「何がニナを引き止める」

第1部 死体泥棒

──ある墓地で何かに取り憑かれた様に墓を掘り返す男がいた。
 辺りには人影が無く、男のスコップの音と荒い息づかいしか聞こえない。
 男がふと空を見上げると真冬の夜空に明るい月が白い光を放っている。

「真逆ね──」

 男は一抹の不安と希望を込めて再び掘り始めた。
──それが、永久に続く彼の闇の生の始まりになろうとは、思いもよらなかったに違いない。

 スコップの先端が硬い物に触れ、カキンと金属音を発した。男の心臓は破裂しそうなほど速く鼓動し、その表情は酷く険しくなった。
「ニナ──」
 男はほとんど誰の耳にも聞こえないほど小さく低い声を発した。次の瞬間には手に持っていたスコップを投げ出し、膝を付いて自分の手で土を掘り返した。事のほか土は柔らかく、簡単に掘り返す事が出来た。
 凍てつく寒空の元、凍える手も止めず、一心不乱に土を掘り返す彼の脳裏をある思い出がかすめた──生涯忘れる事は出来ないであろう、辛い過去が──。

 いや、これは過去ではないのかもしれない──彼自身にも判らないのだ。
 本当なら夢であってほしい、ただそれだけははっきりと言えた──。

 不安は確信に変わっていた。希望は絶望がとって代わろうとしていた。いや、その時点ではすべてが霧の中だったといえるだろう。男の額からは先程から冷たい汗が絶え間無く流れていた。その汗が掘り返す行動から出たものではない事は確かだった。ましてや、気候のせいでも。
 この蓋を開けなければ、絶望は希望のままでいられるかもしれない。
 このまま家に帰れば、残りの人生を平和に、幸せに送る事ができるかもしれない。だがもはや、そんな考えも彼にとっては無意味だった。
 己の人生すべてを賭けて愛した者の居なくなった今では。

 月が、雲に隠れた。
 今から起こる凶事から目を背けでもしたかのように。
 男は、静かに棺の蓋に手を掛け、ふと思い出した。蓋に掛けた手を思考が拒む。

──最近、連続殺人事件が街を騒がしており、もう幾人もの犠牲者が出ている。現在の時点で、新聞には十四人と書かれていた。とてつもない勢いでみな殺られている。十五人目も、もう既に手に掛かっているのかもしれない。

 十三人目が自分の愛しい人だとは思いもよらなかった。

──発見は失踪から一ヶ月程だった。その美しいプラチナブロンドの髪も、透けるような肌も変わりなかったが、一縷の望みも空しく冷たい身体での対面となった。彼女を見た瞬間、何故か嫌な予感がよぎった。死因が不明だったというのもそうだが、首筋に見た事の無い傷痕があったからかもしれない。

 自分が今、こんな所にいるのは「予感」を確かめたいからなのか、それとも──

──それより目の前の棺に集中するか。

 元々腕力には自信がある方だったので、棺に打ち込まれた釘を取り除く作業にはさして苦労はしなかった。棺の蓋を釘で打ち付ける習慣。埋葬する地方ならば当たり前の事だが、過去に幾度も繰り返されてきた行為に対して疑念がよぎる。これは棺の中の死者に誰かが悪戯をしないように接触を断っているのか、それとも──死者が現世に戻ってくるのを妨げる為なのか。いや、どちらであろうと構うまい。
 力を込めて棺の蓋を握り締める。彼の顔からはもはや恐怖や迷いは消えていた。早く彼女に会いたい。行方知れずとなった彼女を捜し求めたこの1ヶ月間は永遠に続くのかとも思えた。思えば、ただこの瞬間をのみ待ち続けていたのかもしれない。
 ろくに食事も取れずやせ細った彼は、冷たい土の上に膝まづき、先刻から自分の手で掘り返していた為に泥にまみれており、その泥はこけた頬を覆う伸び切った髭にこびりついていた。
 辺りが暗いのでよくは判らなかったが、指先には細かい傷がついてしまったようだ。月明かりに照らして見てみると、左手の薬指がキラリと光った。
彼女との楽しかった日々が脳裏に浮かぶ。こんな形で再会する事になろうとは──
 一気に蓋を開け、中を覗き込む。そこに恋人の姿を見た刹那、我知らず両目から熱いものが流れて落ちた。眼前の姿を霞ませるそれを汚れた手で拭うと、彼の口からは叫びが、いや、他に聞いているものがあったならうめき声に思えたであろう物がこぼれた。

