第3部 不死への渇望

 どうかしたの、という母親の呼びかけに我に返る。止まっていた手を動かしながら手元の弓を見つつ答えた。
「いや、なんでもないよ」
「あしたは狩猟祭でしょうに、そんな調子じゃ鹿と間違えて撃たれるわよ」
「鹿?」
 母親は笑いながら奥の部屋に入っていった。いや、僕は笑う気にはなれない。
──ニナ。
 何故、来なかったのだろう。
 今までそんなことは一度も無かったのに──。
 来る途中に何かあったのだろうか。
 それともプロポーズを受けるのが嫌になったのかな──?
 まさか、ね。
──それとも、村長に止められたのだろうか。しかし、まだ婚約の事はニナのお父さんには話していないし、止められる理由も特に見当たらない。
 ニナ──ニナ、いま何処にいる──。

 まったく僕という男は──。
 確認しようにも彼女の家に行くこともできないのは判りすぎるほど判っていた。今はこんな無駄な考えにとらわれることなく、明日の狩猟祭の準備に取り掛かるほうが大切だ。
 ふと、静かな夜を一つの音が遮る。トントン、トントン──。
 玄関の戸が音を立てている。そこに不審な点はなく、いつもであれば何気なく聞いていた事だろう。ただ、遅すぎる時間が問題だった。こんな遅い時間に客だなんて──。何か悪い知らせでなければいいけれど──。
 手にした弓の弦を指で弾く様に試しながら、奥の部屋を振り返る。母親は奥の部屋で寝ているのか、部屋から出てくる様子はない。
「どちらさまですか?」
 扉を開ける前に向かいにいるであろう相手に声をかける。しばらく返答を待ってみるが、返って来る筈のそれは聞こえない。ドアの向こうでなにかの気配が動くのも感じられない。もう一度確かめてみようとするが、自然と声が低くなるのが自分でもはっきりと判った。
「だれ?」
 相変わらずノックの主の返答はなかったが、その時瞬時に閃くものがあった。
 陽光の中で僕に笑いかける婚約者の姿。
「ニナ!!」
 半ば叫ぶようにしながら勢い良くドアを開けた。そこには予想した通りの相手が立っていたので、自分に起こった奇跡に打ち震えようとしたが、彼女の曇った表情はその気持ちを冷めさせた。彼女は何かを話したげに口を開いたまま、言葉を告げられずに立ちつくしているのみだった。
「ニナ──」
 外は寒い。ニナの体が震えていたとしてもそれは不思議なことではなかったろう。しかし、彼女の寒さは外気に触れたからだけではないようで、僕の心をかきみだした。とにかく、外に立たせたままだというのでは、どんな相手であろうと礼を欠いているに違いない。それが愛する者なら尚更で、僕はいつものように彼女を家に招き入れ、自分の部屋に導いてベッドの上に並んで座った。母が起きてくるかとも思ったが、その気配はない。普段から寝つきはいいほうだが、時間が遅いせいもある、仕方あるまい。僕の部屋で落ち着くところはあまりない。部屋には机と椅子が一人分しかないせいで、客にはいつも不自由をさせるのだ。しかし、これから話す内容は、いくら母が寝ているとはいえ、隣の居間でしやすいような話ではないように思える。未だ一言も話そうとしないニナに、何か飲み物を持ってこようかと聞くが、彼女は黙って僕の服を引っ張ることでそばにいて欲しいという意思を告げた。
「ルガース、私──」
 ニナの声が震えている。必死で僕に何かを伝えようとしているのだが、何かショックな事でもあったのか、次の言葉を継げられないのだ。窓の外は真っ暗な闇。ベッドで隣に座ったニナの方を向くと、ニナ越しに夜の闇を見ることになる。夜の闇に浮かぶニナの白い頬。普段から特に色素の薄いニナだったが、今は明かりのせいだけではなく蒼白になっていた。まるで顔からすべての血が流れ出してしまったかのように。
 僕は、ニナの様子から気付く。彼女は、昨日の約束の事について何か言いたいのではないだろうか。昨日僕が彼女に結婚の約束を告げたのは彼女にも伝わったはずだ。もっとも、僕の不手際で実際に指輪と共に申し込むのは深夜になってしまったのだが。ああ、僕が最初から指輪を用意していれば、何も問題なく終えたのに。一旦はニナが呆れて気変わりをしてしまったのかとも思ったが、今日こうして僕の元を訪ねてくれたのは、正式にプロポーズを受ける意思を持っているということなのだろう。指輪は、今母親が眠っている部屋の机の中にしまってある。自分の部屋に置いておいた方が安心は安心なのだが、厳重に鍵が掛けられる入れ物は母親の化粧箱なので、用心に越したことはない。無くしてしまったら、もう一度すぐに用意できるようなものではないんだ。少なくとも、僕にとっては。
 母が眠ってしまったのだとしたら、いくら僕たちの重要なこととはいえ、起こすのはあまり良くないかもしれない。そうするにはあまりにも時間が遅すぎるのだ。頭の中で色々な考えが浮かんでは消えて行く。はっと我に返ると、ニナも言葉を失ってしまっているようでその場にはしばらくの間沈黙が漂っていた。
 何か話してあげなければ。彼女は何を言おうとしているのか。いや、彼女は僕に何を求めているのか。考えがまとまらないままの僕だったが、口をついて出た言葉は意外にも単純な許容の言葉だった。
「いいさ」
 ニナは僕の答えがあまりにも意外だったのか、伏せていた顔を咄嗟に僕の方へ向けた。その口元は、えっ、という言葉を音のないまま発していた。
 ニナは何かをかなり気にしているようで、いつもと様子が違う。さっきから身体の震えも止まらないようで、僕は何を先においても、彼女を安心させてあげたかった。その次に出た言葉は、彼女を安心させるという意味を持っていたが、咄嗟に思いついたにしろ内容は僕の気持ちに反したものにはならなかった。
「ニナが無事なら別に構わない。何か事情があったんだろうけど、言いにくいなら気が向いたときでいいよ」
 僕の目を見ていたニナが再び顔を伏せる。両手は握られたまま小刻みに震えている。その震え方は、さっき外にいたときのものとは違っていた。泣いているのかな、と思い目元に指で触れたが、そこに涙はなかった。僕は自分の意識の過剰さに恥ずかしい思いをしたが、僕の意思は彼女に伝わったのか、彼女は小さくうなずくと、僕の肩に頭をもたせかけてきた。軽いけれど、彼女の重みを体で感じる。ニナの髪が僕の頬に触れると同時に、甘い匂いが漂ってくる。彼女のその無防備な態度と併せて、僕はぼんやりしはじめながら、さっき自分が放った言葉を反芻していた。確かに、気にならないといえば嘘になる。ニナが昨日、僕の婚約の意思を知りながら約束を破ってまで訪ねていたのは何処なのか。今朝になって村長にも聞いてみたが、ニナは一晩中まったく行方がしれなかったらしい。もう少し彼女が帰ってくるのが遅ければ、何らかの犯罪に巻き込まれたと考えられて村のみんなで捜索を始めていたところだ。しかし、今までニナが何の理由もなく約束を違えたことはないし、あったとしても止むに止まれぬ理由がきちんと存在していた。今回にしても、彼女には何か重大な理由ができたのだろうと 思う。ただ、僕との待ち合わせの意味を考えると、それをどう説明したらいいのかを考えているに違いない。
 どれほどの間、そうして言葉一つも交わさずにいただろうか。しかし不思議と息苦しさは感じなかった。ただ彼女がここにいてその存在を感じていられるというだけで、僕は満足だった。ニナも、先程までのショック状態から解放されたのか、すっかり落ち着いているようだ。昨日のことは、ニナの気持ちが落ち着いてからゆっくり話してくれればいい。今はただ、二人で一緒に時間を過ごせることが重要に思われた。
 ふと気がつくと、外はやや白みかけている。いくら婚約を交わす仲とはいえ、彼女のお父さんの手前もある、僕はニナを家まで送っていくことにした。家の近くまで送っていくと、彼女はここでいいと立ち止まる。僕はニナにキスをすると、そのまま家路についた。途中のことはあまり頭に残っていない。夢の中の出来事のようにおぼろげなまま、狩猟祭の用意もそこそこにベッドに倒れこんだ。

