奥にニナが使っていたランプが有る事は判っていたが、暗い中手探りで探すのは至難の業に思えたし、何より火種がどこにあるのかすら判らなかった。昼間の明るいうちに照明器具を確保しておかなかったのはいかにも失策の様に思えて舌打ちするが、こんなことを今更悔いても仕方が無い。
 私は扉を開けたまま暗い部屋をしばらく眺めていたが、入り口の戸を開け放しておく事で当面の灯りを確保する事にした。そうして炊事場らしい場所まで寄っていって獲得した食材が調理できないものかと試行錯誤してみたが、元から料理をした事がないのと、道具がまるで使い物にならなくなってしまっている事から調理する事を諦め、そのままでも食べられるものだけを口に入れて粗末な食事を終えた。空腹感は依然収まらないが、飢えて死ぬ事はないだろう。服についた食べかすを払い、残ったごみを捨てようと立ち上がった瞬間に、入り口のわずかな光を遮る影を発見した。外はもう暗くなってきており、木々の間からのぞく空は菫色になっていて、その影ははっきりと視認することができなかったのだが、そのシルエットを見慣れていた私はある結論に達した。

「ニナ!」
 扉に手をかけて中に入ってくるニナの他方の手に、袋状の物が見えている。
「ルガース、ごめんなさい。食べ物を取りに行っていたの」

 ニナは袋をテーブルの上に置くと、暖炉の部屋に入っていき、明かりの点いたランプを手にして戻ってきた。ランプの明かりを頼りに袋の中身を確かめると、それは数個のパンとワインの瓶だった。正直な話、先の質素な食事で余計に空腹感を覚えていた私はニナの勧めるままにパンを口にしており、その食料に疑問を持つ事すら意識に無かった。パンは作られてからしばらく時間が経っていたのか、すっかり固くなってしまっていたのだが、それでも容量を十分に残していた胃にはとても有り難かった。ワインの瓶も新品ではないらしく、コルク抜きを探さなくても栓は容易に開き、コップを探しても無駄だろうと踏んでいた私はそれに直接口をつけたまま喉を潤していた。パンを一つだけ残してふとニナに食料を分けていない自分に気が付き、ニナの方に顔を上げてみると、彼女は私の食事をずっと見ていたのか、この逃避行の中で唯一と言っても良いほどの人間的な表情を浮かべており、それは微笑にすら見えた。私はにわかに顔が赤らむのを感じ、ニナにパンを勧めるが、彼女はただ今は食欲が無くて、というばかりで手をつけようとはしなかった。浅ましい話だが、食料がほぼ1人分だった事もあっ て、あっという間に残りのパンも平らげてしまった。

 ワインの瓶を手に取り、食欲の落ち着きを確かめていると、ニナがランプの火を机の上の燭台に移しているところが見て取れた。ニナが元の場所に座りなおすと、炎を挟んで対面した格好になり、ニナの顔が灯りに揺れる。同じく視界に入ってきたワインの瓶に気がついて、私はふと違和感を覚えた。ニナ、机、燭台、ワインの瓶──。何だろう、何かがひっかかる。
 しかし、それに気付く間もないまま、こちらが食事を終えるのを待っていたかの様にニナが話し始めた。
「ルガース?」
「なに」
「不思議に思わないの」
 これまでの状況を不思議に思わないものはないだろう。思わなかったとしたら、それはどうかしている。もっとも、これ程までに非常識な体験が続くと、体の中の何らかの機能が働いて、疑問に思う部分が麻痺してしまっているのかもしれなかった。とすると、私はどうかしているのだろうか。しかし、私の非日常はニナが失われた事によって始まった、ならば、今こうしてニナと共にいる状態は、日常に近づいたとは言えないだろうか。それも詭弁なのかもしれないが、少なくともニナがいないままあれこれ思い悩んでいる状態よりははるかにましな様に思えた。とはいえ、ニナの問いに対する答は自分でも呆れる程陳腐なものになった。
「何を」
「何もかもよ」
「不思議には思うけどさ、それをニナが説明してくれるんだろ。だからこうして」
「そう、ね。そうだったわね。ルガース、一つ聞いていい?わたしの事、愛してるって言ってくれたよね」
「ん?うん」
「どうなの」
「愛してるよ。このところ異常な事が続いてさ、自分でも何が何だか判らなくなってたけど、こうして落ち着いて向かい合うとはっきりと自分でも判る。君を愛しているよ」
「ありがとう。その気持ちに応える意味で、今から本当の事を話すわ。だから、黙ってわたしの話す事を全部聞いていてね」
 ニナはそう言うと、自分がまるで失言をしたかの様に顔を伏せ、目を閉じてしまった。私には何がいけなかったのか判らなかったのでそれを尋ねたかったが、彼女のその仕草は一瞬で消えたので、聞く機会を逃してしまった。こちらを向き直ったニナの目が炎の明かりを受けて銀色に輝く。その口から語られたのは、信じ難い内容だった。

──私と深夜に待ち合わせをした晩、ニナは待ち合わせの時刻に遅れそうになって山中の近道を利用していた。そこで見知らぬ男と出会うが、その後ニナは奇妙な体験をすることになる。しかも男はニナの実の父親だと話したらしい。彼女はにわかに信じることが出来ず、男の元を逃げ出して一旦は家に戻る事ができたのだが、そこで実父である村長を何らかの理由で諍いを起こしてしまい、家を飛び出したらしい。それから例のニナの父を名乗る男に付きまとわれ、そこで連続殺人の事を知ったらしいのだが、なんと男は殺人事件を引き起こした張本人だったと言うのだ。ニナは必死に男から逃げようとしたが、時期を同じくして体の不調を覚えていたニナはついに力尽きて山道に倒れてしまった──。

