「何がニナを引止める」

第2部 青白い目覚め

 森の中を女が歩いている。夜とはいえ、月は煌々と輝いており、ランプの灯りがなくとも足元に不安は無い程であった。それに、女にとって歩きなれた道は、普段はさすがに一人で歩くことはしないものの、恐怖を覚えるようなものではなかった。こんな深夜ならば、誰に出会うこともあるまい、そんな考えと、先を急ぐ心が女の気持ちを軽くしていた。
 森の道も半ばにさしかかったところで、ふと妙な感覚に襲われる。後ろに何かがついてきているようだ。はっきりと足音が聞こえるわけでもないのだが、直感にも似たその感覚にとらわれたとき、通いなれた道は途端にその表情を変える。女は直ちにそこを去ろうと歩を早めた。しかし、その気配は一定の距離を置いて、正確に追ってくる。女はいつしか、前へ倒れこむように走り出していた。不意に、後ろから声をかけられる。
「ちょっと、待って下さいませんか」
 脈絡と今の状況を冷静に考えて決して気を許したわけではなかったのだが、下手に刺激するよりも安全かと、女はゆっくりと振り向いた。
「はい」
「失礼。こんな夜更けに、女性に声を掛けるなんて。しかし、ここは誰も通らない道らしくてね。困っていたのですよ」
 女が手にしていたランプをかざすと、男は言葉とは裏腹な態度で口元だけで笑った。少しヤセ型の背の高い男は、この辺りでは珍しい金色の髪を持っている。少なくとも皆がブルネットの髪を持っている女の村の者ではない。それは、女に見覚えがなかった事でも明らかだった。
 その両手は体の前にそろえられていたが、どちらにも灯りの類を持っていないところから見ると、夜でも目が見えるというのだろうか。もっとも、今日の様に月が綺麗な晩ならば、灯り無しでも外に出てみようと思うのかもしれないが。あるいは、何かのっぴきならない理由でここにいるのかもしれない。そう思えば、男の服装は森の風景に不釣合いなほど綺麗に整っており、村の富裕層とも違った気品を感じさせる。野盗にでも襲われたのだろうか。
「何をお困りなのでしょう」
 男に困った様子は少しも見られなかった。不思議に、女の顔を見詰めたまま微笑を浮かべている。第一、この状況で平然としていられる方が稀だろう。ランプ一つで森を抜ける女もそうだったが、まるで場違いな様相を呈している男の場合は尚更だ。いくら森に対する畏敬が薄れているとはいえ、危険が無い訳ではない。女にしても、それくらいの心構えはしている。
 男はその質問に答えようとはしなかった。かといって、襲いかかろうと近づく様子もない。そんな態度が余計に不気味に思えてきた女は、男の元から走り去る機会を探っていた。手にしたランプに、虫が近づいて燃える。その微かな音を合図に、身を翻そうとした瞬間、男は再び口を開いた。

「ニナ」

 突然名前を呼ばれた彼女は、背筋から冷たい汗が流れるのを感じた。得体の知れぬ恐怖感がニナを襲う。反射的に足を後方に動かそうとするが、不思議と足はその場に据えられたままだ。かといって、自身が恐怖におののいているというわけではない。全身に力が入らなくなっているのだ。しきりに危険信号を送る脳に反して、その手足はぴくりとも動かない。手足に落としていた視線を男の方に戻すと、その目が視界の中央に入ってきた。途端、意識が遠のき、足元から崩れ落ちる。

 暗転。

 目を開くと、そこは室内だった。自分はどこかで横になっているようだ。白い天井が見える。天井の端の漆喰は剥がれ落ち、その下の地肌が見えていた。まだ頭は朦朧としていたが、自分が森の中で倒れたことを思い出した。わたしと一緒にいたのは確か──。
 ゆっくりと上体を起こすと、少し眼の奥に痛みを感じた。血が足りないのだろうか。目眩がする。粗末な作りの、狭い部屋。まったく見覚えはなく、少なくとも知っている者の家ではない。左手の扉が音もなく開き、金髪の男が部屋に入って来る。そう、確かわたしが気を失ったのは、あの男の目を見て──。
 男は、ニナから距離を置いて立ち止まり、声を掛ける。
「大丈夫ですか?貴方が倒れられたので、馬車を拾って私の家までお連れしたんです」
「ここは──」
「あなたのいた森の道からは少し離れていますが、馬車を使えばそれほど時間はかかりません。貴方はあそこで何をしてらしたんですか」
 本来ならば助けてもらった礼を述べるべきなのだろうが、ニナにその気持ちが湧く事はなかった。男の話している内容はあまりにも常軌を逸し過ぎている。確かあのとき、男は困っている、と話したはずだ。この辺りは人通りが少なく、困り果てていると。もっとも、あの辺りは元々あまり村のものも通らない道であるし、なおかつ月明かりがあったとはいえあんな深夜に外を出歩く方がどうかしている。ましてや、馬車が通るはずがない。おまけに、この男は村の者ではないので、そんな彼がどうやって馬車を呼びに行けたというのか。何をしてたのか、不審なのは男の方である。
 だがその時、男の問いにニナは自分が何をしようとしていたのかを明確に思い出した。自らの婚約者に会う約束をしていたのだ。今が何時なのかは判らないが、約束の時間に大きく遅れてしまったことは確かだ。村に戻らなければ。
「あの、もう大丈夫ですので帰り道を教えてもらえませんか」
 ニナは一刻も早くこの場を去ろうと、立ち上がろうとする。しかし、立ちくらみからか体勢を崩した。
「駄目ですよ、いきなり倒れるくらいなのですから。しばらく身体を休めていくといいでしょう」
 語調は柔らかだったが、その目は聞く者に否定の意思を告げる事を許さぬかのように見据えられており、逆らうことができない。ふと、男の目が少し細まって、声のトーンが落ちる。

「ニナ」

 ああ、やっぱりこの男は私を知っている──そして再びニナは意識を失った。

 再び暗転。

 暗い。今日は月が出ていないから、足元も見えない。いや、ランプを持っているはずの自分の目も見えない。違う、これは自分が目を閉じているだけだ。私はどこにいるのだろうか。目を開けようとしても瞼が動かない。助けを呼ぼうにも、声が出てこない。首がちりちりする。何かが当たっている感触。身体中の感覚が薄れて茫洋としている中で、そこだけが熱い。不意に痛みが強まる。耐えきれないほどの痛み。痛みをやわらげようと声を出そうとしても声は出ず、両手も動かないため何かに掴まる事もできない。暗闇の中から、更なる暗闇の中へ落ちていく。しかし、上下の感覚はない。助けて、助けて──。

 ああ、ルガース!

 婚約者の顔が浮かぶ。目を開いているときには思い出せなくても、眠る瞬間にはいつも思い出すその顔。だが、自分の記憶にはいつも笑っている印象の彼の顔は、今は無表情だった。目を閉じて、血の気が無く──、ゆっくりとその眼が開かれると、そこには黒い空洞があるばかりだった。

 暗転。

 目が開く。今までの映像は夢だったのだろうか。しかし、眼を開いても周りは暗闇につつまれており、しばらくじっとしていても一向に眼が暗闇に慣れる様子はない。耳をすましても、痛いほどの静寂がかえってくるばかりで、無音がやかましく感じられる。今自分が居るのは何処なのかと身体を起こそうとしても、身動きがとれないほど狭い空間に閉じ込められている事が判るのみだ。
 手を動かして壁面を探るが、自分の爪が掻く音だけがこだまする。ふと、遠くから、何かを打ち合わせるような音が聞こえてくる。少し湿った感じの、でも決して柔らかくない音。金属のような、明らかに固い音も混じっている。音はゆっくりと、だが確実に近づいてくる。どうやらそれは自分の前方から聞こえてくるようだ。前方と言っても、自分はどうも横にさせられているようだから、これは上方と言うべきなのか。まったく身動きがとれない状態で、音はその速度を早めない。
 ニナは、自分の意識が過去の記憶に向かっていることを感じた。今まで自分がしてきた、とるに足らない日常を反芻する。寒い。暗い。過去の記憶も、まるで誰かから映像を送られているかのように偏ったものしか思い出すことができなかった。身体とともに、思考の自由まで奪われているのだろうか。
 駄目だ。
 どうしても暖かい想い出が出てこない。