 翌日──。

 中央広場には大半の村人がつめかけていた。中央の泉の周りに狩猟祭へ参加する僕ら未婚の若者を中心として、腕に自信の有る無しに関わらず健康な男ども全員が集まり、その家族や女たちが周りを囲んでいた。みな一様に、これから始まる年に一度の娯楽に期待を膨らませていた。それを代弁するかのように、晴れ渡った青空には雲ひとつない。ただ、僕の気持ちはあまり晴れやかとはいえなかった。結局、ニナからは何も聞くことができなかったからだ。もちろん、彼女の気持ちを考えればそっとしておくのが一番なのだろうと思うが、指輪を渡して結婚を申し込むタイミングも見事に逸してしまっていた。
「ルガース!」
 呼ばれて振り返ると満面の笑みを浮かべたパトラスが駆け寄ってくる。パトラスとは年が近いせいもあって、普段から仲良くしている。今度の狩猟祭においても一緒に行動しようと話していた。パトラスも僕と同じで狩りの腕は大した事はない。よって、お互いに足を引っ張ることはなく、のんびり行こうと言う訳だ。
「いよいよだなぁ。今回は頑張ろうぜ、ルガース。そうそうジョシュアなんかに負けてられないからな」
 そうだった。前回の優勝者はあのジョシュアだ。村長の息子という立場も関係有るのか、ジョシュアは毎年最高級の道具を使って狩猟祭に挑む。もっとも、彼自身の腕も我々よりは数段優れているので、誰もそれに異存を唱えるものはない。だからといって、村の中で小さい頃から比べられてきた我々にとってはそう面白い状況でもないのは確かだ。
 狩猟祭とは言っても、細かなルールがあるわけではない。村の行事として、山に入り動物を狩り、一番成果のあったものが優勝者となるという点が同じなだけで、どんな動物を、とか区域はどこまで、とかはすべてその年の優勝者が決められることになっている。ということは今回もあいつがルールを決めるのか。
 でも今はそれどころではない。毎年それほど熱っぽく行事に参加するわけでもない僕だったが、今年はそれに輪をかけて集中することができなかった。どうしても昨夜のニナの様子が気になって仕方が無いのだ。
「──なんだってよ。嫌になっちまよう、まったく。おい!聞いてるのか?ルガース」
「えっ?ゴメン。なんだって?」
「だからジョシュアのやつが決めた今年のルールのことだよ」
「どうやら今年は2日間で得た獲物の総数で決めるらしいぜ」
 パトラスは本当に嫌そうな顔をしながらそう言った。
「2日間?何言ってるんだ。毎回1日だけじゃないか」
 日数を延ばすことで何か得になることがあるとは思えない。狩猟祭に出ている間はみなが終日それにかかりきりになるわけで、すなわち村の働きもそれだけの期間停止するということだ。それゆえに毎回1日限りで決めていた筈だが、どうして今回だけ。
「よく分かんないけどさぁ。特別ルールだとよ。夜行性の動物も対象にしたいらしいよ。って、お前何も聞いてないな」
 夜行性、何故──危険な夜まで──。
「あぁ。ちょっと遅れて、さっき来たばかりなんだ」
 そう。僕は昨夜遅かった事と、ニナのことが気にかかっていたおかげでなかなか寝付けなくて寝坊をしてしまったんだ。僕が来た時にはもう村長の挨拶も前回優勝者のジョシュアの戯言も終わっていた。気もそぞろな僕の態度にパトラスも諦めたのか大げさに両手を上げて降参の意思を示すと、広場の中央に据えられた高台の上で懐中時計を見る村長の方に向き直った。後は開始の合図を待つだけだ。
──だが?ニナの姿が見当たらない。村の者は総出でここに来ているはずなので、彼女だけ別の行動をしているとは考えにくい。だが、先程から探していても一向に見あたらなかった。この場所に来ていないのだろうか。
 そうこうしているうちに、村長が右手を上げて開始の合図を青空に響き渡らせた。
「ほら、ルガース!」
 一斉に森に駆けて行く村人達の中で、パトラスと僕だけが出遅れてしまったようだ。周りで見ている女たちの中からも笑い声がもれる。
「悪い、パトラス、先に行ってくれ。今日は調子が悪いみたいだ。あとからゆっくり行くことにするよ」
「よっしゃ!じゃぁな、ルガース。お互い頑張ろうぜ」
 そう言うと陽気なパトラスは皆と一緒に森の方へ駆けていった。

 ニナ。一体どこへ行ってしまったのか。彼女の家に行って確かめたい気持ちを抑えながら、僕も森へと入っていくことに決めたつもりだったが、やはり二ナの事が気になる。
こういう小さな村では、村人たちが集まるイベントは極めて重要なことだ。ここで示す行動は、それを観察する独身の女たちや、ひいては彼女たちの家族の目にもとまる。つまり、今後の人生の公的な評価が決められると言うわけだ。子供の頃はさして重要ではないと考えていたこんな行事も、年齢を重ねる毎に重みを感じることになろうとは。ましてや、決まった相手のいないパトラスのような独身男にとっては、最も力を発揮すべき時なのだ。とはいえ、こんな状況では狩りなんてする気にはなれない。獲物の動物よりも、探すべきなのは何か、僕には判っているつもりだ。村長親子に何か言われるのは分かっている。村人の団結を乱すな、手を抜くな──。
 しかし、優勝の名誉を得たところで、何が手に入るのというのか。たとえ優勝したとしても、たいしたことのない賞品に、たいしたことのない賛辞──。そして小さな区域での小さな名声。
 いや、今の僕には世の中の全ての物が色褪せて見えるだけなのだろう。この世のどんな利益に対しても何の興味も沸かない。
 さすがに村の中へ取って返すことはできなかったが、意を決し、狩りへの山道と反対の、よく二ナと歩いた湖の方へ向かった。
 村長とジョシュアが普通に祭に参加していることから、ニナが家に一人で残っているとは考えにくい。家に居ないとすれば、どこかに出かけている可能性が強い。山は皆が入っていくので目に付く確率が高く、一人で遊びにきているとするなら村の女たちの受けも悪いし、何より狩場に立ち入るのには危険が伴う。ならば、僕との想い出もあるこの湖に来ているのではないかと予想してみたが、見渡しの良い場所にも関わらず、ニナの姿は見えない。本当にニナはどこに行ってしまったのか。案外、昨日の夜更かしがたたって、家で眠りこけているという平和な想像もしてみたが、それには現実味が伴っていない。他の可能性を考えてみた途端、一昨日感じた不安が再び顔をもたげてきた。とにかく、湖は森と隣り合わせになっているので、僕の視界の外にいるだけかもしれない。森の中も徹底的に捜してみないことには。

──森を歩く。父親を早くになくした僕は母親が家で仕事にかかりきりだったこともあって、特に引止められる事もなかったために森の中は小さな頃からの遊び場で、ほとんど知らない場所はないと言って良かった。だからこそ、たとえ人1人といえども隠れられる可能性のある場所はすべて探したはずだったが、ニナの姿を見つけることはできなかった。いくら慣れた場所とはいっても、道のないような所まで探したせいで足の疲れは限界になってきていた。どこで引っ掛けたのか、服の袖は破れて腕があらわになってしまっていた。これで、獲物はなかったにしても、狩りをしてきたという言い訳になるだろうか。森が途切れ、目の前には湖が広がっている。森の中を一周して、元の場所へ戻ってきたようだ。手近な木を見つけ、湖が見渡せる位置でもたれかかり、体を休める。立てた膝の上に腕を乗せ、ほっと息をつく。こちらの心配な気持ちとは裏腹に、湖はあくまでも静かに風に吹かれるままに水面を揺らしている。綺麗に透き通った水も、底には土を蓄えているのだろうか。僕の心は、その土が巻き起こって濁っている状態かもしれない。泥。泥のように、泥のように眠りたい。何もかも忘れて。
 僕は、うとうとと浅い眠りに落ちていくのを感じていた。

──今は会いたくないの。

ニナ?

──今の私じゃだめ。まだ──

 何、どこにいるんだ──?

──もう少ししたら、あなたに逢いに行くわ──

 いつ、どこへ?ニナ、何を言っているんだ──?

──話せないかもしれないけど──

 判らない、話せないって、一体何を?いつ逢えるっていうんだ?