 なるほど、これでニナのこの1ヶ月間の行動はほぼ説明される。しかし、私には何故か釈然としない違和感を覚え、不自然な感触を抱いていた。男がニナに拘った理由は何だったのか。男がニナの父親だと言うのはニナも信用しなかった通りに殺人鬼の妄想なのかもしれないが、村内でまったく男の風貌に似た人物を見なかったことから、以前にニナを見知っていたとは考えにくい。さらに、10人以上も手に掛けた異常な殺人鬼が、ニナに犯行を目撃されておきながら何故襲いかかろうとはしなかったのか。勿論、私にとってはそれは僥倖以外の何物でもなく、ニナは一旦死んだと思われたにも関わらずこうして蘇っているのだから結果的には良かったと考えるのが適切なのだが、それでもすっきりしない。ニナは土中から発見された。ニナが自分で言う通り、病気の為に山中で倒れたならば誰かが土中へ運んだとしか考えられない。となれば、村人が先に発見したのなら真っ先に村へと連絡が行くはずなので、この場合最もその行動に近い人物は誰あろう、その殺人鬼なのだ。
 確かに、本人の言うようにニナとの血縁関係があったと考えるならば、咄嗟に埋葬の真似事の様に仮に葬っておくのは判らないでもないが、だったらニナの目に触れるように殺人を繰り返すという行動がまるで意味をなさない。狂人には狂人なりの理屈があるという事か。それとも、「ジキル博士とハイド氏」のように二重人格者だったのだろうか。どちらにしろ、そんな殺人鬼が実在するならば、村人がそれを発見していない事からも、まだ山中に潜んでいると考えるのが妥当だろう。だとすれば、ニナを執拗に狙っていた男のこと、ニナがまだ生きていると気付いたなら再びニナに付きまとい、その身に危険が及ぶに違いない。
 ニナの話が一段落したようだったので、私はその疑問を彼女にぶつけてみた。ニナは私の問いを予測していたのか、当然だというように頷いた。
「わたしはまだ全てを話してないの。でも、一番肝心な部分は、普通に話したとしても信じてもらえるかどうか」
 私はその答に半ば憤りを感じていた。この小屋に来る前から、何故かニナは私を試すような行動ばかり採っている。恥ずかしい話だが、私が墓地に行こうと決めた時から決意は変わっていない。私はニナに全幅の信頼を置いてはいるし、それを態度でも示してきたはずだ。私は裕福でもないし女性との付き合いに慣れていると言う事もないので、ニナに愛情を示す為には誠意で接する事のみが唯一の道だと考えている。だから、不実な態度を取った覚えはなく、それ故にニナに試されるようないわれはないはずだ。
「ニナ、いい加減にしてくれよ。ニナを疑おうと思った事はない。ニナが真剣に言うことならば、何だって信じられる自信がある。勿体ぶらないで、すべて話してくれないか」
「ええ──ルガース、少し指を出してくれる?」
「ええ?」
 私はニナの唐突な物言いに当惑した。ニナの答はまるで私の問いに答える形になっていない。それどころか、会話の脈絡を考えたならば、まるで筋さえも通っていない。とはいえ、ニナの目を見詰め返すと、それは冗談や悪戯を仕掛けようという態度ではなく、何か決意を秘めたもののように感じられたので、その真摯さに圧倒された私はその意味も判らず言われるまま右手の食指をニナのほうに向けて差し出した。
「ごめんね」
「なに?」
 と、ニナと私の間に微かな破裂音とともに風が舞った気がした。咄嗟に目を閉じてしまうが、燭台の灯が揺れた事でもそれは確かな事だったと知れる。窓は締め切ってあるはずなので、外から風が入ってくるはずもない。そう考えた刹那、差し出した指の先に痛みを感じた。指の先が少し切れている。出した手を引き戻し、傷の様子を確かめてみるが、大した事はなく、ほんの5ミリ程度の傷になっているのみだった。傷の程度も深くなく、これならばしばらくすればすっかり塞がってしまう事だろう。とはいえ、傷の上にぽつんと紅い玉滴が浮かんでくる。思わずそれを吸おうとしたとき、ニナが指を押さえた。
「見せて」
 ここには絆創膏などの気の利いたものは期待できないので傷の手当てをするつもりではないだろうし、まして手当てをするほどの傷でもないので、ニナが手をとった真意は理解できなかったが、普段の行動から反射的に心配して見ているだけだろうと彼女に手を任せていると、不意に彼女の両手に力が込められるのが判った為に不安感にかられてしまう。思わずニナの表情を確かめようとするが、傷を熱心に見入っているのか俯いてこちらに顔は見えない。
「ニナ?」
 私の言葉と同時にニナはこちらを振り返った。しかし、それはニナの顔とは思えず、得体のしれないものに私は驚愕し、ニナの手を振り解くと椅子を蹴倒して後ろに飛び退った。部屋の中は再び静寂が支配しており、蝋燭の燃える音だけが聞こえてくる。ニナの居た方を見なおすと、そのニナの姿をしたモノはこちらを見詰めたまま凝と動かない。良く見ればニナの顔なのだが、瞳の色が銀色に輝き、充血して見開かれている。だが何よりも違っていたのは口元だった。笑いとも威嚇ともしれぬ角度で開かれた唇からは、2本の長い犬歯が覗いていた。
 それはまるで人間のものとは思えず、野犬か狼のそれであった。私にとっては恐怖にかられた瞬間が長く感じられたのだが、実際はほんの数秒の出来事であったのだろう。ニナは口を閉じ、目も元の穏やかで澄んだニナのものに戻っていた。私は幻を見たのかと感じ、それほどまでに慌てた自分を恥じながら倒れた椅子を戻して席についたが、ニナは私の行動に不思議そうな態度をとっていないことからも、それはニナの意思によるものであると示していた。
「何だったんだ、今のは」
「今は解り易いようにゆっくり顔を見せたけど、本当は気付かれないうちに命を取ることができるのよ」
「何を言ってるんだ?」
「見たでしょ、今の牙を。あれで相手がまだ油断しているうちに、首筋にこう──」
 ニナはそうやって何かを齧るような素振りを見せた──
「噛み付くのよ」
 そう言って、ニナは自分の首筋をこちらに見せた。そこには、埋葬されたときに気になっていた2つの傷跡が残っている。確かに、それは何者かに噛み付かれた傷といえなくもない。だが、しかし──。
「吸血鬼、って聞いた事はあるでしょう」
「あ、村長が──、いや、けど、そんな馬鹿な──」
 吸血鬼。確かにこの数日間、村内ではその話題が巻き起こっていた。連続して死んだ者の原因を、吸血鬼現象の伝染によるものだと理由付けたのだ。それゆえに、犠牲となったものは心臓に杭を打って、首をはねて、火葬にされなければならない──。
 村の年寄りが言い始めたときは、そんな何百年も前の伝説を持ち出す事に正気を疑ったのだが、私が思っていたよりも村内がかかえていたストレスは大きくなっていたようで、皆連日の緊張や恐怖から逃れたいと考えていたのか、吸血鬼狩りの提唱の声は瞬く間に広がっていった。終いには、日頃から近代化を唱えていてもっとも村内で科学に理解を示していると思っていた村長までもが吸血鬼退治を行うと発表し、実際に犠牲者の墓を一つずつ暴いていった。とはいえ現実にそんな事が起こり得るはずもなく、犠牲者は普通に腐敗を起こしていたのだが、「念の為」という理由で村人達は善行という名の冒涜を死者に与えていった。それを止める要因が無かったのは、やはり死者達が依然身寄りの現れない者ばかりであったためだ。身内の者がそんな扱いをされたとしたら、平常心でいられるはずがないと思うし、それは村長にしても同様だったようでニナの墓を暴く事だけは拒否していたのだが、元々村長自ら煽った吸血鬼退治の熱病のような流行を、村内の圧力に孤立無援の村長一家が収められるはずもなく、次の日の朝一番で事を起こす事と決断させられた。

 その夜だった、私がニナの元へ出向いたのは。あの時ジョシュアに出会った事を考えると、本当はあいつも同じ気持ちだったのかもしれない。そんな事もあってニナの体がまったく死の兆候を示していない事に困惑したのだったが、だからと言ってまさか吸血鬼とは、信じられない──。
「わたしだって馬鹿馬鹿しい話だとは思うけど、実際にこうやって体に変化が出ているんだから、それが何かの病気だったとしても、いわゆる吸血鬼と見なされるモノになっている事は確かなのよ」
「それじゃその、山の中で会った男と言うのが吸血鬼で、それにやられたってのか」
「そこが問題でね、その──クディックって自分で名乗ってたんだけど、彼はわたしの父親だって言っていたと話したでしょう?」
「だけど君は──ああ、そういえば小さい頃みんなに──」
 そこまで言って口をつぐむ。もはやそれでも失言を悔いるには遅いと感じたのだが、ニナは大して気にした素振りは見せなかった。
「だからクディックが言うには、わたしは吸血鬼の娘だというわけ。それで、あんなに沢山の人達が犠牲になったのも、わたしに吸血鬼としての目覚めを起こさせる為だと──」
「無茶苦茶だ、そんなの!絶対に間違っているよ、ニナ、その男に騙されているんだ」
「じゃあ、このわたしの変わりようはどうやって説明するのよ!一旦家に戻った時だって、危うく父さんに襲いかかりそうになったのよ!貴方にだって、首筋に噛み付きそうになったわ、あの時は自分でも何がなんだか判らなくなっていたのよ」
 ニナを村から連れ出して、森の中に入ったときに彼女が取った異常な行動を思い出した。急に抱きついてきたかと思うと、首筋にキスしていたっけ、少し歯を立てて──。
「でもあの時は止めていただろ」
「ええ、何故か貴方の血は飲めない気がしたの。血の匂いを嗅いだ瞬間に、何だかすごく危険な気がして──、でも、その時は罪悪感で自分を抑えたわけではなかったのよ」
「判らない、判らないよニナ、君が自分を吸血鬼ではないかと疑っているのは分かった。君の言葉に嘘はないと信じるよ。だけど、君が吸血鬼だと思う事はまだ出来ない。しばらく、考えさせてくれないか」
「ええ──仕方ない事だとは思うけど、でも私たちには時間がないのよ、ルガース──」
「しばらく、──考えさせてくれ」
 私は席を立った。ニナが咄嗟に私に何か言いかけて振り向いたのだが、私は彼女の眼を見返す事ができずにそのまま暖炉の部屋の扉を開けた。暖炉に火は灯っておらず、部屋は寒々としているがその温度がかえって心地良い。暖炉の前の長椅子に座ると、この数日におこった色々な物事を思い出していた。果たしてこれからどうすればよいというのか。しかし、ニナから告げられたあまりにも唐突な言葉に当惑を隠せず、思考には混乱をきたしており、我ながら今のままでは正常な判断が無理であろうことも判っていた。先ほど飲んだワインだけでは酔う事はできず、かといってすぐに眠りに就くこともできずに長椅子の上で胎児さながらに丸くなって、ただ時間が過ぎるのを待っているのみであった。
 純粋に理解できないものへの恐怖や、追われる者としての焦燥、今まで信頼関係を保ってきた村人達が恐慌に陥って互いに不信を見せていく事への不快感。だがそれらのどの感情も、椅子に横たわってじっとしていると混じり合って薄くなって行くような気がしていた。眠りたい、ただこうして眠ってしまいたい。眼を覚ましたところで事態が好転する事はないのだろうが、それでも何かを決意して、再び自分を奮い立たせるには今の自分は疲れきってしまっていた。
 時計も無い為にはっきりと時間の経過は判らなかったが、それでも小1時間ほど経ったのだろうか。不意に頬に風が当たる。窓でも開いているのかと反射的に考えたのだが、まだ完全に眠りに入ってなかった私は次の瞬間この部屋には窓が無い事を、正しくは開けられる窓が存在していないことに気が付いた。唯一風を入れられる可能性があるのは部屋に入る為の扉だけである。椅子の上で素早く起き上がろうと身をひねると、間近にニナの顔があった。何とも小心な事とは思いはするが、すっかり臆病な性質になってしまったのだろうか、思わず口から悲鳴が出そうになるのを堪えた。いや、堪えたと言うのは正しくないかもしれない。実際はニナに悲鳴を上げる事を止められたと言うべきか。ニナの手が私の口を塞ぐ。得体の知れぬ恐怖を感じて逃げようとするが、ニナは私の体を抑えようとはせず、ただ口の前に食指を立てて声を出さぬように示しているのみだった。私は訳が判らず、ニナに聞き返そうとすると、ニナは静かに私の耳に口を近づけた。先に首筋を噛まれた経験が蘇り、背筋と額に冷たい汗が滲む。そんな私の緊張を知らぬのか、ニナはあくまで冷静に振舞っており、そっと囁く様に私の 求める答を呈示した。