 辺りが急に真っ白になる。光?暗闇から解放されるのかしら──。

──目が開く。
 最初に眼に入ったのは森の木々の間からこぼれる月の光。続いてちくちくとした痛み。じいという低い音が頭の上の方から聞こえてくる。身体を起こして辺りを見まわすと、そこには見慣れた木々が並んでいた。それに架かる強い月明かり。枯れた小枝が散乱している道の真中に、どうやら倒れていたようだ。持っていたランプは幸いなことに倒れておらず、寝ていたすぐそばに落ちていた。火も消えてはいない。何をしていたんだろう。そう、あの金髪の男に声をかけられて、そうしてどこかの部屋に寝ていて、いや、違う、何か狭いものの中に閉じ込められて、光が──?
 何回か夢を見ていたのだろうか。夢の中で味わった奇妙な感覚は、こんな変な場所に寝転がっていたからなのか。そう考えると、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。
 こんなところでぼうっとしている訳にはいかない。ルガースを待たせている。彼の元へ行かなくては。
 其処でどれほどそうしていたのかは知れなかったが、月があまり傾いていなかったことを考えると、気を失っていたのはほんの数分のことだったのだろう。それならば、遅れたとしてもルガースが待ってくれているはずだ。背中についた枯れ枝を払い、裾の土を落とすと、再び森の道を走り出した。月明かりとランプのおかげで、ほぼ疾走に近い速度で進むことができる。
 森の道は真っ直ぐに続く単調な一本道で、灯りの続く限りずっと前方が見渡せる。すると、道の中程になにやら黒い布きれが固めて置いてあるのが見えた。別に気になる程のものではなかったのだが、道を通る際に明らかに邪魔なほど大きな障害であったので、半ば苛立ち混じりに通りざま振り返って布に目を凝らす。
 奇妙な大きさの布きれからは、白い何かが飛び出している。それが何かと考えるより先に、彼女は理解した。それは人間の手であった。
 途端に、目の前のボロが異物に変わる。変な格好にねじくれてはいたが、それは紛れもなく人間の身体であった。ニナは自分の肌が粟立つのを感じたが、それを残して立ち去ることが余計に恐怖感を募らせるような気がして、ランプをかざしながらおそるおそる頭の部分を覆っている布を捲って見る。それは確かに人間であった。目は輝きを失っており、一目で生命を停止していると理解できる。自分では冷静に状況を把握したつもりだったが、その口からはほとんど音にならぬような押し殺した悲鳴が漏れた。
 死顔はまだ原型を留めており、顔の形からそれが誰か判る気がした。その顔には見覚えがある。確か、村の外れに住んでる──いや、住んでいた──。
「ニナ、お目覚めかい」
「きゃあっ」
 唐突に背後から声を掛けられ、悲鳴をあげながら飛びすさる。声の聞こえた方向に目をやると、慌てて取り落としたランプに照らされて男の姿が浮かび上がる。金髪碧眼の男は、腰を抜かした格好のニナを無表情に見下ろしている。思わず口に手を当て、叫びそうになるのをこらえた。夢に出てきたのと同じ男に違いない。するとあれは、夢ではなかったのか?
 首筋がちりちりと痛む。突いたり切ったりといった単純な痛みではなく、そこに熱いものを押し当てられたような痛さ。思わず首を押さえるが、そこには何もない。男の見下ろす視線が気にかかる。ニナは急に喉の渇きを覚えた。今や首の熱さは身体全体に回ってきたようで、熱いものがこみあげてきており、しきりに喉が乾く。まるで熱病に浮かされているかのようであった。
「どうしたのかな?」
 男が少し首を傾げてこちらを見詰める。ブロンドの髪がさらりと音を立てたように額にかかり、初めて崩した表情は、体裁としては心配を表しているが、内心楽しんでいるかのように不誠実なものであった。冷たい汗を感じながら上目遣いににらみつけるニナの視線を眠そうな表情で応え、その実は全ての状況を見透かしているかに見える。ニナは奥歯を噛締めながら、必死に身体の不調に耐えていた。
「い──いえ、私はもう帰らないと」
 悲鳴を上げて走り出すほど分別のない女だと自分でも思わなかったが、身体全体が恐怖に震えており、逃げ出そうとしても首筋がちりちりして、身体の自由を奪うかのようにニナをそこに引き止めている。
 男の催眠術にでもかかったのだろうか?
 目の前のブロンドの男は口の前に指を当てて微笑を浮かべた。嫌な笑いだ。
「実は、君には少し付き合って欲しくってね、ちょっとした魔法をかけたんだ」
 男の目に生理的嫌悪感を催すような表情が浮かぶ。あれは、絶対的に力の劣る獲物を前に、獣がいたぶって遊ぶときの目だ。侮蔑と優越感。段々と話し方ももってまわった言い方になっており、極めて聞き苦しい。魔法?自分が御伽噺の王子様にでもなったつもりなのかしら。ニナは心の中で急速に反感を覚え、悪態をついていた。
 ともあれ、自分が何か妖しい術にかかったのは確かなようで、逃げようと身体を動かす度に首が痛み、行動を拒否する。
「なに、命に別状はないさ。今のところはね」
 男はこちらに目線を合わせたまま器用に後ろを振り向き、後ろ手に手招きする。ついて来い、という事か。転がっていたランプを手に取り、服の土を払って男を追いかける。どうやら彼の指示に従う行動には抑制はかからないようだ。ニナの視界の先には男の後姿が小さく見える。先に立って歩く男は優雅な立ち振る舞いで足を運ぶが、その進行は速く、ついていくのがやっとだというのに男の方には一向に疲れる様子がない。森を抜け、湖を横切る頃にはニナはへとへとになっていた。先に意識を失った事もあってか、体調は完全ではないようで、また気が遠くなりかけて足元の力が抜ける。
 ふっ、とその場に崩れる瞬間、ブロンドの男が体を支えた。男の香料だろうか、何かの匂いがする。その匂いを嗅いで、何故だかまず先に思い出したのは母の顔だった。いや、でも母とは違う、もっと昔に出会った女性のつけていた香水だったのか──。

 何かとても昔に嗅いだ事の有るような匂い。

 再び暗転。しかし今度は閉所に閉じ込められる映像も見なかった。
 瞼に明かりを感じ、ゆっくりと目を開けると黄ばんだ天井が目に入る。ここはどうやら薄汚れた小屋か何かのようで、薄い明かりに気付きスプリングの固いベッドから身を起こして辺りを見まわすと、私の持ってきたランプが傍らに置いてある。また夢かと思ったのだが、今度はどうやらそう簡単にはいかないようだ。ランプの明かり以外にも、部屋に光源があることに気付く。部屋の左隅には机が備えつけてあり、その上に三叉に分かれた燭台があって蝋燭に火が灯っている。燭台の向こうで何やら動く影は、男が書き物をしているようだ。

 しばらく見ていると、男がペンをインク壷に持っていくのが判る。今時、インクをつけるタイプのペンで物を書くなんて。男は私が目を覚ましたのに気付くと、ゆっくりこちらを向いた。男の鼻の上には金縁の眼鏡がかけられている。眼鏡を外すと、その手に弄びながら椅子の向きをニナの方に変えた。
「最近は便利な物があるね。僕は生まれつき視力が弱かったんだ。生き物以外を見る時はとても助かる」
 ニナには何をいっているのかさっぱり理解できない。先ほどからの行動を見ていれば、とても正気とは思えないが、かといって「今のところ」男には危害を加える気は無さそうだ。ただ、いつ逆上するかしれないが。
「済まなかったね。君の体力を超えた運動をさせてしまって。ここは僕の家だ。かりそめの住まい。なかなかいい所だろう」
 御世辞にも良い所とはいえない。暗いので良くは見えないが、張り詰められた床板も程度のよいものではなく、部屋の中は窓が締め切られているのか、少し湿っぽくて饐えた匂いがする。こんな廃屋の様な小屋、まるで漂流民も嫌うような──。

──まさか、まさかさっき私の目の前に倒れていた人の家なのでは──。
 ニナの目は咄嗟に見開かれ警戒の色が走るが、男はそれに気付かなかったのか、それとも敢えて無視したのか、それまでと変わらぬ口調で続けた。
「ニナ、君には話さなければいけない事が沢山有る。君が帰るのは僕の話が終わった後。いや、君が帰るかどうか選択する、といった方がいいのか。どっちにしろ、夜明けまでには終わるよ。安心して」
 男の目は先程の夜道でニナを見つけたときのものとは違って、どこか優しげな愁いを帯びていたのだが、彼女にはそれを汲み取るだけの余裕はなかった。むしろ、それに気付いたところで彼女は男の狂気の為せる技と解釈していたであろう。