「ああ──」

 彼の悲痛な、しかし掠れて余りにも小さな叫びは、それでも人気の無い墓地の中では重く響いた。棺の中には横たわる恋人の姿があった。生前と何も変わっていない彼女の身体は、彼女が死んでから1週間経った今でもまったく腐敗が進んでおらず、あくまでも美しい。失踪の直前、彼女にプロポーズを告げた晩、彼に愛していると応えた姿が重なって見える。
 彼女の白く透き通る肌に優しく手を触れ、愛らしい唇にキスをしたかった。あの晩愛し合ったように彼女を抱きしめたかった。
 彼女との死別、もうそんな現実は無意味に思える。左手に自ら身に付けているものと同じ指輪の感触を確かめながら、右手を無意識の内に彼女の頬へと伸ばす。彼の記憶の中よりも、やや蒼白く見えるその頬に手が触れたと思った瞬間、彼は小さく悲鳴をあげ反射的に後方に跳びすさった。何か手応えのあるものにすがる思いで、左手の指輪をきつく握り締める。
 無意味に思えていた現実が、自分の中に大きな位置を占めていた事がまざまざと知らされる。

「ニナ──生きているのか?」

 彼女の肌は弾力にあふれ、頬は生者の如く温かみを帯びていた。温かいというよりも、氷のように冷え切った男の手にはむしろ熱く感じられた。生前手をとった時よりもはるかに──。


 殺人事件に関しては首都から派遣されてきた警察もまったく手掛かりをつかめていなかった。警察が首都から派遣されたのはその事件が国全体を揺るがすような大きいものだった訳ではなく、村の中にははっきりした警察組織が形成されていないというだけである。
 通常、村の中で何か犯罪が起きたとしても、村人同士はお互いに十分顔と素性を知っている訳だから、その犯罪者の周りの人物が責任を持って事に当たる為、わざわざ国の法律に照らしあわせなくても村自体の掟があれば事が足りていたのだった。それに、外から村へ新参者が入って来ればどうしたって目立ってしまう。それゆえに、犯罪自体が起きにくい土壌が築き上げられていたのだ。にもかかわらず、犠牲者は一向に減らず、容疑者の特定も出来ていなかった。
 村人にとっては遺憾な事ではあったが、村内の者が犯罪に関わっている可能性が最も高かった。
 ニナ以外の犠牲者は不思議な事に皆村外れなどに住んでおり、他の村民と接触を持たないような身寄りの無い浮浪者や漂流民ばかりであったので、殺人者の目的はニナ1人で、他の者はその目的を隠す為に殺されたのだという噂もまことしやかに流れた。
 しかし、村長の考えは違っていた。すなわち、村に伝わる中世暗黒時代の方法で解決しようというものだった。死者が蘇って生者に仇をなす、食い止める為には死者の墓を暴き、首をはね、火葬に付す。
 それを考えただけで私には耐えられなかった。美しいニナ。あと数ヶ月後であったならば、自分の家族として墓に入っただろうニナの身体を、死者を冒涜するように扱うとは。
 その夜、私が墓場に赴いたのはとりたてて計画が有った訳でもなかった。或いはそのように自分に対して口実を作り、もう一度ニナの姿を見たいだけだったのかもしれない。

──汗はいつしか乾ききっていた。ゆっくりとニナの元に戻って、もう一度頬に触れてみる。熱い。しかしこの熱さは、きっと土中の成分か何かが発酵して温度を保っているのだろう。だが、私にとってはその温かみが恋人の生きている証であるように思えて仕方がなかった。気がつくとそっと恋人の身体を抱き、かつて愛した、そして今も愛し続けている婚約者の頬に自分の顔を寄せていた。彼女の白い頬に涙が零れ落ちる。私の目からとめどなく溢れる涙が。

「──誰だ?そこにいるのは?──ルガース?貴様、ニナの!」
 突然、激昂した声が聞こえた。張りのあるバリトンには聞き覚えがある。ジョシュア。
「何をしている──!」
ニナの体を抱いたまま、わたしはゆっくりと振り向いた。ジョシュアがこちらに向けた懐中電灯の灯かりが眩しい。
「まさか──お前が殺したのか?お前が犯人だったのか──?なにか、証拠を消しに──?」
 ジョシュアはこちらを伺いながら、恐る恐る近づいてくる。
 ジョシュアの姿が近づく。
 駄目だ。
 奴の汚れた手にニナを触れさせる訳にはいかない。