「誰か外にいるわ」

 刹那その意味が判断できなかった為に静止していたが、やがてその言葉の意味するであろう事に思い当たり愕然としつつニナの方を振り向いた。この時点で誰かに探り当てられたというなら、結果は概ね悲劇的なものであると考えて間違いない。ましてや、小屋に接近してくるのにほとんど音を立てていないならば尚更だ。ニナに注意を喚起され、必死に耳をそばだててみるがまったく気配を感じない。どうやってニナはそれを知り得たものか想像もつかなかったのだが、その時の状況からニナの言葉を信用した方が自分にとって得策であることも理解していた。ジョシュアが村人を連れてまっすぐに我々を追ってきたとすれば、一日この小屋に滞在した事によってその差を詰められたという事態は容易に想像が付く。小屋の扉がやや荒っぽい調子で叩かれた。

「おおい、誰か中にいるのか」

 小屋に鍵はかかっていない。その気になれば容易く入ってこれるはずだ。声は聞き覚えのある村人のもので、最初に声を掛けている事から明らかな敵意はもっていないことが伺われるが、物音を立てずに忍び寄っている為に見知らぬ小屋を発見した緊張に用心を重ねているとは思われる。ならば隠れるよりもこちらから出ていったほうが安全ではないだろうかと考え、ニナに相談を持ちかけてみる。

「返事をした方がいいんじゃないのか」
「待って。外にも大勢いるわ。小屋を囲む形で並んでいるのよ」
 急に自分が大犯罪者に思えてくる。とはいえ、ここ数日の行動を見ていれば、村人にそうとられても不思議はないのだろうか。だからこそ誤解を解くために外へ出た方が良いとも思われたが、村人達が狩りの際に銃を持ち出していた事を思い出す。近頃森の中で狼の被害があった経験から、仕事に関係無く護身の為に銃を購入しているというのは本当らしく、狩猟祭の時にはかなりの数の銃が集まっていた。今回もジョシュアの呼びかけで皆が集められたならば、当然何らかの武装をしている事は予想されるし、探す対象以外のものからも身を守る為、それなりの用意をしているのは自明であった。また一人や二人で夜の森を捜索に出たりはしないだろう。となれば、事態は緊迫してくる。こちらの弁解の前に撃たれるような事になってしまったら真実は告げられないまま、しかし昨今の村内の状況を見れば、吸血鬼にすら頼ってでも不信を解決したいという動きがあったくらいなのだから、我々の死によって遥かに現実的な解釈が得られるなら事件は簡単に収拾がついてしまうだろうか。

 ニナは何を思っているのかまったく知れず扉の方を向いたまま動こうとはしない。この部屋の扉は閉めてあるので、彼らが小屋の中に入ってきてもすぐには我々の姿を見付ける事はできないが、それも時間の問題だろう。こんな時には私がニナを誘導して対処しなければならないのだが、私はただ椅子の上で所在無くうろたえ怯えているばかりだった。ニナがふとドアの前に立ち、物音を聞いている。外からの声は続いており、早々に立ち去る様子は無い。呼び声に混じって密かな話し声も聞こえるところからすると、やはりニナの言う通り複数の村人がこの小屋に入ってきているようだ。なるべく音を立てないように慎重に歩いているのは判るが、それでも皆がブーツを履いているらしく踵が板の間にあたって軋む音が聞こえてくる。靴に泥でもついているのか、少し湿ったような音に変わっていた。
 足音がドアの前で止まる。音が止まってからの時間がその人物の躊躇を示していた。確かに、連続殺人の起こっている最中、不審な小屋を見つけたとあれば戸惑いを覚えるのも無理はない。先頭に立って入ってくるほどの勇気はあっても、それは無謀とはまるで意味が違うのだ。扉越しに刺すような緊張感が伝わり、鼓動や息遣いまで聞こえてくるような錯覚を覚えた。ドアノブに触れたらしく、微かな金属音が静寂の中に響いた。

「入るぞ」

 その言葉は本来の意味とは微妙に異なっており、明らかな対象を持っていない為に語尾が少し間延びしたように感じられた。ノブが回り、少しだけ扉が開けられる。ニナは扉の裏側にそっと立ち、気配を殺しながら様子を見ていた。扉の外の人物がそれに気付く気配はない。扉を開けてすぐさま攻撃される危険がないと判断したのか、ゆっくりと戸が押し開けられる。血の気を失い、ほとんど蒼白になった顔が隙間から覗いた。銃を部屋の中央に抜かりなく構えたまま、一瞬部屋の中を見渡したあと、侵入者は私の姿に気付いた。こちらは既に長椅子の上で身構えており、目と目が合った途端、見知った彼の顔に安堵と更なる緊張が混じって浮かぶ。沈黙よりはまだましだと考えたのか、わざとらしく間の抜けた様に声を掛けてきた。
「お前──、ルガース、何やってんだ、こんなところで」
 その場の緊張感と、自分の置かれた状況に何も言えずに沈黙で応えると、彼はそれを肯定と受け止めたのか、やや銃身を下に向けて部屋の中に1歩踏み込んできた。手前に開いた扉を挟んで、村人とニナが視界に入る。私にはニナの意図が掴めない。無意識の内だったのか、私の視線が一旦ニナにそそがれた。神経を研ぎ澄まし、あらゆる異常に反応しようと身構えていた村人の行動は思いのほか迅速で、私の視線を辿って、そこにニナの姿を見つけてしまった。しまった、と自分が愚かな行動を取った事に気付くのとほぼ同時に、村人の顔に驚愕が浮かぶ。同時に恐慌に陥った証拠の怒声。
「うわああああ、ニナァ!化けもんだ!」
 私が彼を制するために飛び掛らんとしたより早く、その指は引き金を引いていた。銃口は正しくニナの中央に向けられ、腹の辺りを散弾が直撃する。ニナを外れた弾丸は、後ろの壁に当たって壁土を散らせた。銃の反動で一瞬後ろに体勢を崩した村人に私が飛び掛る。しかし、混乱した彼は再び死の一撃を放とうとした。最初の銃声に小屋の入り口付近に居た残りの者たちも事態のただ事ならぬを察知して部屋の中に呼びかけている。私の手が村人の銃にかかるよりも早く、彼は後ろの壁に吹き飛ばされたニナに照準を合わせ終わっていた。

 だが、再び猟銃が撃たれニナが無残な姿をさらすであろうという私の想像はしかし現実のものになる事はなかった。銃弾がそれを放った者の思惑とは別に真上の天井に穴を開ける。あと半歩で村人を止められる位置にいた私の顔に血滴がふりかかってきた。それはニナのものではなく、銃を構えた村人自身のものだった。銃声に一瞬だけ遅れて、持ち主から離れた銃身が床に重い音を立てて落ちる。持ち主の手首から噴出した鮮血が、その上に雨となって注いだ。自分の失われた手首を見て絶望的な状況を認識した狩人が、幼児がだだをこねるように自分の置かれた立場を否定する為の叫びを放とうとするが、彼にはその声を上げる事すら許されていないのか、ニナが後ろから片腕を回して細い二の腕の関節で喉を締め上げる。他方の手が村人の耳の後ろに当てられており、直感で彼女が何をしようとしたか理解した私は、ただあらん限りの声で叫ぶしか方法が無かった。
「止めろッ────」
 ニナはこちらを振り向くが、その目は銀色と充血した赤で彩られており、表情はまるでない。白い屍衣と肌に飛び散った紅色は残像を見せながら翻り部屋の外に躍り出た。私が戦慄にかられ呆然と見送る中、ニナは集まってきた村人を薙ぎ払い外に出ようとする。咄嗟に彼女を止めようと腰を上げる途中、銃を撃った村人が目に入る。彼はまだ息があったようだが、ニナの一撃で気を失っているようで動く事は無い。手首からは大量の出血が続いており、生命すら危うい状態だった。助けを求める意味も考え、部屋の外に飛び出すと、雷光の様に飛び出していったニナに突き飛ばされ、唖然としている村人達を叱咤し、中の男を手当てするように命じる。比較的早く自分を回復した1人が、私と入れ違いに部屋の中に駆け込み、処置に当たった。私は一気に扉を走り抜け、小屋の外に出るが、最早ニナの姿は見えない。中に入った村人の助けに応え、外にいた連中が小屋に入っていった頃、持ち慣れない銃を地面に向けて半ば自失したパトラスが歩き寄ってくるのが見えた。