 ああ、何と私の不運な事だろう!こんな狂気のとりことなるとは!
 ニナは己の身に降りかかった不幸と、加えて自分の愚かさを嘆いていた。あんな時間にあんな道を通りさえしなければ。いや、もう少し早く家を出ていればルガースとの待ち合わせの時間を気にして焦る事は無かったのだ。ルガース、せめて貴方がここにいれば、もう少し気分が楽になれるかもしれないのに──。
 男はいつの間にか眼鏡をどこかにしまい、こちらに向き直って口元だけで笑いかけていた。努めて笑顔を作ろうとしているのかもしれないが、その目はこちらの挙動を見逃すまいとまっすぐに注がれているので、場を和ませようという試みは見事に失敗に終わっていた。それが相手に簡単に悟られてしまうということは、あるいはとてつもなく人付き合いが下手なのかもしれない。じじ、という音と共に蝋燭が揺らめく。ふと、男のつけている香水か何かだろうか。懐かしいような芳香がニナの鼻をくすぐる。抱きとめられたときにも感じていた記憶の中のほころびが、再び蘇ってくるような感覚をニナは味わっていた。部屋の中の明かりは蝋燭とランプのみで、その炎の揺らめきが、男の視線を魅惑的なものに変え、それ自体が独立して生命を持って、今にも外に出てくるような錯覚を与えた。

「さっきは驚かせてすまなかった。僕自身には君に危害を加えるつもりはない。だが、人間には不幸と言うものがある。君の母親のように、受け入れるものの選択次第で自らの運命を破滅に導くと言うこともある。それは言い換えれば、自滅を望んでいたと言う事になるかもしれないし、僕はそれをまったく無意味だと考えているが、人間とは得てしてそういう道を選ぶものなのだよ」
 男は静かに立ちあがり、黒い窓枠の方に歩いていく。窓にはガラスがはめ込まれているが、外から雨戸なのか、何か板状のものをあてがってあるらしく、外の風景は見えない。男は窓枠の下の部分を指でなぞっていた。見ようにとっては埃を弄ぶようにも見えないこともないが、男にはその意思はないのだろう。何か遠い記憶に想いを馳せているような態度を示していた。
「母親?」
「覚えて──いないのだろうな。おまえは幼すぎた──」
 ニナは声を高め、閉じられた窓枠を見入っている男の横顔に問い掛ける。
「一体何を言っているの」
「時間もない。単刀直入に言おう。おまえは私の娘だ。実の母親は、僕の妻は、もうこの世にはいない」
「な──、私の両親はまだ生きているわ。父と、母と、兄と──」
「村長一家はおまえと血の繋がりを持ってはいない。信じられないという顔だな?それじゃあ聞くが、おまえは小さい頃の記憶を何か持っているか?おまえがこの村にいたという証があるか?」
 男が詰問口調に変化したこともあるが、それよりも先にニナにはその問いに即答することが出来なかった。元々ニナ自身もそれには疑問を持ったことがあり、幼い頃は何度か両親に聞いていたようだ。第一、村の皆の髪の色がブルネットであり、ニナのそれは純粋なプラチナブロンドであることからも子供たちから遠慮の無い揶揄を受けていた。そうして家に泣き帰る度、両親にそれを尋ねた。父親は黙って口を閉ざすばかりだったが、母親は顔色を失ってニナを抱きしめながら、ニナを実の娘だと繰り返すのだった。両手でニナの肩を抱きしめるさまは、ニナの恐怖を払うためと言うよりも、母親自身が何者かからの怯えを逃れるために、ニナに縋り付いていたかのようであった。母親の目に涙が光るのを見たとき、ニナは子供心にもうこの話は口にすまいと決めた。血が繋がっていなくとも、優しくしてくれる両親を苦しめることを望まなかったからである。いずれ時が来れば真相を聞けるかと思っていたが、母はその後心臓を悪くして床に伏せることが多くなり、はっきりと聞けないまま今に至っていた。幼い頃とは違い、同年代の者ももはやニナの出生を話題にはしない。

何故それをこの男が──。

ニナは、苛立ちを覚えていた。男のもってまわった語り口調も気に入らなかったのだが、何より初対面の男のたった一言で動揺している自分に憤りを感じていた。内面だけの変化ではなく、とっさに言葉を失う程の動揺を示す事は、今まで育ててくれた家族への裏切りの行為にも思えたのだ。
「そんな事は──どうでもいいわ」
 その言葉には嘘が含まれていた。自分の長年の疑念を晴らしたい、ニナが内心そう思っていたのは確かだったからだ。しかし、それを知ってしまったら、元の幸せな家族に戻ることはできないかもしれない、そんな不安がニナに虚飾の科白を作らせた。
「大体、そんなに小さい時の記憶を鮮明に覚えていなくたって別に不思議なことじゃないわ。それが貴方と私の血が繋がっているという証拠にはならないわよ」
「それでは、順を追って話していく事にしよう。長い話だ。口を挟まずに、最後まで聞いてくれるね?」
 男は再び椅子に背をもたせかけた。そうしていると、いかにもそのタイプの椅子に座りなれているような仕草だった。時代がかっているが、不自然なところは無い。ただ、何処かに獣じみたしなやかさが動作に付きまとっており、それがぎこちない印象を与える。男はニナの返事を待っており、ニナは黙って頷く事でこれに応えると、男は満足げに口の端をわずかに上向けた。
「ニナ、目を瞑ってごらん。これから僕はおまえの思考に直接話しかける。何も不思議に考える必要はない。人は誰もこうした潜在的な力を持っているのだ。いや、人はそういった能力に拒否反応を示しているというべきか。僕はそれに気が付いた。ただそれを解放しただけなのだ。太古の昔、人となるべき存在が持っていた、地上に生きる獣の眷族としての証。人はそれに目を背け、自らが最も優れていると言う根拠の無い傲慢の衣を着ているに過ぎない。とにかく、我々は最も単純にお互いを理解する方法を持っている。特に血の繋がりがあれば、無意識の中の深い部分まで共有することが出来るのだ。恐れる必要はない。困難な事もない。おまえはただ、目を瞑って私の思考に耳を傾けているだけでいいんだ。」
 男に対する疑いを隠せないまま、それでも自身の中の好奇心に勝てないニナは、ゆっくりと瞑目し、耳をすました。ランプの芯が燃えて音を立てる。ニナは何か言葉が掛けられるとも思っていなかったのだが、目を閉じている以上耳からの情報に頼らざるを得ず、丁度街の劇場での公演が始まる前のように静寂に意識を集中していった。
 突然、周りの景色が変化する。
 村?いや、ニナの住んでいる村ではない。むしろもっと牧歌的なものだ。いや、それより前に今は深夜だったはず。どうして日光が感じられるのか──?
「ここがおまえの生まれた村だ」
 ブロンドの男の声が低く響く。声のする方向は前方のようだが、男の姿は見えない。ニナが驚いて目を開くと、目の前に先程ニナが目を閉じる直前の光景が戻ってきた。薄暗い部屋の中に男が座っている。男の声は続くが、目の前の男の唇は動いておらず、直接頭の中に響き渡る。
「──そして、おまえの母親、僕の愛した女性の生まれ故郷でもある」
 男は再び瞑目した。瞼の裏に浮かぶ光景を必死に留めているかの素振りで。
「おまえの母親がこの村を選んだのは、あるいは──故郷の村に似ていたからかもしれないな」
 男の言葉は、先程までと違い小さく聴き取れないものだった。言葉が発せられる時、今度は彼の唇が動くのを見たが、果たしてその言葉は誰に向けられたものだったか。それきり、男はしばらくうつむいて黙りこくってしまい、目の前のニナの事を忘れてしまったかのようだ。余りにもそれが静かであったので、ニナは男が眠りについたのかと思った。男の息遣いが極めて静かだったことに気付いたら、死んだと勘違いしても不思議ではなかったろう。だが、ニナは懸念に気を取られ、男の次の言葉を待つのに集中することができない。男の非現実的な物言いに、若干の疲れを感じたニナは、いつのまにか恋人との約束を思い出していた。
 ルガースは2,3時間したらまた来てくれ、といっていたが、部屋には時計も無く、ニナ自身も慌てていたせいか家に腕時計を忘れてきてしまっていたので、まったく時間がわからない。とにかく、かなり夜が更けており、約束の時間はとうに過ぎているだろう事は確実だった。それまで恐怖と身の危険から忘れていたのだが、さしあたっての安全が保証されてくると、途端に恋人の事に思考が傾いていた事に気づき、ニナは内心苦笑していた。しかし、ルガースと出会って過ごした時間はとても素晴らしく、彼女の人生の中でまったく経験していなかった刺激であった。
 それに加えて今日は、特別な日でもあった。ルガースから結婚の約束を持ち出されていたからだ。もうニナにとっては他の相手を探すことなど考えることもできなくなってきていたので、即座にイエスの返事をしたのだったが、ルガースは何か形になるもので証を残したいと話していた。もう一度訪ねてくれ、ということは何かプレゼントを用意しているのだろうか。それにしても、そんな手際の悪いところも、なんだか彼の人柄の良さと純朴さを表しているようで、それを思うと自然と笑みがこぼれてしまう。そんなものなんて無くても、私の気持ちは変わることはないのに──、ただ今は、それが伝えられないのが悔しかった。
「他の事は考えなくて良い。ルガースという人物の事も」
「えっ、あ、ハイ」
 男の困ったような物言いに、つい学校の先生に怒られたような錯覚をしてしまう。どうやら冗談やペテンの類ではなく、本当にニナの考えを読んでしまっているようだ。もっとも、誰が見てもニナが他の事を考えていることだけはわかったかもしれないが。
 別に怒られたからというわけでもないが、従っているうちはこちらに危険はないようだし、興味を抱いたのも確かだった。ニナは素直に応じることにし、目を閉じると再び風景が目の裏に広がる。牧歌的な村が見え、その映像は生々しく、まるで草原の匂いが感じられるかのようだ。
 視界の中央に小さな小屋が見える。牧歌的な風景の中でもそこは特に周りに人家もなく寂しげなところで、人影も見当たらない。村の外れの空家、といったところだろうか。小屋の窓から中が覗ける。中には、1組の男女が寄り添っているのが見られるが、ここに住んでいる様子ではない。村人の目を盗んでの逢引といったところかもしれない。ニナは心の中でそんな古臭い表現を思いついたことに顔に血が上る気がした。そんな気持ちになったのも、2人の様子は何か古めかしく、逢引といった古典演劇のような言葉がふさわしいと思えたからだ。特別な動きをするわけではないのだが、その素振りから、2人が深くお互いを愛しているだろう事は見て取れた。男の方には見覚えがある、というよりも先程まで自分の目の前にすわっていたブロンドの男だ。しかし彼の様子が今とまったく変わっていないところを見ると、最近の映像なのだろうか。いや、この場合は最近の記憶と言った方がふさわしいのか。