──今──私のいるところ──

 ニナの儚げな微笑が消え、目の前には変わらず静かな湖がたたずんでいた。夢、だったのか。
 額が濡れている。冷や汗なのだろうか。
 意識がはっきりしてくるとともに、目の前にニナを見付けられない現実が重くなってくる。目を閉じて瞼の裏にニナの像を結ぼうとする。だが、それはあまりにも儚く、白くぼやけて遠く逃げていってしまう。
 夢でなければ、君を見ることはできないのだろうか、ニナ。
 風が、湖の表面を撫でる。その中央に、頭上から飛んでいった木の葉が舞い降りた。




 いやがうえにも興奮と緊張が高まる。自分の手に刻まれた細かい傷を見るたびに、それが自分の信じたものを叶えてくれると疑うことはなかった。いや、今でも疑う余地はない。所詮この世は力さえあれば何でも夢を手にいれることができる。もちろん、親父やそのはるか先祖の時代であればその「力」は単純に腕力だけを意味していたのだろうが、現在ではそれが権力だったり、財力だったりと形を変えているだけで、「力」というものの本質を変えていないことは明らかだ。日曜毎に退屈な説教を聞かせる坊さんは、それを否定する様なセリフを吐くし、弱いものに限ってそれに同調したような善人面をしたがる。はたして、それがどれだけの効力を持つのか。正義を唱えてみたところで目の前に野生の獣があらわれたらその牙から逃れる術はない。結局、どんな善人だって理由をつけて銃の引き金をひく。家族を守るため、自分の命を守るため、村の利益を守るため──。
 その理由自体に文句をつけるつもりはない。実際、そうした究極の場面に遭遇した場合は人は体裁などを捨てて素晴らしく合理的な答えを出すものだ。ただ、普段から正義を理由に銃を撃つことを怠けていると、いざというときに引き金をひくタイミングをためらってしまうのではないか。後になってその事を後悔してみても、それこそまったく意味のない行為で、時間に逆らってみようとする事はまったく神の領域に挑戦するようなものだ。要するに、自分の下した判断に自信が持てない連中が色々と口実をつけては自分がさも間抜けでないかのように振舞っているだけではないか。そんなものは、判らないだろうと思うのは当の本人だけで、誰もが知り軽蔑をしているというのに。俺だけはそうはなりたくない。だから俺は銃を磨く。現実に獣を撃つために、そしていつか自分の「力」を妨げる敵の為に。
 ジョシュアは、部屋の明かりを消さずに、ただ自分の銃を見詰めていた。明日の狩猟祭のことを考えて、汗ばむ手が示しているように興奮で眠れないというのもあるが、さっきまで父親と言い争っていたことが自分の興奮を助けている一因であることも承知していた。父親とあんなに口論したことは今までなかった。いや、口論ではない。自分が親に対して一方的に非難めいた言葉を投げつけていただけなのだ。それに対する父の態度がまたジョシュアをいらつかせた。一体いつから、親父はあんなに弱くなったのだろうか──。
 口論のきっかけになったのは、父が明日の狩猟祭のルールについて、自分に注文をつけてきたことだった。しかしその条件は飲みがたく、理由も釈然としなかった。

「──そんな事できるはずないだろう、狩りの日程を2日間にするなんて、聞いたことがないぜ。しかも夜を通してなんて」
 父の後姿は小さく見えた。いつもは貫禄を示す白い髪も、今日はただ年齢を重ねてしまっただけの象徴に思えた。その父の姿からは、いつもの村長としての威厳は感じられず、怯えた様子まで見て取れる気がした。
 狩猟祭のルールは、例年通り前年の優勝者が決める。最近は自分にかなう相手が不在な為、自分でルールを決めることが続いていた。もっとも、ルールを決めるとは言っても、毎年大きな変更があるはずでもなく、去年のルールをそのまま使うことがほとんどだった。そんな理由から、今年もいつもと変わらぬ祭りにする予定だったのだが。父は自分に、祭りを2日間に延長してほしいと願い出た。そのこと自体は大した事に思えないが、その間、村の主な若い男たちはそれにかかりきりになるために、仕事の手が止まってしまう。もちろん、女たちもその男たちの食事を作ったり、誰かケガ人が出たときのためにも待機していなければならず、決して暇だというわけではない。当たり前の事だが、女たちが働いているのを横目で見ながら狩猟祭を続けているのもおかしな話なので、どちらかだけが休むというわけにはいかない。加えて、夜を通しての狩りというのも聞いたことがない。確かに、時間が長ければ長いほど獲物の数も増え、勝敗の幅ができて面白味が増すかもしれないが、それよりもむしろ時間が長引いたおかげで参加者の中に疲れが出て、いらぬ怪我をするかもしれない。狩場は村人が慣れた 森や山なのでさほど危険はないが、それでも夜間であれば視界も悪く、大体夜は人の暮らす時間ではない。我々が狩るほうの、獣の時間なのだ。明日は月が満月なので、視界の問題はその分軽減されるのだが、それ自体がまた問題となっていることも事実であった。というのも、この村には以前から奇妙なしきたりがあって、満月の夜には誰も外出をしてはならない、という掟があったのだ。掟、といっても古くからあったものではなく、12,3年前からだったと思うのだが。それも、他ならぬ父自身が決めた規則であったから、その父自身の掟を破らせるような願いは、不可解以外の何物でもなかった。
「ジョシュア、お前は去年の優勝者だ。ルールを自由に決める事はできるのだろう」
「答えになってないぞ、親父」
 しかし父は振り向かず、丸くなった背中をますます丸めながら一言、「頼む」とだけつぶやいた。俺にはそれが、涙声になっているようにも思えた。あるいはそれは、最近弱くなった父の声がただ掠れていただけかも知れなかったのだが。
 その余りの弱々しさに、動揺を感じている自分が居た。俺が求めていた「強さ」はこんなものだったのか?それとも自分が強くなってしまっただけなのか?どちらにせよ、納得のいかない事を受け入れるほど自分は子供ではない。いや、むしろ子供として、父の威厳を行使し、命令してくれれば従う事もできたのだが、こんなにも弱く懇願されるものに従うのは、自分の信念が許さない。
「まさか、こんな言葉を親父に向かって言う事になるとは思わなかったがな、目を覚ませ、親父。何を寝ぼけたことを言っているんだ。『個人的な感情を政治的活動から切り離せ』ってのがあんたの口癖だったろう。自分の決めたルールを曲げるのに、正当な理由が無いというのは、それは個人的な感情以外の何物でもないんじゃないのか?第一、夜の森は危険だ。村の衆が慣れているといったって、ここ数年は出歩くのまで禁止していたんだしな。そうだ、そもそも満月の夜、ってのに意味はあるのか?この際だからきちんと説明してもらおうか。あんただろ、この掟を決めたのは」
「頼む。理由は聞かないでくれ。話したとしても信じることはできまい。いずれ機会があれば話そうと思っていたのだが、今は急を要する。確かなことは、ニナに危険が迫っている事なんだ」
「ニナが何だって?」
 思わず自分の顔が昂揚するのが判る。村長として権力を行使していた親父も、所詮人の親だったと言うことか。だが、実際に義妹の身に何かが起こっているのであれば、自分も心配せずにはいられない。親父が何を目論んでいるのかはわからないが、少なくとも親族の勘で嘘を言っていない事だけは見て取れた。
「判ったよ、とりあえずはあんたの言う事を信じてやる。だがな、何かトラブルがあっても俺は知らないぞ。誰かが被害を受けたら即刻祭は中止にするからな」

 それだけ言うとジョシュアは自室に引き下がってきた。後ろで父親がソファーに背をもたせかける音と、深いため息を吐く音が聞こえた。まったく衰えたもんだ。
 しかし、親父がニナの事を異常に気に掛けているのも判らないではない。確かに、ここ数日の義妹の行動は不可解な事があった。ルガースにのぼせているのは仕方ないとしても、一晩中夜遊びに出かけていたり、朝方帰ってきたと思ったら家族に顔も合わせず日が暮れるまで死んだように眠ったり、更に奇怪な事には、ニナが帰ってきた朝にルガースがノコノコと家に顔を出したと言う事だ。あのぼんくらは、ニナが何処へ行ったかと親父に聞いてきたらしい。普通から考えたら夜通し何処かにいたとすれば恋人と一緒に過ごしたのが当たり前だと思うが、ルガースはニナが家を空けていた事を聞くと途端にしどろもどろになって誤魔化したようだ。あいつはうまく騙せたと思っているかもしれないが、ニナが他の誰かと会っていた可能性は高い。だが一体誰と?ルガースと婚約するんじゃなかったのか?ニナがルガースに愛想を尽かしたのならば、あんな男とうちが関係を持つ必要はない。今まではニナを思って見逃していたが、あんなのが親戚になると思うと家の恥だ。おまけに、今夜もまだ家に戻ってきていない。素性の知れぬ旅人なんかに騙されたりしていなけりゃいいが。
 幼い頃、ニナが家に引き取られて来た時は、自分と結婚する相手が来たのだと信じて疑わなかった。ニナに兄と呼ばれるのも、親がこの村の中では髪と目の色が際立って異なり目立つニナを庇って、実の娘のように育てる方便なのだと思っていた。しかし、長じるにしたがって、ニナには俺たちが実の家族であると話し続けている事に気が付いた。つまり、ニナにとって俺は実の兄以外の何者でもないのだ。それでも、そう育ってしまったからにはニナの幸せを考えると、良い結婚相手を見付けてやる事が義兄としての勤めだと自分に言い聞かせたこともあったが、よりによってルガースなんかを選ぶとは。確かにヤツは体力だけはあるようだが、気が弱すぎるため何かに対して立ち向かう事がまるでできない。あれでは、他の男にニナが奪われるなんて事も起こり得る。実際、今回の件ではそれとおぼしき事態になっているわけだし、一度ニナにゆっくり話をせねばなるまい。

──!?