 私は無意識の内に走り始めていた。手には婚約者の身体を抱いたまま。まるで花嫁をさらう悪鬼の様に。
 墓地の中を真っ直ぐに抜け、隣接する森の中へと駆け込む。長い間灯の外で目を慣らしていた私を追うジョシュアは、懐中電灯に頼るしかなく、暗闇に紛れる私を機敏に追う事が出来なかった。後ろの方で怒号が聞こえる。額には再び汗が浮かんできた。汗が体にこびりついた泥を流し、肌に白い縦縞を作るのが判る。

「──ルガース」

 どれくらい走ったのだろう。私は周りを見渡した。村の境にある広く大きな森。たとえ今いる場所がその入り口だと言っても、人が深夜に徘徊できるような場所ではない。両腕に抱いたニナに目を向けると、かすかに唇が動き、

「──ねえ、寒いわ──。それに、とてもお腹が空いたの──」

 それはニナが最初に口にした言葉だった。
 初めは聞き間違ったのかと思った。

「それに──とても──」

 目の焦点が合わない。幻聴が聞こえているのかもしれない。口が開いたように見えたのも、走っていて身体が揺れた事から起こっただけに違いない。気が付くと、足は止まっていた。そこから一歩も動ける自信はなかった。その場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、今自分が置かれている状況を理解しようと努めた。しかし、現実は、私が対応するよりも早くその表情を変えてゆく。

「とても──何だい?ニナ」

 ピエロの泣き笑いの様な表情で、それだけ聞いてみる。しかし、それだけで自分の立場が非現実的なものに変わった事に、私は気付く余裕も無かった。
 ニナの手は母親にすがり付く嬰児の様に私の肩を抑える。もう1人で大丈夫、とでも言うかの様に。私がそっとニナを身体を地面に降ろすと、驚くべき事にニナの足は自らの力でその体を支えた。ニナは試すようにしながら立ち上がると、それまで閉じていた両目を開いて私を正面から見詰めた。ニナは生前同様、いや生前以上に澄んだ瞳をしている。私が声を掛けようとした瞬間にニナは経帷子を翻し静かに歩き出した。

「ここは危険だわ──私に付いて来て」

 遠くに複数の男の声が聞こえる。中でもひときわ大声を張り上げているのはジョシュアだ。村に戻って助けを呼んで我々を探しているのか。ニナの後ろ姿を見ながら、私たちは森の奥へと導かれていく。

 今日は月明かりが見えないだけ星が綺麗に輝く。空気中の水分が少ないせいで、星はさらさらと音をたてるように瞬いていた。
 ニナとこの森を共に歩いたのはいつだったか。ついこの間の筈なのにひどく久し振りの様な気がする。ニナの姿は水面に浮く木の葉のように自然に、そしてかなりの速度を保ちつつ進んでいく。私は見失わない様に、黙々と後を付いていった。
 村の境に大きく広がる森の中、この先には湖があったはずだ。ニナとよく来る所なのでこの辺りで迷う事はあるまい。だが、そんな不安よりもニナの足が速い事に疲れを感じ始めていた。

「そろそろ休まないか」

 その時既に緊張感と両足の疲労に耐えられなくなっており、無意識の内に後ろからニナに声を掛けていた。それほどあせらずとも、多分ここまで来たら、ジョシュア達にも簡単に知れる事はあるまい。それに、一月ぶりに見た恋人の顔を、そして声を、ゆっくり聞きたかった。

「──お腹が空いてたんだっけ。木の実だったら採れるけど──二ナが好きな実は、どれだったっけ」

 空腹だからといっていつでも木の実を食べている訳ではないが、この寒さと疲れから、木の実くらいの簡単なものが適当だろうと考えたのだ。私自身は何も口にする余裕はなかった。いや、自分が空腹であるかどうかすら判断できない。目線の上に枝がある木に近づいてゆき、振り返ってニナに声を掛ける。

「まだ──寒い?」

 かなり早足で歩いていた為、この寒い中に汗までかいていた。そのおかげで、すっかり二ナの方の寒さを忘れていた。あわてて自分の汚れた上着を脱ぎ、ニナに掛けてあげようと振り返ると、湖の傍で先を急ぐように彼方を見詰めていた二ナが、何時の間にか自分の真後ろに立っていた。いつでも間近に見ているはずの瞳は何故か鬼気を帯びた印象を与え、そのせいか思わず息をのみとっさに話す事ができない。ニナは何も言わず、静かに微笑んでいる。