 一緒にいる女性は、やや年上に見えるが、それでも若々しく美しい。髪の色は灰色に近い白銀で、それが年齢を高く思わせるが、彼女が元から持っていたであろう気品をさらに引き出すことに成功していた。2人ともが上品な感じの若者なので、場所を考えなければ恋愛小説に出てくるような貴族の恋の場面ともとれる。2人はしばらくテーブルをはさんで談笑していたが、女性が何かそっとささやいたのをきっかけに男は椅子を彼女の隣に近づけた。男は少し驚いた風だったが、その表情はすぐに喜びのそれに変わっていた。彼は女性の肩に手をまわし、愛しそうに髪を撫でた。視点がさらに近寄る。2人の表情の変化まで、微妙な部分もさらに識別することができるようになった。それに、会話の一部も聞こえてくる。

「子供か」
「ええ、そう──出来たみたいなの」
「そうか──やっと私達にも、子供が──」

 二人とも満面の笑みを浮かべている。気のせいか、男の顔に一瞬不安の翳りがよぎる。これは、子供を持つという事が決まった男性特有のものなのだろうか。それとも、何か特殊な事情でも──ニナは自分がこれからこの男女に起こるであろう出来事について、不吉な予想をしていることに気付き、慌てて打ち消した。そんな悲しいことはあってはならない。あの女性の喜びを見たならば。
 あの女の人、どこかで見たことがある気がする──。
 いや、知っている誰かに似ているのかもしれない。いったい誰だろう──。
 急に視点が遠のいていく。女性は少し自分のお腹を触りながら、幸せをかみしめている。視点が遠のくとともに、こちらとは逆の方向を向いていた男の表情は隠れてしまって見えなくなっていた。

ホワイトアウト。

 急激に辺りが閃光に包まれてゆき、2人の輪郭だけを残して何もかもが見えなくなっていく。
 徐々に光が弱まり視力が戻ってくると、辺りが再び識別できるようになってくる。
 場所はさっきと同じ部屋。窓から差し込む光線の具合から、先程とは時間帯が異なっているように思われる。最も違うところは、部屋の中にいる人数の構成か。女性の姿は見られず、ブロンドの男が1人、椅子に腰掛けている。その表情は先程の幸せそうなものとはまったく異なり、苦痛に歪んでいる。それはあるいは心の動きから来るものかもしれなかった。喉の奥から苦しげな声が漏れ出す。それは文章としてはなりたっておらず、もちろん他に部屋の中に誰もいないのだから誰かに聞かせることを目的として放たれた言葉でないことは確かだ。
「いけない──リーテル──子供は──だが私は──」
美しいともいえる男の顔は今や歪みきっていた。苦しさに口元からはややとがった犬歯もあらわに嘔吐の格好を示している。
「このまま生まれてしまうなら──私は──」
「ああ──リーテルを──」
 途切れ途切れに聞こえる言葉の断片から推測するに、リーテルというのが先程の女性の名であるようだ。
 悲しみ、苦しみ──、そのすべてが凝縮されたとき、人は泣くこともできないのか。しかし私の目には、その男が血の涙を流しているかのように見えた。その命を削って体中で遺憾さを表現しているとでもいうかのように。
「私にはできない──だが、やらねば──」
 男は立ち上がる。しかし、その顔に浮かんだのは歓喜の表情ではなかったか。その目は空ろで、一瞬その中に狂気が浮かんだともとれたが、それは男が避けられ得ぬ運命を自分から受諾したということだったのだろうか。

 再び目を覆う白。

 視界が戻ると、場面は同じ小屋の中。だが、部屋は先刻とは変えているようで、今度は食事をする為の場所のようだ。部屋の中央には大きめの木製のテーブルが据えられており、食事を終えたばかりなのだろうか、薄い明かりの中に座る男女の間には平和な空気が流れていた。雰囲気から察するに、この家には彼ら2人のみが住んでいるのだろう、誰にも邪魔されることのない空間は、逆にその平和を危ういバランスに保っている印象を与える。先に2人が現れた時から時間の経過が大きくなされているようで、灰色の髪の女性、リーテルの腹部は目立って大きく膨らんでいた。リーテルはゆっくりと自らの腹の辺りを撫でている。中に育った命の姿を明確にイメージしているのか、その触れ方自体にメッセージを込めているように見える。ブロンドの男は優しい眼差しを投げかけ、リーテルの座る椅子の後ろに歩み寄る。
「どうしたの、クディック」
 クディックと呼ばれた男は、背後から腕を回し、リーテルをそっと抱きしめた。優しく、あくまでも優しく。壊れやすいガラス細工を扱うように、そっと。
 クディックはリーテルの肩から腹部を覗き込むように顔を寄せた。自然と、頬が触れ合う。お互いの温かみを実感しつつ、クディックは愛しそうに目を伏せた。再び開かれた目の中には、寂寥とした枯野を思わせる寒さが見え隠れする。クディックはリーテルの首に唇で触れた。途端、リーテルの体を覆っていた生気が抜け、リーテルは糸の切れたあやつり人形のように力を失い、椅子から自重で床に崩れ落ちた。木の床は音を吸収してことり、と一つ音を立てたまま部屋中の物音を奪った。
 クディックは彼女を抱きかかえベッドに運び、そっと寝かせた。彼は椅子を持ってベッドの傍らに座り、リーテルの手をとって静かに見守っている。安らかに寝息を立てていたリーテルは急に痙攣を起こしたかと思うと、苦しそうにうなされ始めた。クディックはそれを予想していたのか、リーテルの手を先が白くなるほど強く握り締めている。リーテルの苦しげな声は段々と明らかなものに変わっている。その額には苦悶の度合いを示すように汗を浮かべていた。子供の生まれるときの苦しみとは少し違うようだ。何か、悪い病気にでもかかっているのだろうか──。

 また一瞬の白い閃光。しかし、先ほどと場面と視点が変わっていない事と、窓にカーテンがかけられて外からの光源が遮られていることからさほど時間が経った印象が感じられないが、それでもリーテルの表情にはやつれた疲労のあとが見られるので、しばらく日数が重ねられているのだろう。