 しばらく自分の考えと銃の手入れに執心していたが、ふと窓から誰かに覗かれているような気になって振り向いた。当然、窓には何も映っておらず、気持ちの昂ぶりからくる錯覚だったようだ。それにしても。明日の狩猟祭、ニナのこと、ルガースのこと。今夜は眠るのを諦めた方が良さそうだ。



 あいつが帰ってきた。今はその思いでいっぱいだった。まさかこんな事になろうとは。あれから何年たったというのか。
 狩猟祭の開始の合図を終えて早々に家に戻ると、それ以来自室のソファーにこうして沈み込んでいる。ソファーにもたれかかり頭を深くうずめたまま、昨日からほとんど何も口にしていない事に気が付いた。昨夜のジョシュアの軽蔑した笑いも気になる。しかし、自分の想像を超えた事態に直面した場合、なりふりはかまっていられない。自分と、そして家族の命を守るのは父として、いや、人間としての当然の行為だ。

──?

「ジョシュア?」
 ジョシュアの訳がない。あれは今狩猟祭に出ているはずだ。だが、今の誰かに見られていた感覚は何だったのか。
「ニ、ニナか──?」
 我ながら愚かな言葉を発したと思った。窓越しに感じた視線は、とても冷たく、背筋が粟立つほどの物だった。ならば、自分の娘がそういった存在になってしまっている事を認めたも同然ではないか。思い切ってカーテンを開け、窓を開いて顔を出してみる。
 何も見当たらない。
 当たり前ではないか。何をこんなに疑心暗鬼になっているのか。
 そこにあるのはただの暗闇と遠くから聞こえる村の若い衆の声。そして虫の声ばかりだ。ジョシュアに頼んで今回の狩猟祭は夜間も敢行させた。村の者を総出で山狩りに向かわせる事は普段ならば不可能だ。これを利用すれば、あるいはあの男を追い詰めることができるかもしれない。

 クディック。「あの男」が13年前の満月の夜に村長の元を訪れた際、傍らには小さな少女の姿があった。名前をニナといった。彼は村長にニナを託すと言った。当初何処の馬の骨かも判らぬ者の頼みなど聞く気も無かったが、ニナの母親がリーテルだと知らされた事と、その少女の表情に彼女の面影が色濃く残っていた事が決心を助けた。
 リーテルとは先代村長、ジョシュアの祖父がまだ健在だった頃初めて会っていた。たしか彼女も父を持っておらず、母親に連れられて村へ来たと村長は記憶している。絶世の美女とはこの事を言うのかと思い知り、結婚も考えては見たのだが、その考えは父である先代村長に一笑に付され却下された。理由は彼女がよそ者だから、というだけである。誇り高き村長一族に村外の血を入れる訳にはいかないのだとか。
 村長自身もそんな古い慣習に対しては懐疑的であったのだが、自分が次期村長になる以外に何ら生きる術を持たなかった事もあり、その時は父の言葉に従うよりなかった。 が、その直後にリーテルが失踪したのを聞き、あたかもそれが自分の心中を悟られた為かと錯覚して人知れず自分を呪ったのだった。そのリーテルの娘が自分の前に現れたのは贖罪の機会が与えられたと思えたのかもしれなかった。それより純粋に、夫婦になつく幼い娘に対して保護本能が働いたというのも有り得る。人の親になると、そういう感情が我知らず働くものだ。
 あれから13年、再び「あの男」は戻ってきた。
 確かにクディックはニナを託す時に「預かって欲しい」と言い残していたが、2年経ち、3年経ち、しばらく引き取りに来ない所を見るとクディックは生活力の無さからニナを手放したに違いないと考えていた。
 13年。13年だ。並の人間が「ちょっとそこまで用事を」と考えるような時間ではない。その間にニナはリーテルに見紛う程美しく成長し、婚約も決まり、人並みの幸せを与えてやれるというこんな時に──。

──だが、クディックが並の人間では無かったら。

吸血鬼。

──そんなものはこの村に何百年の昔から伝わるただの迷信だ。自分自身そんなものがあるとは信じていない。それに、吸血鬼事件がこの村で騒がれたのはもう二世紀も前の話だ。しかし、あの首の傷──。いやそれよりも、13年前から自分が満月の夜をこの村のタブーにした時点でこうなる事は予想されていたのではなかったか。
 村長の顔に苦い笑いが浮かぶ。
「私は何をしているんだ──」
 突如、暗闇に一発の銃声が轟く。
はっとして顔を上げるが、思い直したように再びソファーに背をもたせかける。
──直に夜が明ける。そうすれば問題はすべて解決しているはずだ。
 村長自身がそう考えていない事は、ぐっしょりと濡れた両手の平が語っていた。

──ニナの声が聞こえる。幼いニナは私を父と呼んでくれた。ニナの呼び声に応えようと手を伸ばす。ニナは一生懸命走ってくるが、全然追いつかない。そのうちに、あまり追いつかないせいか、ニナが成長して大きくなってしまっていた。その顔は、リーテルそっくりだ。いや、これはニナではない。リーテル自身だ。慌てて助けようとこちらも走って距離を縮めようとする。もう少しで手が届くと思われた瞬間、黒い影がよぎってリーテルをさらっていく。影の正体は大げさな衣装を着たマントの男だ。男はリーテルを後ろから抱きかかえ、顔を彼女の首にうずめているのでその顔はこちらからは見えない。みるみるうちに彼女が生気を失い、しかし恍惚の表情に崩れていくのが判る。
 やめろ、娘には、娘には手を出さないでくれ──。
 にんまりと笑った口から鮮血を滴らし、こちらを振り向いた顔は──、
 ジョシュアのものだった。

