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 「ありっ?」
 と言ったまま、アスキーのある住友南青山ビルを茫然と見上げている編集部次長の大熊に、渡部が問いかける.
「どうしたの熊さん,急に立ち止まったりして.何かみえるの?」
「なー渡部,ウチのビルって何階建てだったっけ?」
「どーして急に,また.確か8階じゃなかったかなぁ? うん,そうだよ.エレベータも8階までしかないし……」
「だろう? でも,こっから見ると,ほら,1,2,3,……9階だろう?」
「え〜,んな馬鹿なぁ! う〜ん,えっと,あそこが編集部だから,え〜っと.あ,ほんとだ!」
「どっかの会社が2階分ブチ抜きの部屋持ってて,窓2段につけて……んなアホなことないよなぁ?」
「でも,ひょっとして9階建てだったかも知れないよ」
「そっかな〜?」
「そんなに心配だったら,ちょっと上まで飛んでってみたら?」
「んなこと,できるか!」
 いくら,アスキーのスーパーマンの異名をとる大熊といえども,空を飛ぶにはマントが,否,飛行機が要る.事実,彼は大の飛行機好きである.彼のデスクの前に張られている15枚の歴代墜落機の写真の悪魔的コレクションは,余りに名高い.ついでに言えば,彼は天体観測の趣味もあり,このような空を見上げる癖でもなければ,ビルの階数を数えてみるなどという芸当は,そう並大抵の人間にできるものではない.
 「そんなことより,早くメシ行こうよ〜.そんでなくても,今の時間,あそこ遅いんだからぁ」
 そう言う渡部にまだいまひとつ釈然としない大熊であったが,今は何よりも食欲を満たすことが先決であった.そして,その疑問も釜飯と共に彼の臓腑の深奥に消え去っていった.彼がその日の内に再び渡部と顔を合わせる機会でもあれば,またあの疑問が浮かんできたかも知れないが,その日も渡部は社内の各部署を転々とし,編集部にある自分の机に戻ったのは,大熊の外出中のほんの30分だけであった.
このことは,それでも次の日,ひょんなことから再び話題にのぼることになる.4階の編集部から5階の各部別に区分けされた郵便受けに郵便物を取りに行ったアルバイトの若村が,戻って来るなり,
「ねぇねぇ,大熊さん,何かおかしくなぁい?」
 と言いはじめたのである.
「おかしいって,顔か? それとも頭か?」
 と普通なら言ってしまう大熊であるが,相手は編集部唯一の『人妻』である.その上,彼は『正義の味方』ということになっている.更に,若村はアスキーでは稀れにみる『おしとやかな女性』とされている.結論として,彼は彼女の言葉に熱心に耳を傾けなければならないということになる.
「どぉしたの?」
 いつにない優しい口調で聞いたのは,もっぱら前述の理由による.
「今ねぇ,上(の階)に行って来たんだけれど,あの階段,ちょっと長過ぎない?」
「何をぉ? 『長い』って? 何がぁ?」
「あのね,だから,何だか階段が急みたいで…….いえ,いいんです.気のせいかも知れないし…….ちょっときいてみただけですから」
 アスキーのとあるビルでは,4階から5階に行く方法は2通りある.まず,3基あるエレベーターを使う方法.しかし,特に急ぐ際には,エレベーターを待っている間も惜しいことがある.こんなときに利用されるのが,第二の方法.非常階段兼用の階段をセカセカ昇るという方法である.厚い防火ドアをいちいち開けなくてはならないという点が,いささか不便ではあるが,それを除けばこれほど手っ取り早い方法はない.若村が疑問を持ったのも,この階段に関してである.
「へぇ? そぉかぁ!」
 疑い深げに言った大熊であるが,そこで昨日の疑問が再び頭に浮かんできた.彼は,そのとき珍しく隣に座っていた渡部と,この件の発見者である若村を連れると,階段の『検証』へと向かった.
 「う〜ん」
 と唸って,4階の非常階段の入り口から5階の入り口を見上げる大熊.
「確かに3階のドアより離れているみたいだけれど……」
 と言う渡部に,
「そうねぇ.良く見えないけれど……」
 と若村.
「熊さん.歩きながら何段あるか数えてみよか?」
「うん.そうしよう.渡部はこっから3階な,オレは5階行くから」
「オッケー」
 かくして測った階段数は,3〜4階が20段,4〜5階が24段で,明らかに4段の差が出てきた.
「4段かぁ.1段が20cmとして,80cm,床下もあるしなぁ…….それで1階分も増えるなんてことないし……」
 ここで『床下』とは,床下にある配線用の空間を示す.アスキーには,ともかく機会が多いので,それらの電源の供給のため,専用トランスが設置されており,床下を空洞部分にして,その空間を利用して配線を行っているのである.そのため,アスキー社内で駆け足すると,はっきり言って『ウルサイ』.もっとも,足跡が良く分かるので,自分に近づきつつある人間が誰であるかの判定は比較的早期に行えるという利点はある.