 土気色のリーテルは瞼を震わせながら目を覚ました。
 傍らに座るクディックはずっと眠ってもいなかったのか、先に目にしたときとまったく変わらぬ姿勢でリーテルの手を握っていたが、リーテルが目を覚ましたことに気付くと、その手を引き寄せ、明らかに喜びを表現した。
「身体は、大丈夫かい」
「ええ──気分はいいわ」
「何か欲しい物はあるかい」
「──いえ、今のところは平気よ」
 クディックは細い眉をわずかにひそめ、リーテルの顔を覗きこんで言った。
「──大切な話しがあるんだ」
「ええ」
「君を驚かせてしまうかもしれない」
「ええ」
「また、体調を悪くさせてしまうかもしれない」
「──私なら大丈夫。話して」
「うん──」
 リーテルは優しい目でクディックをみつめていたが、それでもクディックは次の言葉を言い淀んでいるらしく、しばらく握ったリーテルの手をもみほぐしていた。
「私は、私はね、リーテル、私はヴァンパイアなんだ」
「ヴァン──何」
「ヴァンパイア、吸血鬼だ。人の血を吸う悪鬼なんだ」

──。

「私は人間と変わらぬ心を持っている。いや、持っていると信じている。元々、大して違いはないのだが──」
「普通の人ではない、というのは薄々気付いていたけれど──」
「厳密に言うと人とは少し違うのかもしれない。だが、感じ方、考え方は人とまったく変わらないんだ。もちろん、根本からまったく異なる同族もいるが──とにかく、私の心には問題が生じた。それは、君を愛してしまったことだ」
「ああ──クディック──」
「我々ヴァンパイアが人間と結ばれることは禁止されている。理由は、もしもヴァンパイアと人間の間に子供が生まれた場合、その子は伝説的な吸血鬼殺しとなり得るからだ。昔より、吸血鬼をもっとも良く殺すのはその子であると言われて来た。こんな村外れに隠れて住んでいるのも、君のご両親に反対された事だけが理由ではないんだよ」
「──なんてこと──」
「吸血鬼殺しになり得るのは男子だけなのだが──ところでリーテル、ヴァンパイアに噛まれた人間は一旦死を迎え、ヴァンパイアの同族となって復活するというのは知っているかい」
「ええ──小さい頃、親に聞いた事があるわ──まさか、クディック、わたしを──」
 クディックは沈黙で応える。リーテルは目を見張り、すべてを悟ったかのようにつぶやいた。
「ああ、それならこの子は吸血鬼同士の間に生まれた子供と言うことになるのね──」
「その通りだ。私のようにヴァンパイアの血族に入ってまだ年数の浅い若者が人間と結ばれることはまったく許されない。ヴァンパイアの血族の長に子供を作らない、という条件で、同族から命を狙われる事態だけは避けることはできたのだが、私には約束を守ることができなかった。私が禁を破った報いを受けるのは仕方のない事だが、君や子供にまで危険が及ぶのは耐えられない──」
「クディック──そんな事は言わないで──」
「しかしこれは君の人としての命を奪うこと。どうしても言うことができなかった。それによって君の心を失うのが恐ろしかったんだ。でも、誓って言う。私は君を愛している。君を愛しているからこそ、こういう決断を下したのだ。許してくれ、リーテル」
「判っています──私も──あなたを──」
 リーテルの次の言葉は聞き取れず、唇が力なく動くのが確認されたのみだった。しかし、クディックには充分通じたようで彼は満足げな笑みを浮かべた。
再び視点が遠ざかる。今ではもはや当然とも思えるように視界が白くぼやけていく──

 視界が晴れていく。
 先のベッドが目に入る。かろうじて最低限度の清潔さは保っているが、みすぼらしさは隠せない。リーテルがその上に横たわり、苦しそうに喘いでいる。これはニナも何度か目にしたことがある、陣痛の苦しみだ。しかし部屋にはそれを看取る者も無く、彼女の心細さを紛らわす物は見当たらない。リーテルは憔悴しきっており、血の色も失せ、蒼白というよりも純粋な紙の白さにまで近くなっていた。リーテルの喘ぎが叫びに変わった刹那、クディックがドアを乱暴に開け中に飛び込んでくる。
 右手には紅い液体の入ったゴブレットを持っているが、それはリーテルの横たわるベッドの傍に据え付けられた小さなテーブルの上にも置いてある。クディックは杯をテーブルに置くと、既に置いてあった方を手に取り、中を覗きこむ。
「何も摂っていないのか──リーテル」
 リーテルは、その言葉に驚く様子もなく、当惑した様子もなく、ただクディックにすがるような視線を投げると、震える唇を笑みの形に曲げた。
「子供にだって良いはずがない──もちろん、君にもだよ」
「ええ──ええ──でも──」
 クディックはリーテルの額に汗で貼りついた髪をかきあげると、その額にキスをした。リーテルは時間をかけながら搾り出すように次の言葉を継ごうとするが、かすかな息が漏れるばかりで声にならない。クディックは、じっとリーテルの目を見詰めながら、すべて判ったとでも言う様に静かにうなづき、リーテルの唇に指で触れその言葉の断片を切った。大きな息と共に脱力するリーテル。クディックは黙って髪を撫でている。

 リーテルの息遣いも収まり、眠りにつくかに見えたその瞬間──

 絹を裂くような悲鳴とともにリーテルが半身を起こした。それは、クディックの力を持ってしてもにわかには抑えられないほどの激しさで、リーテルの目は苦痛に一杯まで見開かれている。これは出産が近づいたことによる現象なのか。それにしては苦しみが強すぎる気がするのだが──
 リーテルの叫びが部屋にこだまする中、クディックの喉からも嗚咽が漏れる。リーテルの上半身を抱えつつ、おのれの無力さを呪うかのように。嗚咽が慟哭に変わる頃、クディックの両目から涙が流れ始めていた。紅い、紅い涙が──

 暗転。
 先程までの白い霧ではなく、月の出ない闇のような暗さに包まれた。
 出産の光景が次に来るのかと思われたが、場面は一向に展開しなかった。その光景達はクディックと呼ばれた男が見せているようだったが、これがあの男の記憶から出たとすれば彼自身、苦しみを感じていたのだろう。その暗闇と場面転換の遅さは、そのまま気持ちの切り替えを自らに許していない事の表れなのかもしれなかった。クディックの気持ちに整理がつくまで、ニナは待つことにした。特に耳から音が聞こえることは無かったが、心なしか、誰かのすすり泣くような声が聞こえた気がした。それは、錯覚だったのか──。

 暗闇の向こうに明かりが見える。しかし、その冷たさは日光ではない。電気によるものとも違う。寂しい、冷たい月の光。ニナ自身は月夜が嫌いではなかったのに、身を斬られる程切ない気持ちにを感じていた。ニナの目が暗闇に慣れてくると、月光の元に辺りを見渡す余裕ができてくる。枯れた樹々、錆びた鉄柵──そこは墓地のようだった。月光の下に色彩はない。クディックが一つの墓石の前に立っており、彼の服装も黒一色であるためにその風景に色彩を加えることに手を貸していない。クディックが屈み込み、その手元に一つの色が加わった。真の赤。身体を流れる血液の赤。生命の色、情熱の色。その赤色が気分の高揚を生まないのは、月の明かりに熱を奪われてしまうからなのだろうか。クディックの目は、その月と同じ銀色をしていた。