「きゅ、吸血──村長が──ニナが──」
「ニナはニナだよ。パトラス、ニナはどっちに行った?」
「あっ、あっち」

 パトラスの指は森の奥の方を指していた。私は今自分が取るべき行動に不思議と迷いを覚えず、パトラスの肩を掴んで力を込めた後、まっすぐその方角へと走り出した。パトラスは慣れない手付きで私に向かって銃を構え、精一杯の友情を示した。
「だめだ、ルガース、駄目だ──」
 その制止の言葉に応える事はできなかった。ニナが自分に向けられた銃口から身を守る為にした行動は、同時に私へ恐怖を与えるものだった。私の叫びを聞いて振り返った瞬間にその表情を読み取ったニナは、白く感情を失った眼で私に別れを告げていたのだ。
 だが、もう2度とニナを失う事はできない。もしこの世にそういう物があるのならば、虚無と化した日常、それこそが私にとって煉獄だったに違いない。ゆっくりと白みかけた空の元、森の奥へ走りながら一度だけ振り返った私の目には、友が膝を折って崩れる姿が映ったのみだった。



 森の中をひたすらに走る。わたしは何を追い求めているのだろう。それとも、何から逃げたいのだろう。わたしの命を狙う村人、この身を焼く日光、わたしを恐れる視線──。
 何を期待していたのだろう。何を望んでいたのだろう。自分にまだ何か残されたものがあると期待していたなんて、少女じみた夢をみているようで悲しくなってくる。
 悲しい?果たして今そんな感情が残っているのだろうか?わたしにそんな人間らしい感情が。わたしに残っているのは永遠の暗闇と、自分を制御できなくなるくらい強く襲ってくる血の渇きと、死にたくないと切に願う愚かな意識だけ。人間だったときに財産として考えていたものは尽く失われてしまった。それも、自分の手で泥の中に捨ててきたのだから誰を恨む事もできない。恨むとすればわたしを娘と呼んだあの男だけだろうけれど、彼はわたしに選択の道を示しただけに過ぎない。彼を恨む事はただ自分の選択から逃げたいのを転嫁しているだけなのだ。彼の予言した通り、わたしは自分で選んだのだから。

 今まで人間として、色々な道を選んできた。でも、それは今考えるとすべて自分の意思だったのか、自信が無くなってくる。これが運命と呼ばれる事なのだろうか。もし因果律というものが現実に存在しているとしたら、人が自分で考えて行動する事に何の意味があるのだろう。それも皆因果律の中に含まれてしまっている事ではないのか。いや、違う。これはわたしの被害妄想だ。自分が起こした行動が理想にそぐわないものだった為に、それを否定しようとして自分が納得したいだけなのだ。どちらにせよ、現実が変わる事はない。これがうなされる悪夢であって、目覚めたら父と兄の待つ家でいつも通りの退屈だけど幸せな日々を変わらず送るなどといった結末は、文字通り夢想でしかない。今こうして森の中を疾走して隠れ場所を探しているこのわたし自身が現実であり、紛れもない真実なのだ。
 深夜の銃弾で受けた傷は、ほぼ塞がり掛けていた。しかし、夜が明けて空が白んでくるにしたがって、数ヶ月前までは何とも思っていなかった朝の光が身を蝕む病の様に感じられる。いくら全力で疾走しても疲れを感じないことにかえって辛さを感じてはいたが、日光が身を焼き始めると自分の体の破滅を恐れて瞬時に思考は肉体の維持へと向かう。人間であったときならば、自己犠牲の精神や絶望によって自らの命を絶つことも考えたのだろうが、この体に変化してしまってからはまったくその気が起きなかった。自らの為ならば他のどんな犠牲もいとわない、極めて独善的で傲慢な存在、それがわたしだ。記憶として人間だった頃の意識は残っているのだが、まるで現実感を伴わない。わたしにとっての現実は、ただ光から隠れて生きる事だけ。

 できるだけ村から距離を置きたかったが、深夜の村人達の侵入によって隠れ場所を放棄せざるを得なかったわたしは、さほど進む事が出来ずに朝を迎えてしまった。村人達が接近するのを直前まで気付かなかった事といい、まったくまずい行動が続いている。わたしは日中の寝所を作る為に道から少し離れた所に両手を使って穴を掘りながら作業の思ったよりはかどらない事に歯噛みをしていた。クディックもこんな思いをしたのだろうか。彼はきっとわたしよりも何年も長く生きているのだろうから、こういった経験を少なからずしてきているはずだ。今度会ったら色々聞いてみたかった。そういえば、彼についてわたしは何も知らない。彼がどこで生まれたのか、一体何年生きているのか──。
 わたしの体がほぼ収められるだけの空間を確保して、いざ眠りに就こうとしたその時、その安堵感からか最も忌避するべき失敗を犯してしまった。木漏れ日がわたしの足に降り注ぎ、その直射日光の痛みに思わず振り返ってしまったのだ。わたしの両目を太陽の光が焼く。これくらいで死ぬとは思えないが、直接陽光を見てしまうと急に体から力が抜けてしまい、穴に入る前に倒れこんでしまった。道から外れている事もあり、陽光が全体に差し込むにはそれでもまだ時間はあるだろうが、昨日受けた傷を治した疲労と、朝の眠さから逃れられず体を起こす事ができない。わたしは実際に見た事はなかったが、昔話で聞いたように日光に体を焼かれて一握りの灰になってしまうのだろうか。でもこれで、やっと本当の死を迎えられるのだろうか。もはや自分に何も残されていない今、それでも構わないような気にもなってくる。だけど、嫌だ。死にたくはない。もうあんな暗いところで身を奪っていく喪失感に包まれるのはたまらない、もう経験したくない──。誰か、誰か助けて──、誰でもいい、わたしをこの穴の中に埋めて──。
 頭の中を死にたくないという浅ましい思いで満たしきった時、わたしの体に触れる者があった。わたしはもうその姿を見る事はできなかったが、考えもなく懇願していた。
「お願い、わたしをその穴に埋めて──、お願いします──」

 懇願は対象に対する完全な依存だ。それはとりもなおさず甘えた行動であり、力無い声は他人に届く事は無い。そんな普遍的な結論とは違い、わたしの体は誰かの両手に抱えられて自分が掘った穴の中に仰向けに横たえられた。土の冷たさが安堵の感情を沸き起こさせる。とりあえずはまだこの生活を続けられるようだ。わたしの存在を保った誰かに対して感謝を思うこともなく、自分の身に起こった幸運に歓喜に奮えているわたしに、穴の中に寝かせた人物は、静かに一言つぶやいた。
「おやすみ、ニナ」
 体の上に土が被せられる。声の主が誰かわたしには判る気がしたが、それよりも早く意識の混濁が夜までの眠りに就かせていた。

 夢は見ない。人間だった頃の記憶がいくらあったとしても、眠りの間はまったく意識も働いていないのか、暖かい記憶や体験が映像となって蘇る事はまるでなかった。思えば、この体になってから、極端に想像力に欠けてきているような気もする。1日の生活は、目覚めているか意識がないか。活動を続ける目標といえば自分の存在を維持する事だけ。人が「希望」と呼ぶものは今のわたしにはとても縁遠い物のように感じられる。あるいは、希望というものは自分の生命がどれだけ続くか判らず、死というものを知らない者に残された幸福な無知の状態であるのかもしれない。何かわからない物がある状態こそが「希望」であり、それがある状態においてのみ人は楽観的に生きていけるのかもしれない。他の同族も同じ事を考えるのだろうか。こんなに刹那的に生活する事を強いられて尚、何百年と残された永遠の刻を生きられるというのか。

 わたしは鋭敏に夜の匂いを感じ取っていた。それはもしかすると樹木の呼吸する匂いなのかも知れず、また気温の変化に鋭く感応しているだけなのかもしれないが、人間的に言えば「直感」に似た感覚でそれを感じ取っていた。周りに自分に対する敵意が感じられない事を確かめつつ、土中から右手を突き出す。厳密に言えば今の状態では利き手という物は存在しておらず、両手とも同じように完璧に使いこなす自信があったのだが、これは人間であったときの癖が残っているものか、自然と右から使う事を続けていた。土の中から顔を出し、辺りを見回して後もはや日光の支配を逃れた事に安心する。同時に、眠るときの記憶が蘇る──とはいっても思い出す必要はなく、わたしの中では連続して体験された事であるのだが。陽光に眩惑された両目は元通り見えるように戻っている。せっかく綺麗に整えられた帷子は破れたり血糊がついていたり、土で汚れてしまっていた。人間としての記憶に基づくならばこれは悲しむべき事であり、確かに少々の残念さも感じられたが、今は衣装を誇る相手もおらず、何より人であったとしても追われる立場ではそれに拘る事も許されなかったか。