「──驚いた、振り返ったらこんな美人がいるなんて」

 内心の動揺を隠すために放った冗談は、その動揺を深刻なものに変えただけでその場に冷たく漂う。

「ありがとう、ルガース。でも、わたし、木の実はいらないわ」
「木の実は、って、ここには、他に何もないけど?」

 途端、会話が途切れた。気まずいような沈黙が、重くのしかかる。ふと、ニナが顔を近づける。息も掛かりそうなほどの距離ではあったが、ニナは緊張していないのか、呼吸が荒く聞こえる事も無い。むしろ、呼吸をしてないのではないかと思える静かさだ。二ナは、キスを求めたのかと思えばさにあらず、私の肩に顔をうずめると、指先で首を撫で、耳の後ろに両手を回していた。

──何かが違う。

 そう思った瞬間、二ナの唇が首を舐め、軽く吸い付いた。そのまま、少し尖った犬歯でそっと噛む。

「うわっ」
「ああ」

 二人の声はほぼ同時だった。
 自分の声はむしろ悲鳴に近かった。予想もしなかった事だが、ニナが噛み付いた時に肉を食い破ったのだ。痛さよりも、思いもよらない突発的な行動による衝撃の方が大きかった。当の二ナは、うろたえて何か口走っている。

「同じ匂いがする──でも、この血は──飲めない──」

 何かまだどこか具合が良くないのだろうか。意識が混濁している様にも思える。考えてみれば、一ヶ月の間も土中に閉じ込められていたのだから、体に支障をきたさない方がおかしいのかもしれない。しかし、それにしてもおかしな行動が多すぎる。これが埋められていた弊害で体調が万全でないというのなら、早く元の体に戻してやらねばなるまい。

 だが、今ニナが放った言葉、気にならないといえば嘘になる。一体、どういう意味なのだろうか。血が飲めない、とは。同じ匂いとは、血に匂いが有るというのだろうか。私は父親が生まれたときから居なかった。血に特別な部分があるとしたら、半分流れているその父のものが特別だとも考えられるが、今では判るはずも無い。それに、「血を飲む」という言葉自体が異常である。ふと、幼い頃見た若い母の顔を思い出した。異常なまでに悪魔の迷信にこだわって、不浄の者達を近づけないという、真っ赤なパンを食べさせられたっけ。

──不浄の者?
 それが今ニナが跳んで離れた理由なのだろうか。いや、あれは迷信だ。たとえ実際に効力があったとしても、断じて二ナは不浄の者ではない。

 さっき噛み付かれた時には、キスした時に何か苦痛があって、思わず歯に力が篭ったのかとも思ったが、本当は最初から喉を噛み切る事が目的で近づいたのではなかったのか?そして、自分の血を啜ろうとしたのではなかったか?
 吸血鬼だとでもいうのか。愚かな考えだ──

 可哀想なニナ。苦しそうにうずくまって震えてしまっている。早く元気にしてやりたい。そして、陽光の元で再びこの場所を二人で走ろう。そう考えながらふと夜空を見上げているとため息が出た。
──自分たちが村を離れてもう数時間が経とうとしている。
村では大騒ぎになっていることだろう。何せ墓場から遺体を奪って逃げてきたのだから。
 だが、私のニナはここにいる。
 ここに生きているではないか。
 かわいそうに、急激な状況の変化か、すっかり脅えているニナに何と言ってやればいいのか。

「ニナ──」

 ニナはゆっくりこちらを振り向いた。湖の周りにはほとんど明かりはなかったが不思議と星の光だけで事足りる。その時、ニナの目が銀色に輝いていることに気付いた。ニナの瞳は、自分や村の皆のそれとは違う深い海のブルーではなかったか。いや、これは星の光がなせる錯覚なのだろう。