 クディックは片手に持った一輪の薔薇の花を死者に捧げると、静かに語り始めた。クディックの長い髪が顔に垂れかかり、その表情は知れない。だが、声はあくまで低く落ち着き、深海の死の静けさを連想させた。
「すまない、リーテル──。君は、自分の生命を永らえるよりも、他人の命を救うことを選んだのだね。最期まで、他人の血は飲まず──。生きる為の糧を得ていれば、自らが命を落とすこともなかったろうに──。いや、下手に血族の仲間に入らず、人の間に居たならば、ニナの命と自分の命を引き換えにすることもなかったのだろうか──すべては、私の愚かさが呼んだ結果なのか──。ニナ、そう、生まれた仔はニナと名づけたよ。可愛らしい娘だ。ああ、娘が生まれると判っていれば、君を隔離する必要もなかったんだ──。私が愚かだったんだ──」
 クディックは両手で顔を覆っていたが、やがてゆっくりとその手を下ろすとその場に立ちあがった。墓場を一陣の風が撫でる。葉をつけていない死んだ樹が悲しみの声をあげたあと、クディックは言葉を続けた。
「ニナをその手に抱くことも出来なかった可愛想なリーテル。ニナはあの村に預けることに決めたよ、君が一度だけ立ち寄ってすぐに愛したあの村に。人の間で育つならば、私の血が目覚めることも無いだろう。能力は封印しておいた。我々の血族の長の力を借りてね。この力を解くのは同族でなければ不可能だ。余程の事が無い限り、ニナが血を欲することはあるまい。他の人間と異なる所は出てくるだろうが、血を欲しなければ平和の中に暮らしていけるだろう。娘の幸せを祈ってくれ、リーテル。そして、君の魂が居場所を見つけられることを私も祈っているよ──、いや──私にはその資格はないのだろうか──君から陽光を奪った私には──」
 クディックの声は咆哮に変わっていた。悲痛な慟哭は、その響き自身が血を流しているように錯覚させる。
「──人は死を迎えると、その魂は光の国に導かれるという。ならば、ヴァンパイアは、我々血族の魂はどこに行くのだろう。教えてくれ、リーテル、そして私を導いてくれ──、私を救ってくれ──」
 墓地に再び冷たい風が吹く。その風が止まったかと思うと、辺りに霧が立ち込め始めた。黒い、現世の光を反射しない雲が月を隠す。途端に、辺りの景色が目でとらえられなくなる。霧はいっそう深く、クディックと、そしてリーテルの眠る場所を捕らえた。闇はしばらくその中に紅い一点を残していたが、やがて月が完全に隠れると共にそれも消え、あたりは漆黒に包まれた──。

 浮上する。闇の中から。
 朝の、目覚めにも似た夢からの帰還は、自分が生きて居ることを実感させ、その喜びを私に味あわせた。意識が元通りに戻ってくると、ニナは目を閉じている自分を感じることが出来た。確かめるようにしながら貼りついた瞼を剥がして、頭の後ろのほうにかすかに感じる痛みをこらえながら、眠りから覚めたときに誰しもするように放心からの立ち直りのために意識を整えていると、夢に見たクディックの事が思い出されてきた。
 そうだ。ここは彼の部屋で、ニナは彼の言葉のまま、夢とも幻ともしれぬ意識のみの旅行をしていたのだ。今思えば、あれは時間を超えた旅行だったのだろうか。クディックと、そしてリーテルの悲しい記憶。ぼやけた焦点を合わせるように眼に軽く力を込めると、意識を飛ばす前に見た光景と変わらぬ部屋の眺めが戻ってきた。ニナの正面に置かれた椅子には、ブロンドの男が座っている。先の映像に出てきた、クディックだ。
 クディックは先と変わらぬ姿勢で、表情を失ったまま見詰めている。さっきは気付かなかったが、あの映像でみたときと変わらぬ格好をしている。ただ、今目の前にいる男の姿の方は、幾分服装も古びて色褪せており、全体的に疲れた印象が漂っていた。
「判ったろう、ニナ。この世にヴァンパイアは存在している。そして、君は私の実の娘という事が」
「私は家族と血が繋がっていないかもしれないと疑いはしたけれど──すぐにそんな話しを信じられないわ」
 クディックは椅子から立ちあがり、先程の机に向かうと、自分が何やら書きつけていた紙を手で弄んでいる。動作がゆっくりなのは、優雅であるというよりも先程の映像を見たおかげですごく老成したものに思えた。
「まったく、そういう所はリーテルにそっくりだな。私は、人間の遺伝という物は後天的に教育として受け継いでいく物だと信じていたのだが。血液内に記憶の情報などが含まれているのかもしれない。本当の意味で、リーテルは君の中に生きているという事か。ならば、人間とは我々よりも永遠の生命を持っていると呼ぶにふさわしいのかもな──」
「──何を言っているの」
「ああ、すまない。こちらの話だ。さて、夜明けも近い。私の本当の用件はこれからだ。最後まで聞いてもらうよ」
 クディックは再び眼を細め、ニナの心をすべて見透かすかのように顔を見詰めた。
「リーテルは、君の母親は最初私の愛人の1人だった。元々、我々には永遠の伴侶という者は存在し得ない。同じ眷族に招き入れてしまえば、どうしても主従関係になるからね。かといって、温血者の恋人はあまりにももろく、年老い、死んでしまう。リーテルはその内の一人でしかなかった。年老いて死んでしまえば次の恋人を見つける、というだけの仮初めの愛人だ。だから、心底愛するという事はないはずだった。もっとも、その時までに私は自分自身の愛情が枯渇しきっていると信じて疑わなかったよ。だが──」
「貴方はリーテルを愛したのね」
「きわめて人間らしい表現だな。そんな不確かな物ではないよ。ただ、それを表わす言葉を知らないから、否定はしないけれど」
「貴方が誇大妄想狂じゃないとしたら、とても信じる事の出来ない話だと思うわ。私にもまだ分別というものが残っていると思っているし。確かな事はあなたが私の父親である可能性がある、というだけね」
「とりあえずはそれで充分だ。君にはリーテルについて知って欲しかっただけさ。リーテルに対する私の想いとね」
 クディックはあと幾時もおかず陽が昇るであろう東の空を眺めながらゆっくりと話し始めた。
「いいかいニナ、私は今夜お前の封印を解いた。どういう意味か解るね」
 先のクディック自身の言葉を信じることにすれば、ニナはヴァンパイア同士の子供、と言うことになる。とすれば純粋なヴァンパイアの種族ということになるが、それを封印したことによって、人間と変わらぬ特徴を持っているのだという。ならば、その封印が解かれたとするならば、当然ながらヴァンパイアとしての血が目覚めるということになる。
私がヴァンパイアに──。そう心の中で繰り返して見ても、荒唐無稽な考えに実感は沸いてこない。
──馬鹿馬鹿しい。
 しばらく自分の立場を仮定してみた後、ニナは考えるのを止めた。しかし、自分が少なからず混乱させられている事にも気付いている。そのせいで、冷静な判断が出来ていないようだ。こんな時に、ルガースが傍らにいないことが本当に辛く思えた。
「あと10日程でお前の中に眠るヴァンパイアの血が完全に目覚めるだろう。これは仕方の無いことなのだ。──辛いだろうが諦めてもらおう。そういう『時』が来たのだ」

 そういう『時』?辛いだろうが?ヴァンパイアの血──?
 私は今のままで充分なのに──。
 そんなものは──、必要ない。

「ニナ、もし封印のかかったままその血が目覚めてしまうとお前の意識まで崩壊することになる。そうなったら最後、血を求めるただの獣と化すのだ。そんなものに──、自分の娘をそんな姿に変えたい者などいまい。たとえどんな種族だったとしても、だ。君はこれから徐々にヴァンパイアの血を現わしてくる。そして完全なる日を迎えるんだ」

──私が。
──ヴァンパイアに。

 クディックは窓に顔を向け、そのまま言葉を放った。
「ヴァンパイアの生は長い。我々は永遠に生き続ける。自分で望まない限り、死ぬことはない。いや、自分で望む事すら出来ないか──。永遠は──永い」
「私はヴァンパイアになるつもりはありません。突然そんな事を言われても──私は──私には」
「ルガース、とかいったか。それはお前の愛しい人か?」
 そう、ルガース。先程からニナの気にかかっていたのは恋人の事だった。もしも自分がヴァンパイアになってしまったら──?
 クディックは元の冷やかな目で再び睨むように見詰める。
「その者のことは諦めねばなるまい」
 薄々は感じていたけれど、今日初めて見た人物から告げられた出生の経緯。父さんと母さん、それと吸血鬼、ヴァンパイア。何よりも──ルガース。
極度の緊張状態と、想像を超えた不条理な状況に、ニナの精神は限界に達していた。
「そ、そんなことは貴方に言われる筋合いではないわ。それに、私にはヴァンパイアになるつもりはないし──大体そんなこと有り得る訳ないでしょう」