 衣服についた血を見て、再び地下に潜る時の感覚が蘇る。わたしを穴の中に収めてくれたのは確かにルガースだった。あのときは混乱していて匂いを感じる事も出来ずにいたが、最後に掛けられた声は間違いなく彼のものだった。それが確かならばほぼ半日経過しているはずなので、彼がその後どうしたのか知れなかったが、あの小屋からわたし達を追ってきた村人がいたならば、無事に済まないかもしれない。それを考えると彼の身が心配になってくる。まだ夜は始まったばかりでもしも今村人達が追ってきたとしてわたしが命を奪われる危険はほとんどなく、逆に撃退できる力がみなぎっている故に初めて他者を思いやる余地が生まれたのだが、ルガースを探す事に決める。

 辺りには人家の類いはまるでなく、山道も通常の場合ならば使用されないほどの粗末なものだったので、彼が身を置ける余地はあるのかと疑わしかったが、探し始めて間も無く付近の木陰に枯草に紛れて眠る彼の姿を見つけた。人の目には極めて見付けにくかったのかもしれないが、彼の体から立ち上る生命の匂いは隠す事はできない。それを感じるのは森の獣としても同じ事であろうから、なんとも危険な事をしていると考えると、その人間特有の自己犠牲の精神にふと忘れかけた感情が戻ってくる気にもなる。わたしは彼の頬に触れると、彼の生命を何としても守りたいという感情に駆られた。頬に手を当てていると、掌から微かな体温が伝わってくる。血液の流れによるその温度の上昇は、そのまま彼の生命の証なのだが、今は不思議とそれに対して邪な欲望はわいてこなかった。ルガースがゆっくり目を覚ます。

「ああ、ニナ──目が覚めたんだね」
「ずっとここで眠っていたの」
「夢を──見ていたよ」
「どんな夢?」
「ニナと──、湖で歩いていた。また行けたらいいな──」
 素直に夢を語る彼を見ると、少し羨ましいような気にもなる。彼の手をとって立たせると、ルガースは少しはにかんだように苦笑した。
「最近すっかり昼夜が逆転してしまったな。ニナ、村人達はもう来ないと思うよ。一旦この辺りまで探しに来はしたけれど、彼らには見つけられなかったよ」
「そう、ありがとう──。貴方にはどうやって感謝をすればいいのか──。でも、これからどうするの──」
 二人の間にしばし沈黙が訪れる。村に戻れない以上、このまま山を越えて隣の村へ抜けるしかないのだろうが、1日では不可能だろう。となれば、日中行動のできないわたしはまた土中に戻らねばならず、それにはやはりいくばくかの危険が伴う。するとどうしても睡眠を摂ることの出来ないルガースに負担をかけてしまうことになるので、わたしとしても心苦しいのだが。ルガースの性格からして、是が非でも日中の見張りをかってでるに違いないし、その時わたしはまったく意識はなく、夜は移動の為に二人で歩かなければならない。せめて、馬車なりあれば楽に山越えをできるのだが、今は贅沢を言う事もできないか。その時、わたしの意識に直接語りかけてくる声があった。低い通るその声は、あのクディックのものだと知れる。

「どうしたの、ニナ──?」
「今、声が聞こえたのよ。といっても物理的に聞こえたわけではないんだけど。休めそうなところがあるみたい。昔の貴族が別荘として建てた後、捨てられた邸宅が──。とりあえずはそこへ行って休みましょう、それから──。でも、このまま別れた方がいいのかな。貴方はまだ村に帰れるわ。これ以上わたしに無理して付き合う必要はないのよ。わたし1人なら、急げば夜明けまでにその邸宅に辿りつけそうだし──」
 睡眠の足りないルガースはいつもよりも不機嫌だったのか、それとも人間としての感情を余りに無視したわたしの物言いに腹を立てたのか、やや彼らしくない語気で答える。
「本気で言っているのか、ニナ?君を置いて村に帰れとでも?そんな選択肢を選ぶと思うのかい?」
「でも、でも、わたしはもう人間ではないのよ、貴方とは根本的に異なったモノになってしまったのよ?貴方にはまだ残ったものがあるじゃない!人としての生活、人としての幸福──」
「確かに、今戻ればなんとか暮らしていけるかもしれない。ここで経験した事をほとんど口にしなければ、元通りの生活に戻れるかもしれない。だが、それが何になる?ニナ、そこに君はいないんだ。死によって隔てられ、永遠に会えないというのならそれでも諦めがつくだろう。しかし今回は違うんだ。もしここで君を置いていったら、それは自分の中での君の存在をもまとめて見捨てた事になる。誰に気付かれなくとも、自分自身に永遠に監視される人生の、どこに価値があるというんだ?」
 吸血鬼として涙を流す事はなかったが、それでも自分が人間だったなら確実にルガースの気持ちに応えて落涙していたことだろう。わたしはせめて微笑で答えようと思ったが、それすらもうまく出来ず、彼に自分の気持ちが伝わったかどうか、終に知る事はなかった。
「ニナ、2度と手放しはしない。ああ、ニナ。どこまでもついてゆこう」
 夜が次第に深まっていく。太陽の支配を受けた時間が地平の彼方に去っていくと共にその匂いが辺りを包み、ルガースにはわたしの姿が闇に紛れて消えていくのだろうかと考えながらわたし達は細い道を歩き出していた。

 また夜が来る。村長はそれを忌々しく見上げていた。我々の時間が終わる。人でないものの時間が始まる。有史以来人間はあらゆる手段を使って様々な獣に対抗して生きてきた。火を自分達のものにして、夜は死の世界ではなくなった。剣や銃を手にする事で、森の守り手であった獣達の牙も脅威ではなくなった。唯一の敵は人間自身。すなわち、互いの信頼こそが繁栄の鍵であり、それさえ為されていれば何も障害として有り得ない。
 だが、それが幻想だと言う現実をこの数週間で嫌と言うほど思い知らされた気がする。村長は、たとえそれが極めて狭い地域のみに有効なものであったとしても、自分に与えられた権力を疑う事はなかった。無能な支配者と言うわけではなく、村人から祝福されて皆を先導する立場の為政者。財力や軍事力のみに拘泥する過去の没落していく運命を知らぬ者達とは違い、自分こそは優れた村の救い手であると確信していた。
 しかし、その自負が揺らぐ。ジョシュアが蔑んだ一瞥をくれるのが目に浮かぶ。最も知られたくなかった相手に自分の弱さを教えてしまったようだ。思えば、自分がこれほど自身に対して過信していたのも、或いは若い頃にあのクディックに対して覚えた得体の知れない恐怖感の裏返しだったのかもしれない。であるならば、深い意識の底では完全な敗北を認めてしまっており、それ故に表面的な「力」からの脱却に拘泥していたに過ぎないのかもしれなかった。とはいえ、今更生き方を変える訳にはいかない。それこそ目の前に迫った問題からの逃避であり、それに陥ったなら自分はもう2度と立ち直れない気がしたからだ。

 森の入り口から踵を返し、村の方へと戻っていく。途中で中央から派遣された警官の姿を見かけたが、これは日に日に少なくなっているのは明らかだ。この連続殺人の背景にあったものが、単純な集団ヒステリーであると結論づけられ、目標はルガース個人に向けられた。人間1人の力ではこれ以上被害を大きくする事は困難で、かつ協力者が不在であれば逃亡する手段も乏しく、国境付近で警戒を続けていれば直に捕らえられるだろうというのが中央の担当者の考えであるようだった。もっとも、そんな指示が下るより先にとっくに現場の警察官達の士気は落ちており、職務に対して怠慢な態度が芽生えるより先に公式に撤収を命じたのが本音ではないかとも村長は考えている。いくら複数の殺人が行われたとしても、被害者らは政府の要人とは何ら関わりがなく、あまつさえ村の存続にも直接的に関わっていない身分の者達だった。自分の村にそんな立場の者が大勢居た事は内心驚愕せしめるものであったが、身寄りのない者への哀憫という私情を挟まないで考えるならば、これは幸運と言うべき事でもあった。吸血鬼の伝説を引っ張り出して事に当たるより先に、ルガースの処罰と言う事でさしあたって の問題は解決される事だろう。その点では、彼が生贄の山羊になってくれた事に村長は感謝すらしていた。
 だが、根本的な問題の解決にはまるでなっていない事は明らかだった。それは村長自身誰よりも熟知している。クディックと名乗った金髪の男、おそらくはニナの本当の父親であろうあの男の影がなくならない限り、世界の何処かで同じような事件が起こるに違いないのだ。それは判ってはいたのだが、これ以上クディックが村に関与しないという結末も有り得たし、それならば敢えて真実を主張して村人達の不信を自分に向けるよりも、沈黙のまま真相を墓に持っていった方が誰の為にもなるに違いないと結論づけるに至ったのだ。

「ヨハン、一体わしらの村はどうなるんじゃ」
 村に戻ってくると、入り口付近で自分の帰りを心配そうに待っていた数少ない自分より年配の老人が村長に話しかける。村長はそれが村人達の総じて共通した意見である事も熟知した上で、村長としての意見のみを述べる事にした。
「どうもなりはせんよ。ハンスの事は残念だったが、おかげで今まで悪行の限りを尽くしていた者を見付ける事が出来た。直に警察が捕らえる事だろう。ジョシュアも手を貸して山狩りを続けているし、わしらはただ待っていればいい。他の者も、皆元の仕事に戻って今までと変わらぬ生活を始めている。何も問題はないさ」