「やめろッ」

 村長が飛び起きると、窓辺でさえずる小鳥の声に気が付いた。ソファーに座ったまま何時しか眠り込んでしまったらしい。時計を見ると丁度朝の8時を少し回った所だった。
 夜の間に何か進展は有ったのだろうか。昨夜の銃声は何を意味していたのか。
「ジョシュア!」
 返事はない。
 村長は急いで立ち上がりジョシュアの部屋へ向かった。ノックしてみるが反応はない。村長がドアノブに手をかけたちょうどその時、町の広場の方で轟音が響いた。閉会の時刻には早すぎる。そう思い村長は慌てて身支度を整えると、狩猟祭に参加する村人たちが休憩したり成果を競ったりする本部となる中央広場へと向かった。広場にはいくばくかの獲物を得た村の若者たちが、ちらほらと集まってきていた。今の轟音は興に乗って興奮した若者が発した銃声だったようだ。
 広場を見回すと一旦休憩に戻ってきているらしいジョシュアを見つけた。その傍らにはルガースの姿もある。2人は何か口論しているらしかった。皆の平和的な素振りからして狩の最中に何かを見付けたということはなかったようで、それに幾ばくかの失望を禁じ得なかったが、精一杯の虚勢を張ると村長は2人に近づき社交的な挨拶をした。
「おはよう。ルガース。昨夜の首尾はどうだったかな?」
 気弱そうに下を向く若者の態度に苛つきを覚えたのか横からジョシュアが割り込んだ。
「俺達も作夜の銃声の話をしていた所です、父さん」
「村長と呼びなさい」
 幾分威厳を取り戻した風でジョシュアに向かいそう言うと、再び2人に向かって尋ねかけた。
「君達もあの銃声を聞いたのかね?」
「ええ。聞きました。村長、ニナの姿が昨日から見えないのです」
 ルガースは心配そうに言うと目を伏せた。彼の目は心なしか潤んでいるようだ。
「もしかしてあの銃声と何か関係があるのでは──」
 ルガースは手で顔を覆い隠ししゃがみこんでしまった。村長はルガースの態度には正直頼りなさをいつも感じていたる。実際、少なくとも村を統べる者にふさわしいものではない。
「ジョシュア、夕べはニナを見たか?」
「いえ。俺はルガースの所へ来ているのだと思っていたのですが」
 ジョシュアは横目でルガースを見下ろす。
「ニナは狩猟祭の前夜に僕の家に来ましたが、それきりです。ですが、気になることが──。気のせいかもしれないのですが、何だかいつもと違うような気がしたんです。とても冷たい感じで、生気が感じられないというか──」
 ルガースは、自分がそのニナの父親と話している事を思い出したのか口をつぐんだ。臆病者ほど無礼だというが、村長に対するルガースの態度はまったくその通りだった。だが、そんなささいな事よりも彼はむしろ事態の悪さに恐怖を覚えていた。自分でも顔から血の気が引いていくのが判る。一瞬視界が暗くぼやけた。
「ニナは君に何か言っていなかったかね、ルガース」
 先の態度を村長の激昂と取ったのか、半ば怯えた風でそれに応える。
「えっ、あ、はい、何も──」
「そうか──」
「ニナに何かあったんですか?」
「いや──まだ何も判らない。判り次第君に知らせることにしよう。君も、ニナを見かけたら家に戻るように伝えてくれないか」
「わかりました。すぐにお知らせします」
 それだけ言うと、朴訥な青年を後にして、その場を離れることにした。ジョシュアが後からついてくる。
「親父、やっぱりニナに何かあったんだな。今度の山狩りを俺にさせようとしたのも、それが原因なんだろう?何か知っているなら俺にも教えてくれ」
 ジョシュアの様子は真に迫っていた。ここで状況をある程度でも話さなければ、逆に怪しく思うことだろう。村長は、焦点をぼかしながら息子に説明することにした。
「──ニナがうちに来たときの事は覚えているな」
「ああ、覚えているよ。そんときはもう俺は物心ついていたからな。それがどうした」
「ニナを預けに来た男は覚えているか」
「ニナの本当の父親とかいうやつか?直接見たことはないが、気障ないけすかない野郎だとは聞いているよ。芸術家風の、線の細い男で、稼ぎがなくってニナを手放したんだろ」「その印象は正しくない。それは、私と母さんがあの男に持った印象だ。本当のところはよくわからんのだ。その男が、ニナを取り戻しに来たのかもしれない」
「何だ、そりゃあ。今更ニナのところに父親面して現れたところで、あいつは顔も知らないんだろ?だったら意味ないじゃねえか。それに大体、本当に連れ戻しに来たんなら、正面から名乗り出て事情を説明するのが筋じゃねえのか」
「『あの男』には時間の経過は関係無いんだよ。おそらくは。あれは人間ではない」
 ジョシュアの目が突如として不審の色に染まる。口を半開きにして何か言いたげな様子だが、呆れて言葉を発することができないらしい。
「犯罪者って事か?ニナはそんなヤツから預かったのか?あんたらどうかしてんじゃねえか」
「とにかく、あの男が近くまで来ている可能性が高い。村の衆の助けで、男の居場所が判れば、ニナを早いうちに連れ戻すことが出来るかもしれんのだ」
「何か証拠があるのか?どうしてそこまで言いきれるんだ?親父、あんたまだ何か隠しているな。とりあえず目的がわかった以上ニナの為にも山狩りは続けるが、ニナが見つかったら全部話してもらうぜ」
「ああ、無事にニナが戻ってくるなら、すべてお前達に話してやるよ」
「けっ、勿体ぶった言い方しやがって。まあいい、俺は山の方を探す。あんた、残った村の衆をうまく指示してやってくれ」
 ジョシュアが肩から下げた猟銃を掛け直し、元居た方へと駆け出したとき、入れ違いに走り寄る姿があった。ジョシュアやルガース達と同じく、山の中に分け入っていた若者だ。その両目は一杯に見開かれており、山の上から全速力で駆け抜けて来たのか、足を止めても息は収まらず、両手をひざに当てて肩で息をしている。
「村長、大変だ、し、しにっ」
「何事だ!落ち着いて話せ」
「やまっ、やま、なかに、だっ、れかっ」
 ジョシュアが若者に平手打ちを食らわす。不意をつかれた事と、元よりジョシュアは村でも1,2を争うほどの腕力の持ち主の為、若者は体制を崩してその場に横倒れした。しかし、そのせいで少しはショック状態から戻ったようで、何とか言いたいことだけは聞き取ることができた。
 村の連中が山狩りをしていた最中、何かを見つけたらしい。だがそれは、村長の期待に反してクディックに関わるものではなかった。いや、どこかで関連があるのかもしれないが、それよりももっと直接的に不吉なものだった。山の中に開けた場所があったらしいのだが、その付近で死体が複数発見されたというのだ。ジョシュアはそれを聞いた途端に山の方へと走っていったが、村長はすぐには行動することができなかった。
 あの男がやったに違いない。だが、証拠はない。おまけに、死体が複数──、ニナも含まれているのだろうか。
 同時に、彼の脳裏に更に不吉な考えが浮かんで慌ててそれを消した。さらに悪い事態──。それは、他でもない、ニナが死体を増やしているという想像だった。

 さっき山の方から狩に出ていた若い衆が慌てて降りてきたかと思ったら、今度はジョシュアが血相を変えて山の中に入っていった。何事かと辺りを見まわすが、状況を正しく把握しているものはいないのか、皆一様に混乱して噂話を続けているだけだ。急に不安になり、誰か知っていそうな知り合いを探していると、野兎を手にしたパトラスが狩から戻ってきた。のんびりと歩くパトラスに声を掛け、事情を尋ねる。
「おい、パトラス、みんなどうしたんだ。ジョシュアが今血相を変えて走っていったようだけど」
「ルガース!お前どこ行ってたんだよ。どうせ獲物もないんだろ?お前がもたもたしてるから、狩猟祭は中止になっちまいそうだよお。なんか、山の中で誰かが殺されたんだと──」
 パトラスの言葉を最後まで聞かないまま、僕は山の中に走り出していた。唯一の身を守る武器、手製の弓矢を彼の手に預けたまま。ジョシュアが入っていってもう数分経ってしまった。まさか、ニナが──。頼む、生きていてくれ──。

 山の中では何度も転びそうになった。ただでさえ器用なほうではないのに、今はかつて自分の人生の中でなかった程焦りながら走っている。これ程早くいつも走れたなら、小さい頃もうすのろと言われる事はなかったろうか。いや、あの頃から判っていた。自分には、走る事で人を打ち負かして得られる快感がいかにもちっぽけなものに思えたのだ。それよりも、湖や森へ出かけていって、自然の大きさを感じるほうが何倍も安らぐことができた。だから誰かに何かで負けて馬鹿にされようと、不思議と腹は立たなかった。そういえば、ジョシュアは一度も僕をいじめた事がなかったっけ。あいつは嫌いだけど、それだけは僕にとって良い点だといえる。
 現場はすぐに判った。狩りに出ていた連中が皆手を止めて輪を作っている。輪の中から出てきたのは、ジョシュアを先頭に、何か布で包んだ物を抱えた男達が4,5人。僕はジョシュアの胸倉につかみかかって詰問していた。
「ジョシュア、何が、何があった──」
「ルガースか。お前の言いたい事は判る。人が殺されてたんだ。何人も。でもみんな男だ。ニナじゃあない」
「ニナじゃ──ない?」
「ああ」
 それを聞くと僕は恥ずかしいことに足の力が一気に抜けてしまい、その場にへたりこんでしまった。自分で思っていたよりも、山の中を全力疾走するのは負担がかかるようで、緊張の糸が切れた瞬間にすべて体にと返ってきたみたいだ。
「ったく、だからお前は間抜けだと言われるんだ。ニナじゃないからって、人が死んだことには変わりないんだぞ?お前も皆を手伝えよ。死人を村まで運ぶんだ」
 ジョシュアに言われるまま、僕はみんなの手伝いをして死んでしまった人達をふもとまで運んだ。人達、といったのはそれが1人じゃなかったからで、その時は判らなかったのだが、7人も固まって亡くなっていたようだ。
 村で死体を調べてみたらしいが、彼らは誰も村で見かけない顔だった。村長の話に拠れば、村の外れには旅の人達や他の国からやってくる漂流民達が立ち寄る場所があるらしく、おそらくはその中の誰かだろうという。ジョシュアは何も言わなかったが、彼も犠牲者の中にニナが居なかった事に安堵しているらしかった。被害にあった人々の状態は極めて悪く、死んでから日数は経っていなかったようで腐敗はしていなかったのだが、1人は失血していただけだったが残りの人達は首を何かに食い破られたような傷で、その衣服は血に塗れていた。これらの人々の傷跡から、以前から山中に出没するようになった狼か野犬の類に襲われたという意見も出たが、それでは1人の死体が傷口が無いのにまったく血を失っていた事の説明になっていない。第一、野犬がわざわざ死体を寄せ集めておくわけがない。たまたま死んでいる人を集めて誰かが葬ろうとしたとも考えられるが、あの辺りには誰も住んでいない。人が住めるような場所も無く、しかも発見しやすいように土も被せていなかった。
 結局、彼らは誰も引き取り手がないまま村の共同墓地に葬られることになった。狩猟祭もそんな事件が起こったせいで中途半端なまま終わってしまい、それまでの成績が良かったジョシュアが今年の優勝者となることになったが、ジョシュアも含めて村中に白けた雰囲気が漂っていた。ニナの行方もようと知れず、村長が大々的に村の皆に協力を仰ぎ、村の隅々まで捜索をしていたのだったが、何の手がかりも得られずにいた。