 このヴァンパイアが私の父親だなんて──そんなはず──。
 ニナは椅子代わりに腰掛けていた粗末なベッドから立ちあがり、おぼつかない足でクディックを横切ると、彼の背後にあるドアに向かった。クディックは慌てて椅子から身を起こし、ドアの方を振り返るが、ニナはその心配気に振舞うであろう男の顔も見る事に絶えられなかったので、背を向けてドアノブを握ったままつぶやいた。
「何よ──どうして私なの──。私はそんなものを望んだ訳ではないのに──」
 クディックは残念そうに声を詰まらせながら私の背中に向かって語り掛ける。
「育ての親は本当にお前に何も言わなかったのだな。いや、彼ら自身も知らなかったのかもしれない。ヴァンパイアと人の間に子が授かるなどとは私も想像もしなかった事だし、リーテルがヴァンパイアになった後、産まれた時もお前はまったく通常の赤ん坊と変わりはなかった。急に施した封印だったがそれでも人の間で育てれば眠る血も目覚めないと考えたのだが──。だが、だがな、ニナ!違うのだよ。私は知った。リーテルが身ごもったときは完全な人間だった。それが妊娠中にヴァンパイアに変わったとしても生まれてくるのは純粋なヴァンパイアではないんだ。封印をすると言うことは吸血鬼としての能力を封じるものなのだが、お前の場合は人としての特徴を前面に押し出しているに過ぎなかったのだ。人とヴァンパイアでは血の優劣が違い過ぎる。両親から均等に授かったとて、私の血はリーテルのものを凌駕してしまうのだよ。その血の干渉が何を呼ぶか。狂気と暴走だ──、判るな」
 ノブを握るニナの肩が震える。それは恐怖だったのか。それとも理不尽な吸血鬼に対する怒りだったのか。彼女自身にもそれは判じかねていた。
「判らないわよ、判らないわよ!あなたには判らないんでしょうね、人でないあなたには!そんな問題ではないのよ!」
 ニナは振り返ってクディックの目を睨んだ。その目には涙が光るのかと思われたが、ニナの両目に光るのは純粋な怒りであった。或いは義憤であったのかもしれない。
「あなたは奪ったのよ。理由はどうあれ、私の幸せを、そして私を育ててくれた父と母の──!」
「違う!それは違うニナ!わたしは、私は──」
 最後のセリフを聞かぬまま、ニナは部屋を飛び出していた。全身が震えるほどの怒りにかられたニナの頭の中には、逃げ出す素振りを見せることの危険性や、部屋の間取りの事などはまったく浮かんでこなかった。どこをどうして通り抜けたか判らなかったが、部屋にランプを置き忘れても道を走ることができたことからして、外はもう明るくなりかけていたのだろう。小屋を出て白んできた朝の道を歩き出しても、吸血鬼が追ってくる事はなかった。
 朝日を吸収した森は再び生命を取り戻し、それに呼応するように小鳥たちも囀りはじめる。木々の間を射し込む陽射しがいつもより眩しく感じられ、いつもなら気持ちいいと思えるこの風景に、今日に限ってニナは何故か嫌悪感を抱いた。
「何これ──気持ち悪い──何か──変だ」
 思わずそう呟いていた。小屋を出てから全力で走っており、直に呼吸を整えるため歩く速度を落としていたが、それすらも出来ず眼を一杯に開いたまま歩けない。
 クディックという男の話が本当なら、ニナの中の吸血鬼が覚醒するまであと十日。彼女が感じる嘔吐感、日光への不快感はその証拠だというのか。だとすれば、さっきのクディックの話は急に現実味を帯びてくる。ならばその間に、ニナは何らかの答えを出さなくてはならなくなる。人として死を迎えるのか、不死の血族の門を叩くのか。そのどちらの選択肢もが地獄への階段を登ることになっても。
 太陽はますますその意地悪な光線をニナに投げかけ、彼女の視力はほとんど奪われて前が思うように見えなくなっていた。それに連れて思考能力も落ちているのか思考はますます混乱を極め、吸血鬼の魂はどこにあるのか、そんなことをぼんやりと考えているうちにニナの足は自然と自らの家に向いていた。
 決して暑い季節ではなかったが、日差しがじりじり身体を焼くようで足取りも思うように進まない。ようやく深い森を抜け、湖に辿り着くころには太陽が真上近くまで昇っていた。森を抜け、日光を遮るものが無くなって光景は開放感にあふれたものになったのだが、それはニナにとって閉塞を意味していた。
 全身に日光を浴びたその時、心臓が激しく鼓動し、体中に激痛が走る。
 そのうえ突然睡魔が襲い、立っているのも辛い状態になってきた。
 急がないと──。ニナは即座にそう思い立ったのだが、果たしてそれはどのような経験から生み出されたものだったのか。それとも、彼女の中に生きる血の記憶が彼女の生命に警鐘を鳴らしたのか。ほとんど意識を失ったまま、ニナは自室にたどりついたらしく、気が付くと自分の寝室に横になっていた。
 自室に辿り着きはしたが、眠れるような心境ではなく、窓という窓のカーテンをすべて閉じた後、掛けた布で身体を包み隠してやっと落ち着くことができた。日光が差さない部屋の中は即席の暗闇を作り出しており、その暗闇がニナの心に安らぎを与えていた。これも吸血鬼の血が及ぼす効果なのかしら──。本来なら恐怖や嫌悪感を覚えて然るべき状況なのだが、それよりも今の彼女には睡眠を取りたいという欲望が勝っていた。ニナはそう思いながら、眠りにつけることに喜びを感じてしまっている。まだそんなに遅い時間でもなかったのだが──。その解答として、ニナは昨日一睡もできなかった事を考えた。しかし、徹夜をした経験が無い訳ではない。自分でも不味い解答のように感じられた──。

 トントントン。
 ニナは寝室のドアをノックする音で眠りから引き戻される。どうやらしばらく眠ってしまっていたようだった。カーテンの隙間から差しこんでいた明かりも今は無い。ノックを三回するのは、父親の癖だった。最近は、父親が娘の部屋に来る事は全くと言っていいほど無かったので、ニナにもそれは何かきっと大事な用が、それもあまり好ましくない用事があるに違いないと直感的に感じられた。
「入ってもいいか」
 ドア越しに父親が声を掛ける。どことなくうわずったその声に、ニナは何か秘密が隠されている事を確信する。
「いいわよ」
 ニナがそう言うと、父親はゆっくりとドアを開けて入ってきた。手に持った蝋燭が眩しく感じられ、ニナは一瞬光から目をそらした。どうやら眼が光に対して敏感になっているらしかった。目を細めたまま父の顔を見つめ返す。父親が蝋燭を手にしている事からも、時間の経過が感じられた。
「大丈夫か、ニナ。昼間帰って来た時のお前は普通じゃ無かったぞ」
 心配げにそう言う父親の顔には、蝋燭の赤い炎を受けても蒼ざめているのが判る。
「大丈夫よ」
 心配をかけまいとして、逆にぶっきらぼうな調子で答えてしまう。そっちの方が普段のニナらしい。そう言って顔から知られないようにニナは表情を消して振り向いた。
「ニナ──」
 父親はそういうとあからさまに恐怖の表情を浮かべ、後ずさった。
「お前──。やはりあの男に──」
「あの男って」
 ニナはまだ知らない顔を通した。クディックとかいう男の話しからしても、両親とは顔見知りである可能性は高いのだが、わざわざ説明することではないだろう。だが、長年ともに暮らしてきた強みか、娘のそんな素振りで誤魔化されるような父親ではなかった。
「隠さなくてもいい。お前の顔を見てみろ」
 ニナの部屋にはそれほど家具調度品は置いていなかった。元々ニナ自身に興味が無かったせいもあるが、家族の経済的な制約もある。彼女の父は村長をしているし、家庭が実際に貧困に苦しんでいる事はないのだが、かといって村内の窮状をつぶさに目の当たりにしているニナにとって、浪費家を気取って昔の貴族めいた暮らしをするつもりなど毛頭なかった。とはいえ最低限度の身繕いは欠かすことはできなかったので、それなりの家具はそろえてあり、部屋の隅に据えられた姿見もその一つだった。もっとも、この姿見もニナの母親が以前使っていたものだったのだが。
 父は、ニナの手を取り姿見の前に連れてくると、自分の顔を見るように手振りで指し示した。その真剣な表情に押された形でニナも鏡の中を覗きこむが、そこにはいつもと変わらない自分の顔が見詰め返しているだけだった。昨日極めて不規則な生活をしたせいで幾分顔色が悪い気はするが、それ以外は何も違って見えない。
「変なところなんてないわ」
「よくみてみろ。あいつと同じ呪われた所があるはずだ」
「あいつと同じ所──」
 ニナには一瞬その言葉の意味が判らず、鏡の中を覗きながら考えると、突然首筋に痛みを感じた。その痛みはつい1日前にも体験したものだ。そう、あの夢とも現実ともしれないまどろみの中で、首に感じた激しい痛み。
 あの時は耐えられないほどの眠気に身体が拒否することを忘れていたが、普段の状態ならば気絶するかもしれないという痛みであったのはずだ。しかし、現在の痛みはそれほどでもなく、むしろ心地よいものに感じられた。そして、痛みと共にあのまどろみの中の感覚が戻ってくる。首筋にかかる生温かい息。それに対して冷たい歯が当たる。その接触点が二つと少ないところから、触れている者の歯が特殊な形状をしていることが想像される。まるで犬歯のような、そう、上顎から突出した狼の牙のような。その2本の牙が首筋に突き刺さる。
 思い返しただけでニナには苦痛が蘇った。反射的に顔を歪め、痛みの表情を作ったニナは、鏡の中の自分の姿がかつての自分と違っている点を見つけた。首筋に感じた痛み、それを引き起こした正体を。そして、自分の上顎の、長く目立った犬歯。眼に映るそれは、人間の物とはかけ離れて長く、また鋭く尖っていた。
 息を呑んでいたのも束の間で、次の瞬間には別の欲望が起こっていた。不思議とそれに驚く時間は多くを必要としなかった。それよりも、本能的にそれを試したいという気持ちに駆られていたのだ。ニナは、鏡の中の自分が笑いをこらえた様な表情になるのに気付く。それは泣き笑いとも取れたのだが、ニナ本人はどちらの感情も持ってはおらず、むしろ無感動にその表情を見つめていただけだった。鏡の中の私の後ろに立つ彼女の人間の父親は、ただ怯えるしか自分の身を守る術を持っていない、哀れな存在に思えていた。