 それとも、私の記憶が錯覚なのだろうか。
 木漏れ日の中を走るニナの姿も、あれも錯覚だったのかもしれない。

 とにかく、一刻も早くここを離れなくては。原因はどうあれ、古い慣習の根強く残る故郷の村では、一旦死んだ者が生き返るなどあってはならない事なのだ。

「行こうか、ニナ──」
「ええ──ルガース」

 私はすっかり冷たくなったニナの手をとって立たせ、森の奥へ再び歩き始めた。

 森を進むにつれ、木々の枝は幾重にも重なり合い、いつしか二人の唯一の道標でもある星の明かりを遮断していた。もう私にはほとんど何も見えていない。始めはニナを先導して森を走っていたが、いつしかニナに手を引かれる形で奥へと進んでいる。

「もう少し行くと、山小屋があるわ。そこで休みましょう」

 ニナの言葉にふと疑問を感じた。ニナは昔からどちらかといえば外に出たがらないほうだった。森に遊びに来た時でも、ルガースが誘う事がほとんどで、一人で森に入るなど尚更あり得ない。もちろん、昼間であっても場所としてはいくらかの危険が伴うため、それが普通なのだが。
 ニナがこんなに暗い中を平気で進む事が出来るうえに、大人でもめったに足を踏み入れないこんな山奥に山小屋がある事まで知っているとは。先刻からあまりにも不可解な事が多すぎる。そう考えると不信感は加速度的に高まってくる。

「ニナ、いったいどうしたっていうんだ。何があったっていうんだ!」

 自分の激情が抑え切れず叫んでみたが、その瞬間、自分を見詰めているニナの瞳に気づいてにわかに自己嫌悪を覚えた。しかし、それで自分の不信感が払拭できるはずもなく、闇の中唯一の道しるべだったニナの手を振り解き、そのきゃしゃな肩を力強く揺さぶった。その行動に少し戸惑いながらもニナは冷静に答えた。

「まず休めるところへ行きましょう。そこで何もかも話すわ」

 是が非でもそこへ行かなければ済まない様だ。ニナの後に付いて暫く歩くとニナは前方を指差したが目の前には暗闇しかない。私がすがるような視線を彼女に送ると、ニナは少し微笑を浮かべ私に付いてくるようにと言った。そんな事を言われなくとも付いて行くしか方法はあるまい。

 それに──とにかく全ては山小屋に付いてからなのか。

 確かに山小屋はあった。いくら暗闇といえども近づくほどにその姿は見えてくる。あれかと目を凝らして見るとかなり朽ちているようだ。今は使われていないのだろう。
 だがいったい何のために、誰がこんな所に山小屋を建てたのだろう?
 この辺りの村は狩猟だけで暮らしているわけではなく、家畜もいるし農耕もしている。山小屋を必要とするほど遠出をしなければならない村と交流があるとは思えない。

──何だか解らない事ばかりだ。

 山小屋へと近づくにつれ、疑念から解放されるだろうという期待や、純粋な好奇心といったものはなりを潜め、恐怖感が体を支配してくる。私は今一度自分に言い聞かせるように手足に力を込めて、拒否をしめす体を引っ張るようにそばに立った。

 既にニナは戸口に立っており、軋むドアを引き開けている。

 その不吉めいた音に思わず躊躇する。近づくほどに生理的な嫌悪感を全身で感じていたがドアの前に立ってその感じが更に高まった。しかしどんな事が待っていようとも入るしかないのも解っている。もはや村へは帰れまい。
 ゆくゆくは隣村に抜けてどこか離れたところでニナと暮らすのだろうが、森を一晩で歩いて抜けるのは不可能だ。今夜はここで寝るという事なのだろう。ここならばジョシュア達には見つかりにくいだろうし、私自身も知らないような所なのだから村の誰も訪ねてくる事はあるまい、理性の外から忍び寄ってくる恐怖感にそう言い聞かせながら、小屋の開いたままの扉の奥に広がる更なる暗闇に身を躍らせた。

 村ではジョシュアを先頭に村の男たちが総出で死体泥棒を探していた。彼らの手にはライフルが握られている。いつでも発砲できるよう弾が込められ、安全装置も解除されていた。
 この地方では狩猟も生活に欠かせない食料調達の手段となっていたので、ほとんどの家が必ずといっていいほど銃を所持していた。また最近は、闇にまぎれ餓えた狼が家畜を襲いに来る事件も起こっていたので新しく銃を持つ家も珍しくはなかった。