 昨日の山狩りの際に、重傷者が出た。彼は複数の村人と一緒に、ニナの死体を持って村から逃亡を企てたルガースを追っていったのだが、そこで見つけた見知らぬ廃屋の中で何者かに両手首を切断されたのだ。さいわいなんとか一命はとりとめたが、もう彼には元の生活は戻ってこない。さらに、恐怖にうなされた男の放った言葉は、ニナにやられた、というものだった。実際にルガースのいた部屋に入ったのはハンス1人で、他に同行していた者の話では彼らが部屋に入ったときにはルガースが中にいたのみで、既に辺りは血の海だったということだったのだが、部屋に入ろうとした瞬間に中から飛び出てきた影がニナによく似ていたというものも現れ、少なからず恐慌が起こり始めている。その後ルガースはハンスの手当てを他の村人に命じてから飛び出した影を追っていったということだが、最後にルガースの姿を見たパトラスの話は要領を得ず、ルガースがどの方向へ向かったかは判らずじまいだった。丁度その時最後の犠牲者が発見された辺りを重点的に捜索していたジョシュアはその話を聞くと、警官たちに混じって隣村との境界付近に向かっていった。村長は村に残り、村内に広がる混乱を収拾 する為のスポークスマンになってはいたが、その彼自身が事態の解決を絶望的と捉えていた。

 村長はすっかり疲れきっていた。村は表面的には何も変わらない。耕地を抜け、広場を抜けて中心部に戻ってくる途中でもまったく変化は見られなかった。村人達は皆仕事に精を出し、いつもと変わらぬ朝を迎え昼を過ごし夜になって眠りの準備を始める。周りの家々からは夕食の準備らしく良い匂いが漂い、平和と幸福に満ちているかのようだった。しかし、一旦村内からあれほどまでに悲劇的な事件を出してしまった事はもはや取り返しがつかない。哀れだとは思うが、ルガースの母親も村の生活に再び順応できる事はないだろうと考えていた。いずれどこか遠い場所を紹介してやらねばならない、自分の生まれた土地を離れる事は、自分も含めてある程度の年齢を超えた者には辛い事となるだろうが、他の村民の心情を考慮したならば止むを得ない処置なのだ、と。一刻も早く家に戻りたいと自然に歩く速度が速まる。家の扉を開けて真っ暗な部屋に戻り、灯りもつけないままソファーにいつも通り頭をうずめると、そのまま食事も摂らず眠りに就いて何もかも忘れてしまいたかった。

「ジョシュアはいないようだな」

 村長は一瞬自分の耳を疑った。それはしかし幻聴でもなく、ただ単に音の振動が鼓膜を伝わって脳に達したと言うだけの事だった。その声には聞き覚えがある。村長が遠い記憶の糸を辿ってその主を特定するより先に、顔をあげた彼の目の前にその主は姿を現した。
「な──、貴様──」
 この村では見られない透き通るようなプラチナブロンドの髪。夜目にも白く目立つ青い血管の浮いた肌。その目は、今は伏せられて見えないが、ほのかに銀色に輝いているはずだった。幼い頃のニナの手をひいて満月の夜に村長たち夫婦の元を訪れた記憶が蘇る。その時クディックと名乗った男の姿は、13年前とまったく変わらずに若々しかった。村長はあるいはこれはあの男の息子なのではないかと一瞬考えもしたが、その考えは自分自身によって否定される。あの時感じた違和感、そして同時に覚えた確信から、その正体は判っていたはずだった。時を経て姿を変えない魔物、それが目の前にいるものの本質だった。とはいえ、村長が今まで姿の見えぬ脅威に怯えていたのとは違い、目の前にいるものから漂う威圧感は現実のものだった。村長がソファから慌てて立ち上がろうとしたその時、彼の意思を察したのか目の前の男はそれを制する言葉を発した。
「灯りは止めてくれないか、電灯というものはどうしても馴染めない」
 クディックの手元に明かりが灯る。彼の右手には燭台が握られていた。それ自体は以前から隣の部屋に非常用として置いてあったものなので別に気に留めることもなかったが、クディックがどうやってそれに火を灯したのかは村長には判らなかった。クディックはしばらく半身のまま目を伏せてやや眠るような素振りを見せて立っていたが、村長がソファの肘掛を握ったまま動かないのを見ると、燭台を背後の壁際に備えられた飾り棚に置いて村長の方を向き直った。
「いきり立つな、お前をどうこうするつもりはない。その気になればお前の首はさっきの時点でとうに失せていたはずだ。そう言えば信じるのか」
 クディックの言葉は内容を吟味したならば紛れもない恫喝なのだが、その口調はあくまでも優しく、恋人に花を贈るかのような声色だった。とはいえ、村長にはそれが甘い囁きでなかったことは事実で、腰をソファに戻して体勢を整えたものの、肘掛を掴んだ手の力が抜ける事はなかった。村長は意識してクディックを睨むように見詰めると、目の前の男は銀色の目を静かに開いて村長の視線を受け止めた。

「何故戻ってきた」
「何故──?再会した先から質問か。だが、問いを発する時点でお前は私の行動に理由があると確信しているのだろう。答えがあると判っているなら、何故改めて問う必要がある?お前の期待に沿わぬ答えを得たとしてもお前は信じないだろうし、それならば問いを発することこそ無意味な行為だ。お前が持っている答え、それだけで充分ではないのか?」
 唄う様に問いかけるクディックの言葉は不可解だったが、それでも聞くものに納得させてしまう強制力を持っていた。その一言で急に自分の虚勢が萎え始めるのを理解しながら、あえて村長は通常自分が採るべきものと考えている態度を選択した。
「ふざけるな。お前は何かを企んでいてわしの前に現れたのだろう」
 クディックの目線は村長にまっすぐ据えられており、飾り棚によりかかって腕組みをした姿はすぐにでもこちらに飛び掛る事を予測させ、緊張を解かせないものだったのだが、表情はむしろ笑みにも近いもので、彼は村長との会話を楽しんでいるかのようだった。

「企む?私がか?何の為に?私は望んで手に入れられないものなどない。なのにどうしてわざわざ可能性を低くする必要があるというのか?」
 画策する事と希望する事は目的は同じだったとしてもその意味はまるで異なっている。その目的に対する手段を持ち得るか否かだ。前者はそれが自己による何かをもって対処できると言う事、後者は漠然と他者からの協力的要因を期待する事、それはあるいは幸運とも呼ばれるが、現実的にその目的までの経路が判別していないということだ。しかし、村長の目の前の男はそのどちらも必要ないと述べている。目的が判然とした場合、何らかの手段を用いて最も狡猾に遂行するより早く、彼はそれを簒奪してしまうと言うことか。言葉としては極めて理論的でないように思われたが、その自負は自明であるように感じられた。彼はそういった自負を持つだけの何かを秘めている。そんな直感から、村長は返答する事ができない。