 ふいに体の内から湧いてくる衝動。
 懐かしいというよりもっと古い、自分がまだ生まれる前から存在していたかのような原初の胎動。
──殺意。
そうも言えるかもしれない。だが、その時のニナは最もそれに適した言葉を見つけ出していた。そう、狩りの時間なんだ。ニナの眼には父が、血液の詰まったただの柔らかい腸詰めのようにしか映っていなかった。
 それもヴァンパイアの血がさせる事なのだろうか。男の言うように、元の私は駆逐されてしまうのか。そう考えた途端にニナに理性が戻ってくる。彼女は荒々しく父を突き飛ばし、彼が部屋の壁にしたたか打ち付けられるのを見るか見ないかのうちに家を飛び出していた。

──外は真の暗闇。
 しかし、ニナはそこについ昨日まで覚えていたような恐怖を見出す事は無く、むしろ自分の獣性の開放感に酔い痴れていた。人間としての心が弱くなっていることにも、悲しみを感じることはなかった。体の奥から力が無尽蔵に湧いてくる。今ならば花を摘むよりも簡単に人の命を奪うことができるだろう。
──だが。
 再び失われていた理性が戻り、冷たい風が身体を冷やす。何の考えも無しに、家を飛び出してはみたが、かといってどこに行くあてもない。しかし、自分の父親とあのクディックという男との間には何らかの関係があるらしく、こんな事になってしまった今、父には言い訳をすることもできない。それよりももっと切実な問題で、父親に対して芽生えた殺意をどうしたらいいというのか。考えがますます混乱する中、ニナは昨日の夜に自分が考えていたことを再び思い出した。
 とりあえず、ルガースの元へ行かなければならない。昨日自分が行方をくらました事で彼には相当心配をかけたはずで、あのクディックとかいう男の話を打ち明ける訳にはいかないが、何らかの理由を説明しない事にはいけない。普段歩きなれた道を通っていたのでその時は気付かなかったが、ニナは月の隠れた夜であるにもかかわらず、その手に明かりも持たずに木々の間を疾走していた。
 青く塗られたドアの前に立つ。窓からは部屋の明かりがもれており、家の人がまだ起きていることを示している。部屋の中からは少し笑い声が聞こえている。ルガースと、ルガースの母親が話しているのだろう。そこまでルガースに逢いたい一心で走ってきたが、いざドアの前に立つと躊躇が先に出る。
 まずはルガースに黙って待ち合わせの約束を破ってしまった事。たとえそれが突然の事故のようなものだったとしても、深夜に見知らぬ男性と、それが自称私の父であるとしても、村の中の人間でないことと、外見の若さからそんな話は信じられないことだろう。ルガースは許してくれるかもしれないけど、彼の優しさを利用するような行為は、あまり誠実であるとは思えなかった。加えて、クディックの話した、自分に吸血鬼の血が流れているという言葉も気にかかっていた。ルガースに、クディックについて聞かれたらどう話したら良いか思いつかない。まさか吸血鬼だと説明するわけにもいかず、ニナは失踪の言い訳を一所懸命考えて、それは数十にものぼっていた。しかし、いくら夜が深くないとはいえ扉の前にずっと立ち止っている訳にもいかず、ニナは意を決してルガースの家のドアをノックした。
「どちらさまですか」
 家に入ってすぐの居間にいたのか、部屋の住人の応えは早かった。彼の家にはルガースとお母さんの二人しか住んでいないので、男性の声であればルガースと判る。もっとも、ルガースの声を聞いてニナが判らないはずがなかったのだが。一旦その声を聞くと、今すぐにでも扉を開けてルガースに逢いたい衝動に駆られた。まるで、さっきまで彼を避けるように考えていたのが嘘のように思えた。
「だれ?」
 彼への想いと、今の自身に対する戸惑いが交じって次の言葉を出しあぐねていると、ふいに扉が開いた。中からルガースが顔を出す。
「ニナ!」
 いつもと変わらないルガース。いや、今日はかなり心配をしていたのか、少し憔悴していた。ニナはとっさに彼の言葉に応える事ができず、ただ眼を見開くばかりだった。
「ニナ──」
 彼に会ったら話そうと決めていた挨拶や言い訳も、その懐かしいとも思える顔を見た途端にすべて忘れてしまった。何かを話そうとしても話せず、途方に暮れていたニナを、ルガースは中に招き入れた。奥から、ルガースの母親が顔を出す。ニナが少し挨拶をすると、昨日の婚約の話しをルガースからある程度聞いていたのか、にっこり笑って奥の部屋に姿を消した。ルガースはそちらに眼をやると、ニナを自分の部屋に導いた。
 ルガースの部屋には机があったが、1人分の椅子しかない為にニナと2人で話すときにはベッドに腰掛けるのが常だった。そこで、ニナは自分の特等席に腰を下ろす。ルガースはゆっくりと横に座ろうとしたが腰をあげて、何か飲むものを持ってこようかと尋ねたが、ニナは黙って彼の袖を引き彼を制した。ルガースは息を継ぐと、苦笑いを浮かべたような顔で再びニナの横に座った。
「ルガース、私──」
 ニナは思いきって打ち明けようとしたが、その声は震えており後が続かなかった。次の言葉が生み出される雰囲気は起きず、ただ沈黙を過ごすのかとニナがみじめな気持ちになりかけたとき、ルガースは静かにつぶやいた。
「いいさ」
「な──何を?」
「ニナが無事なら別に構わない。何か事情があったんだろうけど、言いにくいなら気が向いたときでいいよ」
 ルガースの言葉に、胸の中に何か渦のような甘いものがこみ上げる。それは以前のニナだったらきっと、涙に変えて外に放出していたことだろう。でも今は、ただ下をうつむいて黙っているしかできなかった。ルガースも彼女が泣いていると思ったのか、眼の下に指で触れるが、そこにあるはずの涙は顔を濡らしてはいなかった。
 彼の厚意に真面目なきもちで感謝をしながら、ニナは目を閉じ、彼の言葉に応える代わりに頭を彼の肩に持たせかけた。目を閉じて意識を集中すると、彼の姿が視界の端に捉えられる。それは、記憶が生み出す想像の姿ではなくて、彼の生気が形になって目に映ったのだ。ニナの身体の中で、何かが変わり始めていると言う事なのだろう。だが、彼の横でその暖かい気を感じることで、抱えている様々の不安はすべて取り除かれていくようだった。以前からその温かみには周りの人間を安心させる何かがあったのだが、ニナが変化し始めた身体で父親を見た時の印象とは違って、彼の生命力は眩しすぎるくらいに感じられた。

 ああ、この人は生きているんだ。あらためてそれを感じていた。
 おそらく他の誰を見てもこれほど生命の輝きを感じることは無かっただろう。それにしても、ルガースだけが特別に見えるのは、何ゆえだったのだろう。クディックが告げたタイムリミットも、実の母の事も、今はニナにとっては重要ではなくなっていた。彼の横にいられるのならば、このまま命を落としてしまってもいい、そう考え始めていた。
 寝静まった村の中で、2人の部屋は言葉1つも生まれないまま長い夜を過ごそうとしていた。

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