「見つけたらルガースを殺してもかまわん!だがニナだけは必ず取り戻せ!」

 ジョシュアが怒りに震えた声で叫ぶと、その声は静かな暗い森に響き渡った。
村の男たちは一連の不審な連続殺人事件の為に苛立っていたらしくその言葉にかなり興奮した様子をみせた。
 ジョシュアは一通り村の若い衆に指示を終えると、村役場に近く、周りの家の高さから比べてひときわ大きな事が目立つ建物に入っていった。ほとんどの家が灯かりを消して寝静まった深夜、その建物にはまだ煌々と明かりが点っていた。
 苛だたしく机の上に猟銃を放り出し、引き出しの中から狩猟用のボウイ・ナイフを取り出して腰のベルトに取りつけようとしているジョシュアに、後ろから近寄る影が有った。
「親父──か」
「ジョシュア、一体何が気に入らんのだ」

 村長が半ば呆れたような口調で息子を非難すると、ジョシュアの顔に朱が走った。

「親父、あいつはニナの死体を盗んでいったんだぜ?」
「だからどうした。死体が一つ消えたくらい問題ではない。みなの眠りを妨げてまで取り戻す必要の有る事かと言っておるんだ!」
「親父──!?」
「村長と呼べ」

 村の中でも唯一といえるくらい近代的な建物だったが、建てられてから年数が経っているのか、石油ストーブを使わなければ凍えてしまいそうに部屋は冷えていた。あと2、3時間で夜明け、という深夜であって、季節を考えれば仕方の無い事かもしれない。

「息子よ。それよりもむしろ問題なのは村の中に殺人犯が居るという事だ。これは、村人の相互の信頼を崩す無視できないもの。一旦信頼関係が崩れたらあらゆる共同作業に支障をきたして村は衰退する。それならあの男がいなくなってくれるほうがずっと都合はいい。追放したのと同じ事なのだからな。どの道、ニナの死体は掘り返して火葬し直す予定だったのだしな」
「今時吸血鬼かよ。馬鹿馬鹿しい」
「重要なのは吸血鬼が居るか居ないかではない。村のものが信じているかいないかだよ。それに、ニナがどこぞから得体の知れん疫病を持ってきたという可能性もある。一緒に消えてくれたのは幸いだな」
「とにかく、俺はあの男を追う。見つけ出してニナを取り返す。生きている時にも横からかっさらっていったやつだ。死んだ後まで同じ事をするのは許せねえ」
「事を荒立てるんじゃない。この事が公になれば観光での収入にも影響するだろう。死体に欲情するような変態1人に関わってわしに迷惑をかけんでくれ」
「何を言っているんだ、親父!血は繋がっていなくてもあんたの娘だろう?それにやつは俺の目の前でニナを持っていったんだぞ!黙っていられるか!村の若い衆に助けてもらってあの男を連れ戻して八つ裂きにしてやる!」

 ジョシュアはそう言って机の上からひったくるように猟銃を取り上げると空いた手で荒々しくドアを開け、深い闇に飛び込んでいった。

「ジョシュア、おい!──まったく、愚か者が──」

 まだ近代化されきっていない村の闇は深い。村長が明かりを消すと、周りは真の闇に包まれた。


 森の中は暗く、それでも星が出ていたので少しは目の助けになっていたのだが、ニナが山小屋の扉を開けた瞬間、そこに真の暗闇が広がった。山小屋の中は外よりも暗い。誰も使っていないような小屋なので明かりがないのはもちろんだったが、窓すら取り付けられていないようだ。もしくは、長く使わないために閉ざされているだけなのかもしれないが。
 山小屋の中には光とともに音もない。ニナの気配は感じられず、自分の息遣いが荒く聞こえるほどだった。その静寂を破ってニナがつぶやく。

「私の事、愛してる?」

 その言葉は明るい陽光の元で何度か聞いたことがある。それに対する答はいつも決まっていた。しかし、今はその答を発する時に刹那の躊躇を要した。彼女の言葉が、それまでと違って邪悪な響きを持っているように思えたからだ。あるいは、森の中に潜む魔力がそれを感じさせたのかもしれない。私は自分を恥じ、ニナに応えた。

「ああ、愛しているよ」
「──私が何であってもずっと愛してくれる?」

 その先のニナの答は予想を反したものであった。いつもならばすぐにニナを抱きしめるはずだが、咄嗟に返答が出来ず、体はこわばって前にすすめない。ニナは答を促すかのように一歩近づいた。暗闇の中にニナの白い顔が浮かぶ。