 

 


 「……あ,床下ねェ.そうか,それがあったか!」
 そう納得する渡部を見て,若村も,
「へぇ〜,なる程ねぇ」
 と感心することしきりで,
「さすが大熊センセ」
 の一言も出たりする.
「でもなぁ?」
 大熊の未練がましい口調に,若村が,
「でも,なぁに?」
 と問い質したところで初めて,渡部も昨日の大熊とのやりとりを思い出して,
「いやね,このビル,8階まででしょ? でも,外から数えてみると,9階あるんだよねェ」
「へぇ〜」
 と言ったまま,暫く考えていた若村であるが,
「でも,8階って何なの?」
と聞いたので,大熊が我が意を得たりという勢いで,
「確か,地主の私邸の筈だよ」
 と答える.
「あ! 分かった.それじゃ……」
 そういう若村に,
「何が?」
 と大熊と渡部が,同時に声を発した刹那,突然4階のドアが開いた.現れたのは元編集部6502(AppleIIやCBMのCPU)担当,現第二出版部リーダーの松田である.
「あれ? 3人して何やってんの〜?」
 この素朴な疑問も彼らにとっては一種独特の痛烈さを持っていた.実質上,彼らのやっていることは,あるいは『無』に等しい無駄な行為かも知れなかったからである.
「いやネ.今,設計の確認をしているんだよねェ」
 ととぼけてみせた大熊であるが,
「じゃ,それで,測量でもしてるわけ?」
 との彼の言には,一同ビクリとした.しかし,それ以上に突っ込まないのが,また彼の良いところで,
「アンタ達もヒマねぇ」
 という捨せゼリフを残し,パタリロのような躯幹をペコペコと下半身で操縦しながら5階のドアの彼方へと消えて行った.その様子は『無頓着』あるいは,『根っからの平和』と呼ぶにふさわしいほど明るかった.
 「ところで,さっきのことだけど」
松田の姿が完全に視界から消え去るや否や,大熊がきりだした.
「あぁ,あれね.あれ,いま,メゾネットってのがあるでしょ.お友達で住んでる人がいるんだけれど,あれって,2階建てになってるのよねぇ」
「うん,うん,それ,知ってる」
「家の真中に階段がついてて……」
「そうなの,あれだと,エレベータが1階分しかなくても,不思議じゃないでしょ?」
「あ,な〜る」
 渡部の方は,素直に納得したのだが,大熊の方はいまひとつ釈然としない様子である.
「じゃ何か? 外から見える8階がエレベータの停まる8階で,大家さんが住んでて,それの2階が外から見える9階で……,あ〜,もういい.わ〜った」
「そう,そう,仕事,仕事と……」
 そう言う二人に促されて,若村が4階のドアに手をかけた瞬間,ドアの上のスピーカから,警備員の声が聞こえてきた.
「只今,アスキー様で警備装置が作動しましたが,調査の結果,タバコの煙による誤報と判明しました.火災の恐れはございません.以上,警備室から,ご報告申し上げます.」

 「また,誰かやったな」
 大熊がポツリと言う.感知器の下でモロにタバコを喫ったりすると,オレンジ色のランプと共に『ブジィ〜』という警報音が鳴りっぱなしになるという,某ホテルに見倣わせたい位のオソロシイ火災検知システムがアスキーのビルにはあるのである.
「でも,音が聞こえなかったねェ」
 渡部が言ったが,
「あたり前だろ.1ヶ所の感知器しか鳴らないんだから.フロアの広さを考えてみろよ」
 と大熊に言われて,返す言葉もない.
「4階かしら,それとも5階かしら?」
 という若村に,
「んなの,4階に決まってるだろ」
 と言う大熊であったが,余り確信はなかった.
 ともあれ,どうにか編集部に戻った3人ではあるが,編集部の今の館内放送の話題でもちきりであった.編集長の宮崎がその中でしきりと首をひねっている.
「おっかしいなぁ.何処の部署でも警報なんか,鳴らさなかったってんだけどなぁ?」
「ってぇと,警備室のミスか?」
 大熊の問いに,
「ま,そういうことになるでしょうな」
 と答える宮崎.元アスキー編集長,現出版局副局長の吉崎も野次馬根性でか,編集長を兼任しているLoginの編集部から顔を出して,「きっと秘密の編集者用のタコ部屋でもあるに違いない」
 などと言う.
 しかし,結局,騒ぎはこれまでだった.魔の締切が迫っていたからである.一歩,外へ出ればときおり春一番が吹き荒れるものの,穏やかな日差しに恵まれた春陽の候.『花より原稿』と花見酒もあきらめて徹夜で編集作業を行うアスキーのスタッフなら,次の日が突然冬になったところで決して驚きはしないであろう.しかし,彼等が知ったら必ずや驚嘆するであろう3つの事実がここにある.
 まず,確かにアスキーのあるビルは9階建てであり,その内,大家さんの住むフロアは最上階の『8階』のみである.次に,彼等は階段の段数は正確に測ったのであるが,1段の高さを測り忘れた.4階からの昇り階段は1ステップ22cmもあるのに比して,降り階段は17cmしかない.即ち,計算してみれば分かるのだが,4階と5階との距離は3階と4階との距離より約1.8m長いのである.そして,最後に,アスキー内で,その日,警報が鳴ったのは紛れもない事実である.
 実は,これ等のデータは,全て我等が不可思議コンピュータ,フェリスに『住友南青山ビル設計資料』として,既にインプットされていたのである.彼等も階段の数なんぞを数えている間に,フェリスのターミナルを叩いてみれば良かったのである.画面には,設計当初のビルの側面図が映し出され,地下1階も含めて 10のフロアが描き出されるだろう.エレベータも非常階段も全ての階につながっている.しかし,その設計は,何故か後日変更され,アスキーのある4階と5 階の間に1.8m余の高さを持つ空間が残ってしまった.左様,吉崎の言う『タコ』部屋は確かに存在するのである.この件に関しては,流石のフェリスも無力である.尋ねても,答は一つ,
「カイトウ フノウ」
 フェリスは一切関知しない.

 

 南青山シンドローム

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