──1週間が過ぎようとしていた。
 ニナの失踪、加えて山中の7人の死体についての調査も進んではいなかった。我々の村には元から警察機構というものが無かったこともあって、それを専門に調べている者が不在だったこともあるのだが、村長が首都の政府に依頼して調査させる事を渋っていたのは、表面的には彼らの死が事件と事故と判断がつかないと言う事だったが、実際は村の少ない観光による収入への影響を考慮してのものに違いなかった。今は季節外れなのでさして影響が大きいとは思えなかったが、村長の自治体を守る者としての体裁が、中央政府の役人に頭を下げることに抵抗を感じさせているようでもあった。
 僕もニナの捜索に参加していたが、ニナを見失って以来食べ物が喉を通らず、それでも体の事を思ってなんとか詰め込んでみるものの、ある程度の量を超えてしまうと嘔吐感に苛まれた。体重は減る一方で母親も心配しているが、理由が明らかな以上どうしようもない。今日も山の中でニナの姿を探す。村長の娘が失踪したことは確かに大事件なのだが、村の皆も仕事が有り、いつまでもこれだけに関わっている訳にもいかない。当初に比べて参加する人数は減っていた。どこか崖から転落したとか、穴に落ち込んだ可能性もあるとして考えられる限りの場所を探していたのだが、痕跡すら見当たらなかった。いつしか、皆の中にも生存を諦める倦怠が広がっていくのが判った。例の死者の身元調査も別グループで進められていたが、どこまで進んでいるのか疑わしいものだった。或いは、村長はこの事件をうやむやの内に揉み消してしまうつもりなのかもしれなかった。それは、死者の身内を名乗る人物が今に至っても1人として現れないことが原因となっていた。
 しかし、こちらの事件の方は悪い方向に進展する。7日目の夜、仕事を終えてからニナの捜索に参加してくれていた村人の1人が、新しい死体を発見したのだ。被害者はまた男性で、首が千切れる程深く喉をえぐられており、大量の血液が周りに散らばっていた。この男も身元が判明せず、先の7人と共に葬られることになったのだが、事件が一向に沈静化の方向に進まない事に焦燥を感じた村長は、中央政府の警察機構の介入を認めることを決めた。彼らの仕事は、事件の原因調査と、夜間の警備。村人達は夜間の外出を大きく制限されることになった。自然とニナの捜索も規模を縮小されることになり、捜索は日中だけと定められた。
 僕にとっては急速に身の周りの物事が現実性を失っていくのが感じられた。退屈なだけの日常が、ニナを愛することによって失われた。その非日常まで、ニナの喪失により失われかけている。ならば、僕の現実は何処にあるというのか。僕には家でじっと他人がニナを発見してくれるまで待っていることはできなかった。たとえ夜間の捜索に参加している途中で、僕が喉を食い破られて次の被害者になってしまってもそれはそれで構わなかった。ニナを失ったまま、自分だけのうのうと人生を送るなんて、とても想像ができなかったからだ。母親に気付かれないように、家の扉を開けて夜の闇に身を躍らせる。村の中には人影が無く、家の明かりは点いているものの、経験したことのない緊張感に村中が包まれていた。僕は村の各所に立っている警察官の目を盗んで山の方へ走っていった。



 土の中で眠るようになって何日が経ったのだろうか。時計はおろか、新聞すら見ることが出来ない為、時間の感覚がまるで無くなってしまっている。目を覚ますと、そこには只暗闇が広がっているだけなのだが、それがかえって自分を安心させていることに気付いて戦慄する。もっとも、寝ている間にこの寝床を暴かれていたらもう2度と目を覚ますことはないのだろうけれど。自然に目が覚めたという事は、多分日が沈んだと言うことなんだろうな。これまでの数日で、そういった自分の体の非現実的な変調にはもう慣れてきていた。山の中では私を捜しているのと、あの可哀想な犠牲者達を増やすまいと警備を続ける村人達の姿がちらほら見られた。顔も見た事のない制服姿の人まで見られた。彼らはきっと中央から派遣された警察官なのだろう。うちの父親も事件の解決に本気になっているということだろうか。でも、そんな人間的な考え方だけであの人を捉えることはできまい。あの人は狐の様に狡猾で、狼のように残忍だ。下手に手を出せば、彼らが次の犠牲者になってしまう。あの人のように、私も彼らの目を盗んで、国境まで歩いていけるのだろうか。さすがに昼の間は姿が目立ちすぎるので外 に出ることが出来ないし、また急激に眠気が襲ってくるので危険が伴う。かといって明かりなしでは進める距離もたかが知れているし、おまけに私を捜している彼らから隠れるように進まなければいけないのでなかなか山を越えることが出来ない。飢えや渇きも深刻で、辺りに落ちている木の実や雨水を口にすることでなんとか生命を保っているが、それもどこまで保つのか知れない。疲労も限界だ。何より、日毎に決意が萎えて行く。一番の気懸かりは、ルガースをここに残して立ち去ることだ。あの日、自分としてはルガースに別れを告げに行ったつもりだったのだが、結局何も説明することができないまま村を出てきてしまった。心配していることだろう。でも、それも数年も経てば、すべて忘れて誰か別の女性を見つけて幸せに暮らしていけるに違いない、私と過ごした日の事もすべて。彼を巻き込むのだけは何としても避けなくては。彼の命を絶つ事に最も近いのは私の存在なのだから。いっそのこと、このまま土中で過ごしていて、誰かに発見されるのを待ったほうがいいのだろうか。きっと発見した人は私を化け物と見なして葬ることだろう。そうなってしまえば永遠に楽になれるに違いない──。

──駄目だ。このところ、あの人の凶行のせいか、或いは私の中の血が覚醒し始めているのか、意識を失う瞬間が多くなっている。この調子で行くと、完全に獣としての本性が目覚めてしまったらどうなるか判った物ではない。まったく意識を保った状態でさえ、父親を壁まで突き飛ばすほどの剛力が発揮されたのだから、これが完璧に放たれたらと思うとゾッとする。誰かれ構わず襲いかかるか分からない。父親が私を見た顔、恐怖に歪んだ顔を忘れることができない。自分の狂気に支配された姿を、愛した人にだけは決して見せたくない。それをする事により、愛した人に怯えた目で見つめられたくはない。それは、自分の身が死ぬよりも恐ろしい事だ。それだけは、それだけは避けなくては。
 もう少し遠くへ行こう。そう思い土の中から手を使って外の世界に顔を出す。上に被せてあった落ち葉に塗れながら、また山の向こうへと歩を進めた。幸い、この辺りはまだ捜索の手が伸びていないようだ。私の着ていた服はすっかり血に塗れてしまってべとつき、極めて不快なのだが、こんな山奥では着替えることもできない。走る気力もなく、とぼとぼと歩いていく。
「どこへ逃げるつもりなんだい」
 この数日間ですっかり聴き慣れた声。私には死の宣告にも等しい。振り返るより速く、声の主から逃げ去る為に駆け出す。
「無理だよ。これは運命だから、受け入れるより他はない。私としてもお前を破滅に導きたくはないのだがな」
 目の前に回り込んだクディックの腕には、哀れな新しい犠牲者が抱かれている。まだ息はあるようだが、彼の運命はもはや決まっているのだ。
「さあ、おいで──」
「や、やめ──」
 クディックは長い爪で犠牲者の喉を引き裂いた。犠牲者の黒い垢じみた喉に新鮮な朱の色が走ると、クディックはそこに片手を突き入れ、一気に横に薙いだ。動脈が切断され、体中を巡っていた命の奔流が外へとその方向を変えて迸る。私は血のシャワーを浴びせられ、口の中に血が入ってこないように息を止めて駆け出す。だが、人間としての飢えと渇きに苦しんでいる私にとって、それはまるで再生を司る神酒の様に思えてくる。だが、その再生は人としてではなく、まったく別の生き物としてのものなのだ。すなわち、人としては死ぬに等しく、それこそが彼の言う「破滅」ではないのだろうか?
 逃げる、逃げる──。夜が明けるよりも速く、時間よりも、運命よりも──。