「応えてくれないの──」

 ニナの目が銀色に光ったような気がした。私はそれを涙と思い、それが歓喜のものでないことは容易に想像できたので、次の瞬間には即座に答えていた。

「何言ってるんだ、ずっと一緒に決まっているじゃないか」
「本当に?」
「本当だとも」

 普通の恋人同志であれば、何と言うことはない、ありきたりの会話だろう。また、特別な場合であっても、陽光の元であればその言葉は祝福されたのだろう。だが、我々の場合はそのどちらでもなかった。私がその後の運命を知っていたら、もう一度考えてから答えたのだろう。この言葉がその分岐点だったかもしれない。いや、それでも答えは変わらなかったのか。ともかく私はただ、恋人に再会できた興奮から彼女を受け入れることしか頭にはなかった。が、ニナは私の胸に飛び込むことはせず、手を腰の辺りに下ろして言った。

「ここは今のあなたじゃ暗すぎるわね」

 ニナの顔に微笑みが浮かんだかに見えたため、特殊な状況に置かれた緊張感をなくそうと、精一杯のおどけた口調で言葉を続ける。

「本当だ。これじゃ君の綺麗な顔を見ることもできない」
「少し待ってて。ランプをもってくるわ。暖炉があるからそれを使いましょう」

 その言葉からすれば、ニナがここに来るのは初めてではないようだ。でも一体なぜ?ここは誰の家なのだ?誰に招かれて来たのか、少なくとも私の知っている人物の中には心当たりはなかった。黒一色に染められた部屋に唯一色彩を与えていたニナの経帷子が部屋の奥へ消えると、再び真の暗闇が襲ってくる。漆黒の沈黙。眠りの冬も近く、虫の声すら聞こえない。この森の中に生命はニナと自分の2人だけのように思えていた。そんな心細さからニナの姿を奥に探すが、自分の手も見えない暗闇に動くことが出来ない。しばらく待っているうちに、外の寒さから解放されたせいか少し自分が落ち着きを取り戻していることに気づいていた。そうすると、ニナの言葉に疑問が浮かぶ。暖炉があることを知っているという事は、外からのぞいた程度ではなく、数回利用していることになり、しかも暖炉を使えるほどに家の勝手を習熟しているということだ。幼い頃、よく村外れの空家を見つけては秘密の隠れ家を気取ったものだが、今この事態はそれほど楽観的でないもののように思える。そこで、ニナの言葉が再び頭をよぎる。

「全てを話すわ──」

 私はそれを待っている。ただ彼女を信じて待つよりほか無い。死んだと思っていたが現に目の前に現れたニナ。一体彼女の身に何が起こったのか。
 疑念を遮るように鼻をつく匂いに現実へと引き戻される。これはニンニクの花の匂いだろうか。

 ニンニク──?飾るにしてはあまりにも珍しい花だが。

 部屋の奥の暗闇に光点が浮かぶ。その後に続いてニナの姿が目に入る。彼女は手に火の灯ったランプを下げていた。今まで真暗闇に慣れていた瞳孔はすっかり小さくなっており、急激な光量の変化にしばし眩惑されてしまう。

 眩しそうに顔をしかめる私の顔をニナはただ不思議そうに見詰めるばかりであった。それでも、こちらに何か異常があったのは見とめたらしく、思い出したように顔を覗きこむ。

「大丈夫?」
「ああ、急に明るくなったから──。もう大丈夫だ」

 わたしが目を徐々に開いていくと、そのわずかな光はランプの回りに光輪を描き、それがとても神々しい情景を作り出していた。実際にランプの中では火が燃えているのだが、その事実以上に温かみを感じさせるその光は、冷えきった部屋の中にあっという間に浸透してゆき、自分の凝り固まった疑念も溶かしていくかのようであった。神は愛、愛は光、そんな神の前では人間などなんと小さな存在であろうことか。神の意志の前では、自分の想像など取るに足らないものだと感じられる。ニナは今、こうして私のすぐ側にいるではないか──。

 まだ少しぼやけてはいたが、そこには以前のように微笑むニナの姿があった。思えば1ヶ月前の失踪事件以来、まともに彼女を見ることができたのはこれが初めてだ。埋葬された時のままの白い屍衣。ただでさえ細い体がよけい弱々しく見える。
少し土に汚れた教帷子から露出した肌は衣服にも勝るほど異様に白く、その細い首筋には2つの小さな赤い傷痕が見て取れた。
 その傷を見ると、ニナの死顔を見たときの事を思い出す。体中の血が失われているという恐ろしい状態だったのだが、不思議と汚れてはおらず、死顔はとても美しかった。しかし、その顔が棺の中に吸い込まれていくときの喪失感、引き裂かれるような気持ちは忘れることはできない。するとあれは自分自身の妄想ではなかったのか。あれが現実なら、目の前にいるニナはいったい──。