「──」

「それよりも先に私に聞くべき事は無いのか?何故夜を選んで隠れるように人の家を訪問するのか?何故灯りを嫌がるのか?どうして以前に会ったときから少しも歳をとっていないのか──?判っているんだろ、私が人とは違った血族に属している事を。だからこそお前は恐怖している。理解の及ばない世界の住人に。人が昔から狂気とか悪と呼んで忌避していたものだな」
 全てが混沌とした東洋的な宗教と違って、村長も唯一的な信仰の洗礼を受けていた。彼は熱心な信仰者ではなかったが、それでもその基本理念は理解しているつもりだったし、それについて考えてみた事も幾度かはある。彼に信仰を説いた伝道師は「悪」も「善」から自発的に産まれた物だと説明したが、それでも彼にはこの世に「悪意」が確実に存在している事を実感していた。それは自分の中にも存在している。果たして「悪意」とは何なのか。それは自らが理解し得ないものへの恐怖なのかもしれなかった。もしくは、その恐怖のスープを理性や常識といったもので薄めた、味を感じられなくなった嫌悪感なのかもしれない。理解できないものは所詮「敵」だし脅威だし、その敵が唱える理論は狂気以外の何者でもないし、その「敵」が自分の世界を侵すことを予測しえたならば、その現象に対する感情は恐怖となり得る。村長は今恐怖を感じている。それまで中世的な魔物の跋扈していた暗黒の時代から抜け出て、やっと新しい価値観の洗礼を受けようとしたその時に目の前に現れた科学の敵、サタンに対して。
「そんな事を話しにきたのか?貴様は暇を持て余しているのかもしれないが、我々には与えられた時間が限られている。用が無いのならどこへなりと消えてくれないか」
 クディックの口元が歪み、半円形を形作って大きな笑みを生む。歯は見せなかったが、真っ赤な唇が欠けた月の形をとって笑いの表情を作ると、それは見る者の心を寒からしめる絶望の笑いとなった。
「自分とは違うと見とめたか。いいね、素直な人間は好きだよ。真実はいつも美しい。たとえそれがどれほど残酷であってもだ。──『用』ならいくらでもある。まずはそう、約束を果たしてもらおうか」
「何の事だ」
 村長は額に汗が浮かぶのを感じている。まだ垂れるほどの粒になってはいなかったが、シャツの下の背中には冷たい汗が少なからず流れている。
「ニナと共に君の元を訪れた晩、私は確かに『預かってくれ』と頼んだ。私は何も拘束をしていなかったのだから、君も正しい精神状態で約束を聞いているはずだ。ならば、返してもらう為にここに来たとしても不思議はないだろう」
「──あれから何年経ったと思っている?13年だ。それまで何も事情を話さずにいたのだから、貴様がもう居ないものと考えるのは当然だろう。ニナがリーテルの娘だと思ったからこそ、わしはニナを預かったんだ。ニナはわしの娘として育てたし、あれもそう思ってくれている。今更お前が名乗り出たところで信じる理由は無いだろう」
「ヨハン、君は何も判っていない。ニナは確かに私の娘だ。そして私はヴァンパイアなのだ。ヴァンパイア同士には血の絆が確固としてある。血の中に受け継がれた情報はどれだけ忘却の彼方に封印した記憶でも、たちどころに蘇らせる事が出来るんだ。ニナはまだ疑ってはいるが、私達の血の繋がりは信じ始めているよ」
「お前の言っている事がもし本当だとして、だからといってすぐに子犬をもらう様に受け渡しできると思うのか?お前のような人でなしにとっては13年はさしたる長さに思えないかもしれない。だが我々には違う。わしらは、ニナが物心つく前からずっと成長を見守ってきた。ニナだって、人生のほとんどを家族として接しているわしらを捨てる気になるはずがない。お前が永遠に生きられるというのなら、わしらが死んだ後で引き取るなり何なりすればいいだろう。何故今になって──」
 クディックの口調は物分りの悪い生徒に教える教師のように、一語一語噛んで含めるように丁寧なものにいつしか変わっていたが、村長の答えがほぼ懇願に近い形に変わってくるにつれてクディックの態度も緊張感を欠いた物に変わってきていた。村長の問いを受けたクディックは、ため息をつくように──実際は「ため息」を付く事ができないのだが──、眉頭を上げてやや上方を見詰めながら言葉を続けた。
「今でなくてはならない理由があるのだが──、少し長くなるが、昔話に付き合ってくれないか、ヨハン──」
 ソファに座ったまま相手を下から睨むように見上げていた村長は、自分の膝に肘をついて両の拳を組んで口に当てていたが、クディックの言葉が自分への問いかけで途切れている事を知ると、静かに立ちあがってクディックの左方の飾り棚を開けた。

「医者には止められているんだが──、とっときのワインがある。飲むか?」
 クディックは目を伏せ、首を横にふるだけで申し出を断った。村長はそのままグラスとともに一本の瓶を出し、ソファに戻るとグラスに赤い液体を注いだ。実際は部屋の中の光量が足りない為に黒く見えるのだが、陽光の元では見る者を魅了する赤みである事は確かだった。酒を口にすると、若干の落ち着きを取り戻す。他人から見れば、ソファに座ってワインを傾けている老人の方がよほど吸血鬼然と見えたに違いない。それほど金髪の若い男はその永い生を象徴していなかった。多少着ている服が時代がかっているものの、それ以外は平凡な青年に過ぎない。もっとも、正面からその眼を見た者は彼の真価を知る事になるだろうが、その眼と共に2本の長い牙さえも見てしまったならば、多くの場合はその存在をこの世から失う事になるだろう。
「リーテルを覚えているか」
 クディックは右壁際に置かれていた粗末な木製の椅子を引き寄せて座った。様々の家具に紛れて置かれたその椅子は他の家具と同様、妻が掃除をしなくなってから埃を被り放題であったが、クディックはまったく気に留めていないようだった。彼が椅子の上で足を組むのを見ると、村長は彼の言葉の意味を反芻した。脳裏に1人の少女が浮かぶ。まだ父が健在だった頃に出会った少女。陽光と笑顔の似合う女性だ。記憶の反芻がやや深い部分に触れそうになり、村長は目を閉じた。
「ああ、リーテルにはわしが今のニナくらいの時に初めて会った。美しく、そして賢い娘だった」
「そうだ。あれほどに素晴らしい女性はいない。私はリーテルを愛した。リーテルも私を愛してくれた。誓って言うが、私は人としての心を持って彼女を愛した。あれほど深く誰かを愛する事はおそらくもう2度とあるまい。あるとすればニナだが、この場合は少し違うな──」
 ふと、クディックの顔が親のそれになる。村長にしても幾人か自分の子供について話す友人を見て、その度におかしさを覚えたものだったが、彼の場合は飛び抜けていた。見た目はまったく若い青年のままであるので、まるで世間を知った風の若者が人生を説いているようで、そのちぐはぐさは笑いを呼ぶものだ。とはいえ、クディックの表情は真剣そのもので、あるいは先の表情も無意識だったのかもしれない。
「だが私とリーテルの愛情は周囲から祝福されるものではなかった。こんな事を言うと変に思うかもしれないが、我々ヴァンパイアの中にも掟というものがあってね──、もっとも我々は孤立して完成された単体だから、人間のように皆で協力して生活共同体を営む事はない。ただ、種族全体を脅かす禁忌がいくつかあるのみだ。吸血鬼と人間が結ばれるのもその一つだ。吸血鬼と人の間に生まれた子が優れた吸血鬼殺しになるというのは聞いた事があるだろう?」
 それは村長にも経験があった。彼自身、首都に行って学問を修めた過去を持っているので、その時に色々の噂を聞きもしている。中世の吸血鬼伝説もその一つで、ダンピールとかいう外国の吸血鬼とのハーフは、父である吸血鬼を殺す唯一の手段であると考えられもしたらしい。

しかし──。

「ああ──。だが、吸血鬼自体が伝説だと信じられている今、それを真に受ける人間がいるとは思えないがな」
「我々は信じているさ。実際にそれはそうなのだよ。人と吸血鬼の特性を併せ持つハンターは、我々の動けぬ昼間を使って狩りを行う。何より、吸血鬼を信じないという我々にとって最大に有利な条件を持たないのが強みだ。最良のハンターはその親のみならず種族全体を通して危機を与える為、その存在は禁忌とされている。また、人を愛したヴァンパイアは人の味方をして血族全体の敵となる可能性もある。通常は年月を経て充分に精神的強さを持った血族のみが純粋な人間との結ばれる事を許されるのだが、私の場合は子を設けないという条件で一族の長に許可を得ていた──」
「だがニナが産まれたわけだな」
「そうだ。私自身本当に人間と吸血鬼の間に子供が生まれる事に半信半疑だった事もある。それは私の愚かさから招いた事態なのだが、一族に知られれば彼らはリーテルを消そうとするだろう。我々血族の情報伝達は極めて早い。守りきる自信がなかった私は、リーテルを血族に迎え入れた」
 クディックは先とまったく変わらずに淡々と話していた為にその内容の重要さはともすればわすれがちだったのだが、村長は即座にその意味を理解した。
「貴様、リーテルの血を吸ったのか!」
 村長の手に持たれたグラスが揺れ、中の液体がもこぼれそうになる。
「それより方法が無かったんだ!私は、吸血鬼同士の子ならば、吸血鬼殺しにはなり得ないと考えたのだが──。結局リーテルの命を縮める結果になってしまった。ニナを生んですぐ、リーテルは天に召された」
 天に召された。クディックが敢えて宗教的な匂いのする表現を使ったことにより、彼がそれに対して特別な感情を抱いている事が知られた。亡くなったリーテルへの哀慕なのか、その悲惨な最期に対して忘れたい想いなのか。