 きっと本気になればクディックは私に追い付く事が出来るのだろう。でも、今のところ私が本気で逃げているうちはそれ以上の追跡をしないようで、一旦振り切れば大丈夫だと思うのだが、果たしてこんな事が何時まで続くのだろうか。私が目を覚ます度に、誰かの命が奪われる。私がクディックを拒絶したと同じ数だけ関係のない人が殺される。とはいえ、自分でも永久にこんな状態が続けられないことも判っている。私が国境を超えたところで、クディックにはそんな事は関係なく、血の追跡を止めることはあるまい。いずれは彼の思惑通り、人間ではない魔性の物になってしまうのではないか。或いは、その前に自分が獣になって人を襲い始めることになるのだろうか。正直な話、最近では血を浴びるたびに自分の体が反応している事も認識できているのだ。それに気付くと共に、決まって意識の混濁が訪れる。上顎の犬歯が長く鋭く生長するのを感じ、歯茎に痛みと疼きを感じる。だが、それは耐えられない物ではなくて、むしろ心地よいものに思えてくるので更に驚愕と嫌悪感を覚える。何か自分の中のもう1人の自分が、胃の辺りから口元まで出てきているような錯覚も感じた。あと1歩、何かを 契機として自分を失うことがあれば、瞬時に私は私でない別の私に体を支配されてしまうことだろう。
 頭が痺れるように痛い。自分が何か別のものへ変貌してしまう感覚を味わい、その波が去った後は必ず体の各器官の不調がやってくる。頭だけでなく、手足の関節も痛むようになってくると、歩くのもままならなくなってその場に崩れ落ちてしまった。夜が明けるまでの間に身を隠さなければ。見つかってはいけない、連れ戻されてはならない──。
 どうしてこんな事になってしまったのだろう?
 私は何も悪いことはしていないのに。どうしてこんな苦しい思いをしなければならないの?もう放っておいて欲しいな。このまま寝かせて、楽に死なせて──。
 ゴッ。
 私の頭を爪先で蹴る物がいる。痛い。ただでさえ頭痛に苦しんでいるのに、これ以上苦しめないで。
 ゴッ。
 私が顔を上げようとすると、自然にうめき声が出たのか、それが相手にも伝わったようだ。
「あんだ、姉ちゃん、生きてんのか。1人でこんなところで、何してんだ」
 私の前に立っているであろう男は、私を起こそうとはしない。目を開いて睨み付け様としたが、そんな力はなく、ただ目を細めて見つめる事ができただけだった。男は髪や髭を伸ばし放題にしており、獣の皮をかぶっているのか体中が剛毛に覆われているような印象を受ける。手には蛮刀を持っており、しかし狩人のような均整の取れた風体ではない。私を蹴ったのは、汚れたブーツのようだ。先に金具がつけられている。
「なんだ、それは、血か?汚ねえな。こんな服じゃ売れねえなあ」
──何を言っているの?
「まあいいや、適当に楽しんでから殺してやるよ。それとも先に死んだ方がいいか?死ぬより辛い事っていうのがこの世にゃあるってな。お前らみてえな姉ちゃんにも教えてやらあ」
 男が私の服に手をかけた瞬間、私は自分でも信じられないほどの速さで後方に飛び退いた。体の痛みに耐えながら、男の目を睨み返す。その目は蛮愚と悪意に満ちており、口元からは不潔な涎が滴っていた。
「お、元気じゃねえか。そういうのも面白っれえ。泣いて命乞いをさせてやらあ」
 愚鈍そうな外見とは裏腹に、男の動きはすばやく、咄嗟にかわしたつもりだったのだが、その右手から放たれた一刀は私の着ている血で汚れた衣服を切り裂いた。自分の胸元を見下ろすと、裂かれたブラウスの間から傷が見える。見る間に、血が滲み出してきた。
「おお、白いなあ。服は汚ねえが、中身は綺麗じゃねえか。金髪女ってのも久しぶりだあ」
 私の心の中に義憤が沸き起こる。こいつは私だけを狙ったんじゃないんだ。私のような抵抗力の弱そうな人間を狙っては、命を奪ったり所有物を奪ったりしてきたんだ。人間のくせに──。
 非力な人間のくせに──。
 突如として攻撃に転じた私に男は一瞬ひるんだ。顔面に力一杯の拳を入れると、弱りきった私の一撃でも、男の体勢を崩すことには成功した。男が身を立て直すより速く、私の左手は手刀の形をとって男の喉元に突き刺さった。喉笛を握ったまま、手前に引き千切る。そこまでの動作をほぼ一挙動で行った為、男は悲鳴を上げる暇もない。ひゅっ、という軽く息を吸い込んだような声を発したのみだ。こんなに薄汚れた男からも、皆と変わらない美しい紅色の鮮血が吹き出す。その血は男の気管を逆流し、口からごぼっと言う音を立てて血の塊が吐き出された瞬間、私の意識は途切れて行く。
 深いまどろみに落ちていくのと似た感覚。どうして人はいつも「落ちて」行くのだろう。そういえば、眠りに就く時にはこんなに意識できたことはなかったかな。落ちていく。なんて自由な気分なんだろう。今までくさくさと考えていたことがまるで意味無く思えてくる。もっと早く受け入れていれば苦しむ事もなかったのにな。
 最後に私の記憶にあるのは、舌に残る柘榴のように甘い酸味。