「こっちに来てよく顔を見せてくれ」

 ニナを引き寄せる私の手は心なしか震えていた。長時間外にいたせいで冷えきったためか、極度の緊張から解放されて体が悲鳴をあげているのか、あるいは。そんな感情を払うようにニナを抱き寄せた腕に尚更に力をこめる。そうして、彼女に生命の躍動が宿っていないことを確かめながら当惑していた。その内心を悟ったのか、ニナはゆっくりと私から上体を引き離すと、肩に手をかけて囁いた。

「向こうに行って少し暖まるといいわ」

 ニナが近くの小机に手を伸ばし、置いていたランプを持ち上げる。光がやがて部屋の中心に引き上げられてくるときに初めて、私はそこに机があるのだと気がついた。辺りに目を向けると、外から見るといかにも朽ちた廃屋という印象だったのが、それでも頻繁に誰か出入りがあるらしく最低限の手入れはされており、生活の匂いは失われていなかった。入り口にはまだ最近のものと思われる紐で吊るしたニンニクがドアノブに吊り下げられており、さっきの臭いの謎はこれと知れる。

 正面の壁には鹿やキジの剥製が飾られ、部屋の中央には丸いテーブルが置かれてあり、その上には年代物と思われる三又の蝋燭台と瓶に入った水のような液体があった。机からランプが遠ざかるにつれて明かりは移動してしまい、液体の色までは判らない。
 周りの壁にはひとつ、ふたつ…、大小混ぜると7個の十字架が掛けられ、その内の4つはキリストの磔刑像がついていた。村の年寄り連中にはまだ信心深いものがいるので、部屋の中に複数そういった聖像などを飾るのは特におかしな話ではないのだが、それでも数が多すぎる。この小屋の利用者は、何に恐れを抱いていたのか。窓が閉ざされていることからも身を守る必要を感じていたのは確かであり、そこには邪悪な存在を感じるが、その対象はまるで思い当たらない。

 もしそれが今回の一連の殺人事件に関係するとすれば、この家を良く知るニナにも関係が及ぶのではないだろうか。ランプに照らされたニナの目が銀色に光る。その微笑みは周りの聖なる物品を不釣合いなものに変えていた。

──何かが違っている。

 ともあれ、ニナに説明をしてもらわないことには何も始まらない。あとは、そう、自分の体を暖めないことには。ニナの方を振り返ると彼女は少し待ちくたびれたような表情を見せて部屋の右手へと歩き、小屋の奥に入っていった。それにつれて、再び部屋に静寂と漆黒の闇が訪れる。わたしは明かりを求めて、彼女の後に続いた。
 思えばこの数時間緊張と驚きの連続だった。殺されたと思ったニナが生きていたり、そのニナをさらって村を逃亡同然に出てきたり。どうかしていたのかもしれない。ニナはランプを床に置き、私の為に暖炉に火を起こしてくれている。しばらく経てばこの部屋も暖かくなるだろう。
──?

 私の為に──、どうしてそう思ったのだろう。いや、まさにそんな素振りだったのだ。冷静に見詰めなおすとニナの振る舞いは以前の記憶とまったく違っていた。どこがどう、と言われると急に自信が無くなるが、全体的にまったく別人物といった印象を受ける。

 暖炉はこれまでも使用者がいたのか短時間で火が点いた。我々は火を中心にして対称に長椅子へ座り、静かに燃える炎を見詰めながらお互いに話す機会を探していた。ニナは先程から何かを伝えると言うのだが、まだ彼女の口からは何も話されてはいない。
 だが、私の気持ちに反してニナの態度は何か重要な事があっても言えずに煩悶している様ではなく、興味の無い話について今更言う気も無いといった風であった。丁度、朝食に何を食べたか聞かれて思い出しているという程度だろうか。すると、彼女が連続殺人に直接関わっている訳ではないのかもしれない。
 どれほど沈黙が続いたのだろう、部屋が少し暖まって来たせいか、夜を徹してきた疲れからか、私は何時の間にかうとうととまどろんでいた。

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