「ニナは吸血鬼ハンターになるのか」
「いや、女性はハンターにならないはずだし、第一完全な吸血鬼として生まれるはずだった。しかし、成長するニナに吸血鬼としての徴候は見られなかった。ニナが人間らしいと判ると、私は自分の能力の限界を感じ始めた」
「限界?」
「我々は日中活動する事が出来ない。ニナは人間と同じ暮らしをするべきなのに、昼の間は育ててやる事ができないのだ。ましてや、ニナが危険にさらされたとしても守ってやる術がない。考えた挙句にリーテルが若い頃に住んでいたという村にニナを預ける事にした」
「それが13年前だな」
「そうだ。私にはそれ以上ニナの父親として育てる事が不可能だと思ったし、人の中で暮らせば普通の人間として一生を終えられると思ったのだ。人間であると言うことが証明できれば、同族の目を気にする事もない」
「ならば何故今更」
「それから私は世界を旅して回った。色々なものを見たよ、地平まで続く岩山、空一面のオーロラ、年中溶ける事のない閉ざされた氷の大地、世代を越えて殺し合う人間達──。そんな中、私は奇妙な噂を聞いた。ニナと同じく吸血鬼と人との間に生まれ、ハンターとしての素質を見せる事無く普通の人間として育ってきた男が、突然暴走したのだ。原因はわからないが、体に眠る血の覚醒と人間としての理性が干渉しあって個人の許容量を超えてしまったのだろう。彼は数百の人間を殺し、止める為に男を闇に葬ろうとした数十の吸血鬼も殺し、最期には火口に投げ込まれ髪一本残さずこの世から消滅した──」
「ニナがそれに当てはまると言うのか」
「その時点では判らなかったが、私はニナの元に戻って様子を観察した。君らにはわからなかったのかもしれないが、ニナの体に私の血が生きているのは一目で解った。同じだけ両親から受け継いでも、吸血鬼の血は人間のそれに勝ってしまう。その均衡が崩れるのが人間として完成されつつあるこの時期──。一刻の猶予もならぬと判断した私はニナの血の封印を解く事にした。吸血鬼として覚醒してしまえば破滅に陥る事もない」
 村長もニナの態度が変化しているような違和感は感じていた。それはしかし、思春期ゆえの変化なのかと捉えており、あるいは女親がいればもっと早くに気付く事もあったかもしれないが、いや、気付かない振りをしていたのか。ニナの親としてクディックに責められているようで、我ながら弁明地味た口調になっていく。
「お前はニナの気持ちも考えずにそんな事をよくもできたものだ。やはりお前は──」
「ルガースとかいう男の事か?確かに私はリーテルを失ってこの数年にすっかり吸血鬼としての心に近づいてしまったが、そんな人間の下らん感傷に浸って手をこまねいているよりはましだ。放っておけば、死よりも哀れな状態になるのだぞ」

 クディックは、これは彼のクセなのだろうか、食指を赤い唇の前に立てて視線を真っ直ぐに飛ばしている。やや眼が細まり、その部分を強調したい意思が伝えられる。
「ともかく、人生観をどうこう言ったところで君と私達には決定的な種族の差が有るし、その溝は埋められない。そして、ニナは私達吸血鬼の側に迎え入れられたのだ。もはやそれが変わる事は2度とない」
 クディックは再び指を下ろし腕を組んだ。その軽い拒絶は、村長からニナが剥離していったことをも示していた。

「ああ、ニナ──」

「いい加減にしないか、ヨハン──。お前が臆病な精神を披露したところで事態は収束し得ない、むしろその逆だ。お前の息子のジョシュアの方がよほど現実を見ているのではないか。私は今の状況を説明しただけだ。お前に同意を求めるつもりはない──。我々はこれからのことを話すべきだ」
 苛立ったように荒々しく椅子から立ちあがり、獣が威嚇するかのように青年は部屋の中を歩き回る。革靴の底が床板に触れる音だけが部屋の中にこだまして誰にも省みられないまま消えていく。村長は両手の平で顔を覆ってしまい弱々しさを表現している。そうしていると、まったくただの老人のように見られた。
「私はニナを連れていく。吸血鬼として生を歩み始めた以上、生きる術を教えるのが闇の父としての努めだ。私はニナを独立した存在にするよう教育しなければならない。我々は老いて死ぬことはないが、それでも存在を断たれる危険がないわけではない。ただ、そのルールが人間とはまったく違うのでな。そこで、だ。ヨハン、君には我々の追跡の手を止めさせて欲しい」
「だが、どうやって──」
 村長は動かない。いや、動けなかったと言うべきか。それまで均衡していた空気はある瞬間を境にまったくクディックの方へ流れていた。村長は顔を覆った手の指の間から苦しげな声を漏らすのみ。彼は何に拘泥していたのだろう。或いはただ混乱して明晰な思考ができなかっただけなのかもしれない。それでも、そんな打ちのめされた人間を見る事に慣れてでもいるのか、クディックは彼を見下ろすように冷たく話し続ける。
「私に策がある。国境付近に警官隊が駐留しているから、そこをあるモノに襲わせる。それを犯人として皆に認めさせた後、事件が解決されたと村の者が信じればいい。その為には、そうだな、襲撃箇所に誰か信用できる者を送り込んで、それを村に伝える役目を持たせる事だ。馬車などがあれば半日で辿り着けるだろう。それから村内の主だった者を検分にいかせれば終わりだ。それで信用は得られるだろう」
「そんなにうまく行くものか」
「行くさ。村人達も、いや、駐留している警官たちにしても事態の解決を心から望んでいる、納得できる理由が与えられすれば、それを信じるのが人間と言うものだ。大体、お前にしてもそれを与えようと考えていたのだろう?数百年前の吸血鬼事件をヒントにして。もっとも、それはお前だけは真実に迫っていると確信していたわけだが」
「ルガースさえあんな事をしなければ上手くいっていたんだ」
「違うな、ルガースがしなくてももう一人同じ事をしようとした奴がいる。それに、お前達が掘り起こした者達は吸血鬼の兆候を示してはいなかった。当たり前だ。そんなに容易に吸血鬼が生まれてたまるものか。ともかくあれでは住民の不安が消える事は無かったに違いない。次々と吸血鬼の疑いがかけられていたことだろう。ややもすれば、お前自身が疑われたかもしれないな」
 老人はすっかり奸言に飲み込まれている。もはや彼自身では思考を続ける事あたわず、ただ諾々といかにも親身になって相談に乗っているかのような態度に押し切られているのみだ。クディックは中世画に描かれた誘惑する悪魔よろしく、ヨハンの肩に手を置き声を落としながら言い聞かせる。ヨハンはようやく顔を覆う手から視線を上げたが、既にその眼は現実の世界を見つつ何も見ていない。
「馬鹿な」
「有り得る事だよ。私が生まれた頃はまだ異端審問がひどい時期だった。あれは別に本当の悪魔狩りを行っていた訳じゃない。自分にとって都合の悪い奴を告発して消していっただけの話だよ」
「もういい、判った。お前達がこれで村から離れていくというのなら追う事はしまい。信頼できる者をあたってみよう。だが最後に、もう一度ニナに会わせてもらえないか」
 外見だけの青年は上体を起こし老人から離れる。これは完全な取引の交換条件であり、老人がその契約を飲んだ事を示していた。とはいえ、その条件にクディックは不満だったのか、今まで笑みすら浮かべていた表情を元の冷たい仮面に戻し、ほとんど唇を開かないで器用に言葉を発した。それは見ようによっては官能を催させるものであったのだが、先刻から顔を直視する事が出来ないヨハンに気付くはずも無い。
「ニナを連れてくる事はできないが──、しばらく我々は国境付近にある古い貴族の別宅で過ごしている。今は誰にも使われなくなって久しいからそれに至る道もなくなってはいると思うが、隣村に続く道を行けば判るはずだ。赤い尖塔を目印にすればいい」
「ニナを頼む」
 老人の目は手元のグラスにのみ注がれている。か弱そうな青年の視線すら、今は受け止められる自信がなかった。元々蛮勇を誇示するタイプではなかった上に、脆く被った虚勢のペルソナを奪われたとなれば、残されたのはただ浪費された時間を刻んだ額の皺のみだった。クディックは再び笑みを浮かべて柔和そうな青年に変化する。腰を折り曲げてヨハンの薄くなりかけた頭を見ながら、頭皮を通して直接脳に染み込ませるかのごとく別れを告げる。
「判っているさ。だが、彼女はすぐに私の手を離れる。いつまでも私の庇護下にいるわけではないよ。お前は、残された人生を大事にするんだな」
 明かりが消える。ドアの開く音はしなかったが、部屋の中から気配が消えた事からクディックが出ていったことを知った。
 村長の心に父親の言葉が蘇る。お前なんかに俺の跡を任せておけるか──。父親が死んで止む無く村長の地位を与えられ、必死に努力してここまで信頼を得る事ができた。誰にも頼られずにただ父親の陰に隠れておどおどしている弱虫ヨハンはもういない。しかし、それでも長年の間に複数被りつづけてきた仮面が崩れて少年のときの無力な自分がまだ内にいる事を知らされる。気付かずにいられればどれほど幸福な事だろう。今思えば、ジョシュアに必要以上に厳しく当たっていたのは、あの鋭い視線が怖かったからなのかもしれなかった。ジョシュアが祖父から受け継いだ、鷹のように獲物を探すあの目を怖れて。
 村長はソファを立ちあがり、部屋の明かりを付けようとして空のグラスを持ったままだった事に気付き、電灯のスイッチを左手でひねった。部屋の中に明かりが戻った事に心底安堵の感情を覚えながら、それでも自分の置かれた状況が考えていた中でも最悪の部類に達している事を噛み締めていた。ソファに腰を下ろし、傍らの瓶の中の液体をグラスにあけた。一気にワインをあおってから自分が医者から酒を止められていた事を再び思い出す。その事に思い至って咄嗟に口の中に残った分を飲み下す事を躊躇い、村長は人の生き死にに関わる問題に携わっている最中に自分がまだ健康を考えていた事に気付いて苦笑した。意識して笑ったのはどれほど久しぶりか判らなかったが、それまで刻まれていなかった顔の皺が作る線は、笑いをまるで泣いているかのように歪めていた。

(続く)

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