 その日も深夜の捜索から戻ると、ベッドに入った途端に泥のように眠りについた。泥、まさに泥だ。僕の人生ももう灰色の泥のようだ。逃げようとしても体中に纏わりつき、身を任せれば何処までも落ちていく。息が出来ないほど深く、その底は見えない。底に辿り着いたときは永遠の安楽を得られるのかもしれないが、それは消滅を意味している。意識の消滅。ニナとの想い出も空中で分解してしまうのかとも思うと自ら命を絶つことすら出来ない。彼女の想い出を持っている者までが死んでしまったら、彼女がこの世に生きた証をどうやって証明すればいいのだろうか。彼女の笑顔を、どうやって人に語れば良いのか。泥海の表面にわずかのあぶくを残しながら、僕が死んだような眠りを貪っていると、僕の体を揺り動かすものがあった。現世に戻ることを極めて億劫に思いながら浮上してくると、それは心配そうに僕の顔を覗きこんだ母の顔だった。
「な──どうしたの、母さん」
 いくら母親が年齢を重ねたとはいえ、暗闇に目をこらしてベッド脇の時計を眺めると、まだ起床する時刻には早すぎた。それから考えても、僕が眠りに就いてからほとんど時間は経過していない。
「ルガース、ちょっと来てくれないかい?入り口の所に誰かが来ているようなんだけど、こんな夜中だし、今は物騒だから気味が悪くてさ」
 連続死体発見は、10人を既に超えていた。もはや1人1人話題に上ることも無く、その痕跡は新聞の記事として知るのみだ。身元は誰のものも不明、死者の身内も名乗り出ることは無いと聞いている。不思議なことには、あれだけ深夜の警備を厳重にしているのにも関わらず、まるでそれをあざ笑うかの様に事件が続いていることだ。襲った何者かを特定するのはもとより、被害にあった人々の痕跡も目撃されたことが無い。これほど執拗に監視者の目をくぐって事件が続いていることから考えて、皆がこれを偶発的な事故とは捕らえなくなっていた。悪意を持った何者かによる凶行の連続──有り体に言えば連続した殺人事件だと言う事だ。それにしては手口が残虐過ぎるのだが、これが獣によるものであれば大の大人がみすみす続けて被害に遭うのは不自然だし、複数によるものなら現場に足跡や糞などの痕跡が残らなければ嘘だ。中央政府から派遣されている事故調査団、あるいは警察官達の考えていることは判っている。つまり、村の中に犯人を隠匿しているものがいるというのだ。でなければ、警備の体制を知るものでなければ、これほど見事にかわす事が出来ないだろうと言うのだ。公式な見解 ではないが、1ヶ月もの長い間遠くまで派遣されている者の中には厭滞な雰囲気が漂い、非協力的な態度を取る我々に敵意を向ける者も見える。我々としては村内から容疑者を出すと言うことは不本意で、まったく信憑性に欠ける仮説だと思われるので勿論それを前提とした協力は出来ない。だが、村内でも意見は二分してきてしまい、お互いに疑いの目を持ち出したのも事実だ。実際、匿名の告発により、新しい死者が出たときの行動が不明な村人は個別に尋問を受けている。当然ながら尋問は非公開で、隠密裏に行われていたのだが、それでも情報を流す者はいるようで、猜疑が猜疑を呼んで村全体が各々不信感に陥りまるで暗い雲が掛かったように嫌な空気が充満していた。あまつさえ、これを機会に普段からの不満を爆発させ、無関係の村人を告発する事で報復に替えようとする者まで現れる始末だ。中には、すべてが妖怪の仕業だとか、山中で青白く輝く幽霊を見たという噂まであると聞いた。そんな折であれば、母親が気味悪く思うのも無理はない。普通なら僕のほうが先に物音に気付かなければならないのだけど、連日の捜索で疲れがたまっていたのだろうか。僕は布団を脇に退けると、上着を羽織 って居間の方に出た。と、何の事はない、物音どころか激しいノックの音が続いている。おまけに、その珍入者は自分の名前まで語っていた。
「ルガース、ルガース、開けてくれ、パトラスだよ、起きろ、ルガース!」
 母親の疑念が僕にも移ったのか、声の主が知った者だったので、特にパトラスだった事に安心して慌てる事はないと思ったのか、ドアを開ける前に聞き返した。
「なんだ、パトラスか。うるさいなあ、今何時だと──」
「ああ、ルガース、起きたのか、大変だ、落ち着け、また死体が出たんだ──」
 落ち着くのはお前のほうだ、と軽口を叩きたくなったが、これだけ取り乱している者にそれを言うのは酷というものだろう。僕は掛け金を外して、パトラスの前に顔を出した。「ルガース、早く、とにかくこっちへ──」
 僕の手を引っ張るパトラスに苦笑いをしながら、僕は靴を履き直して外へ出かける準備をした。後ろから心配そうに見やる母には、目で大丈夫と合図をする。僕が前につんのめりそうになる程強く引っ張るパトラスの手に、今更死体が出たところで驚きはしないと思いつつ従うと、扉から数歩離れたところで母親が家の戸の掛け金を閉める音が聞こえた。
 パトラスの大袈裟な素振りに逆に冷静にさせられた僕は、しかしその足が村の中心に向かうに従ってかえって不安にさせられている事に気付いた。彼の向かっているだろう場所が何となく理解できたからである。その先には、この村の村長の家があるのだ。
 僕の予想が当たっていた事は、数分もしないうちに証明された。そこで、僕は次第に異様な不安感に自分の鼓動が高まっていく事が感じられた。その扉の前で一瞬立ち止まろうとする僕を怪訝そうに振り向いたパトラスはしかし真剣な表情で短くつぶやいた。
「中へ」
 僕は扉に手を掛け、そんなに重い物ではないはずなのにどれほど時間を掛ければよいのか自分でも判らないほどゆっくりと手前に開いた。部屋の中は灯りが点けられており、村長を中心としてもう数名の村人が集められていた。彼らの視線は輪の中央に集中しており、一様にその表情は暗い。絶望と言う題名がつけられた絵画があるとしたら、その風景はまさにこの光景と瓜二つであっただろう。僕にはその意味が判る気がした。しかし、僕の中の理性がそれを躍起になって否定していた。
 村人の中にはジョシュアの姿も見える。彼は、真っ先に扉を開けた僕に気が付いた。半ば茫然としていたその表情は、僕が誰かを認識すると共にその色を変え、全身と共に急速に僕に向かって接近する。僕は突然、左頬に重い衝撃と焼けるような痛みを覚えた。それを認識するより早く衝撃は僕の脳へと到達し、僕は入ってきた扉まで吹き飛ばされて背中をしたたかに打った。床に仰向けに倒れながら、徐々に頬の痛みが現実のものとなる。痛みをこらえながら顔を上げると、ジョシュアの顔が今度ははっきりと目に映った。ジョシュアの顔に浮かんだ表情は、紛れも無い怒りだったのだ。僕を殴っただけでは物足りないのか、ジョシュアは右手を挙げたまま肩を震わせていた。
「貴様ッ、貴様がッ──」
 ジョシュアの声は震えていた。嗚咽を堪えているようにも聞こえた。ジョシュアのこんな取り乱した姿は見た事がない。小さい頃も含めて、ただの一度も。嬉しい時も悲しい時も、ジョシュアはむしろ本当の感情を外に出さない印象を周りに与えていた。だが、僕には判っている。彼が唯一そんなに取り乱す理由を。判っている。判っているつもりだった。
 僕の頬には血が滲み始めていた。口の中が切れた様で、鉄のような味がする。口一杯に広がる嫌な味を飲み込んで、僕はまたのろのろと立ち上がった。ジョシュアがまた何か僕に怒鳴ったが、もう聞こえない。信じられないほど緩慢な動作で部屋の中央の机に近づきながら、子供の頃になじられた記憶を反芻していた。また、うすのろと思われてしまった。ジョシュアまで怒らせてしまった。何がそんなに悪かったんだろう?
 テーブルの上には白い布が被せられていた。綿布の中央は盛り上がっており、昔写真で見た氷山の欠片の様に綺麗だ。誰かが僕の腕を掴んでいる。僕はそれにお構いなしに、布切れを半分ほど折り返した。その中に有った物を見て、僕は安心した。ああ、やっぱり想像した通りだ。やっぱりそうだったんだ。また会えたね、ニナ。
 寝息を立てる事もなく、1人完全な静寂の世界の住人になったニナは、僕らのような日常の雑事を想起させる服装ではなく、既に誰かの手で経帷子に着替えさせられており、顔も丁寧にふき取ってあった。唇が真っ白なのを除けば、以前に見た寝顔と何ら変わる事は無い。今にも、欠伸をしながら目を覚ましそうだ。そっと額に触れてみる。もう冬が近いせいか、気温は日に日に下がっていく一方で、ニナの体はすっかり冷え切ってしまっていた。可哀想に、寒い思いをしたのかな。
「山の中に埋められていたんだよ。他の死体と違って土の中にあったから、発見が遅れたんだと言っておった──。そんな事を聞いても何の慰めにもならん。わ、わたしは──」
 そう言う村長の声も震えて涙声になっていた。ジョシュアに続いて、らしくないの連続だ。可哀想に。何か声をかけてあげなくちゃ。
 額に触れた手を、そのまま上へと伸ばし、ニナの髪を撫でてやる。美しいプラチナブロンドからは、陽光の元で見たときのような生命力と微かな匂いを感じ取る事はできなかった。ふと、髪を掻き分けた手の中に何かが引っかかる。小指の爪ほどの、黒い物体が髪にこびり付いていた。何気なく指でつまみ、潰して擦ってみる。それは乾いた血の固まりだった。赤黒い砂の様になった血液が、僕の食指に付着している。血、くっついてた──。
 ニナ、死んじゃったんだ──。
 血液を見たことで、自分の中のニナの記憶と目の前の姿、そしてその死という現実がゆっくりと音も無く結びついていく。ニナはもういない──。ニナはもう目覚めない──。
 痺れるほど静かに状況を受け入れていく意識に反して、僕の体は異常をきたしていた。さっきから僕の腕をつかんでいた誰かの手を、握り返しながら力を込めていく。誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。目は瞬きを忘れて乾いてくる。僕の喉の奥からは、低い唸り声が響いてきた。これは何だ?誰かが慟哭しているのか?
 周りの村人達が僕を抑えようと体の各部に飛びついてくる。それにつれて僕の力は加速度的に増していき、誰にぶつければ良いのか判らない怒りに打ち震え始める。
 そうだ、怒りだ。ニナを、私からニナを奪ったものへの怒りだ。私は決して許さない。そいつをニナと同じ目にあわせてやる。絶対にこの世の果てまでも追い詰めて縊り殺す。肉片一つとて現世に残しはしない。そんな物を手向けとしても、ニナが報われるはずもないが、ニナの命を奪ったものに、存在すら許しはしない。私は、私は、

 私は──。

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