TBN

 「ねぇ,遊佐さ〜ん?」
 「なんじゃ!」
 甘ったれるような中本の声に食いつくような口調で答える遊佐であったが,とりわけ彼にウラミがあるわけではない.要するに締切直前だというのに原稿が書けていないのである.状況は中本もまったく同じであったが,編集部とは不思議なもので,取材に出ている回数や時間が多いと,それが締切を遅らす立派な理由になってしまったりする.従って,取材スケジュールを間違えたりする結果,人一倍の取材時間を費やす中本の原稿は遅れて当然,一方,めったに取材に出かける機会のない遊佐はその代償として締切厳守ということになり,おのずとそれが語調に表れてしまうのである.この時期,ごく普通に遊佐に話しかけても,その内容如何にかかわらず,返ってくるのはこの脅迫的
「なんじゃ!」
 の一言である.
 「い…いえね,ひょっとして遊佐さん,このターミナルの使い方,知ってるんじゃないかと思ってきいてみたんだけど……」
 瞬時に状況を悟った中本は,精一杯の謙虚さを示しながら,目の前のデジタイザの接続された端末に視線を落として言った.一面を凝結した水滴が覆っていた北向きの窓からも,昼の間だけは青山界隈を一望できる.その窓に面して置かれた長机に,ワードプロセッサ・システムと並んで,このフェリスと呼ばれるコンピュータのターミナルが鎮座している.
 「ったく,使える以上,捨てるってわけにもいかないしなぁ」
 という宮崎編集長の言葉通り,このターミナルは編集部の『お荷物』だった.まず,何よりも編集部は狭い.次から次へと発表される新機種で機械室――別称,「ねくらマイコニスト特別隔離病棟』――は満杯,一人ぐらい,ターミナルの一つも引き取ってくれる者がいて良さそうなところだが,各自のデスクは二人に一台の割で配置されているワードプロセッサとアスキーのマザーコンピュータのターミナル,そして個人用書類でこれまたオーバーフロー,かといって,いくら得体の知れぬものとはいえ,知識データベースと銘打たれたフェリスのターミナルは,サブシステムあるいは研究用の端末として捨て難い魅力があり,そうそう邪険にもできない.宮崎は編集長の権限を持って,ひとまわり編集部内を見渡してから,この唯一窓際に残されたスペースを指さし,
「うん,あっこ!」
 との決断を下したのである.

 ともかく,気をまわし過ぎるほどまわした中本であったが,遊佐の返答の前半は余りにも素っ気なかった.
「んなこと,あたし知らないわよ! 秋山君もまだ来てないし……」
 しかし,これで終わらないのが女心の不思議で,一瞬の後,彼女は『女心と秋の空』的反コペルニクス的大転換を行って,こともなげに甘い口調でのたまわった.
「え〜と,でも,福井ねえさんなら知ってるかも知れないわよ〜」
「え〜? 誰か私のこと呼んだ〜?」
 遊佐の声をすばやく聞きつけて,福井がいずこからか現れた.確かに彼女は,以前COBOLのプログラミングをしていたというし,アスキーのマザーコンピュータの端末網膜使いこなしており,この場合,遊佐が彼女を指名したのは当然といえば当然かもしれない.しかし,中本とて男である.アスキー編集部の世間より1時間ほど遅い昼食どき,ふと気がつけば女:男=2:1という,ますます威圧的な会話環境に完全に気勢を失い,語気は衰えるばかり.
「いやなに……,ですからねぇ,このぉ〜,つまり,このターミナル,どうやって使うのかなぁ?――なんて思って……,福井さん知りません?」
「これって,フェリスのでしょ.さぁ〜,この前,高橋さんと井上君が使ってるところは見たけれど……」
 中本は,もはやフェリスのターミナルの使い方などどうでも良くなっていた.電話が鳴れば喜んで彼は飛びついたであろう.社屋移転で確実に広くなったはずの編集部室も,今の彼には息苦しい電話ボックスの中に等しかった.彼の名誉のために言っておくが,彼は閉所恐怖症でもなければ,ましてや女性恐怖症でもない.すべては,状況がそうさせているのである.故障中のエレベータに二人の女性と共に閉じこめられた男性の胸中を思えば,この状況は比較的理解し易いであろう.そんななかもとの心を知ってかしら図化,遊佐の言葉に不気味な甘さが増す.
「でも,今,みんなお昼食べに出ちゃってて,だぁれもいないもんねぇ〜」
「そ…そうですね.いいです.ほんとに…….あとで,誰か知ってそうな人に聞いてみますから…….ほんとに,すいませんでした,ほんと……」
 平身低頭の彼であったが,この発言は少しまずかった.かえって,女性陣にフェリスのターミナルを動かしてやろうという意地を芽生えさせてしまったのである.これで,無事に開放されるという彼の夢は,もろくも崩れ去ってしまった.
「でも,少しぐらいなら見て覚えてるから,ちょっとやってみようか?」
「うん,うん.やろう.やってみよう.これ,いろんな言葉をフェリスが絵にしてくれるんでしょ.あたし見てみた〜い.ねぇ,福井ねえさん,やって!」
 そういっている間にも,二人はフェリスの端末の前に並んで座ると,背面の電源スィッチをONにした.

 「まさか壊れたりしないでしょうねぇ」
思わずもらした中本を指す4本のきつい視線は,もはや編集者ではなくて技術者のそれであった.この瞬間,中本にも何故か,このフェリスというコンピュータを好きになれそうな予感がした.
 福井は,アスキーのマザーコンピュータ用に与えられているのと同じ自分のLogin名とパスワードを入力し,無事システムを起動すると遊佐にたずねた.
「何調べようか?」
「何――って,単語じゃなけりゃいけないんでしょ?」
「単語って,名詞でっていうこと?」
「そうなんじゃないの? 良く分からないけど」
 そんな二人の様子を見て,システムの起動に少し力を得て中本がアドバイスする.
「何でも,データベースだってことですから…….井上君が,今,百科事典の内容を画像入力してるってことですから.……いえね,だから,百科事典に載ってそうな項目なら何でもいいんじゃないすか?」
「そうねぇ〜」
 と同時に言ってしばらくだまりこんでしまう二人であったが,そのうち,遊佐が,
「じゃ『ナルゴ』!」
 と叫んだので,他の二人は思わず失笑した.彼女としては,自分の実家が宮城県の鳴子にあり,編集部でもそのおかげで彼女の入社以来その方面への旅行が増えたぐらいなので,比較的ポピュラーな地名として真っ先に思いついたのであろう.しかし,彼等が前にしているフェリスの端末と東北の温泉町『鳴子』を結びつける糸は,あまりにも細い.彼女の発言に笑いを禁じ得なかった彼等をひとえに不謹慎と責めるのはいささか酷というものである.
 ともあれ,福井は遊佐の言に従って『ナルゴ』とインプットしてみた.しかし,十数秒の静寂の後,画面に「ピッ」という音と共に現われた文字は『ケンサク フノウ』であった.「あはは,ごめん.『ナルゴ』じゃダメよ.」
「『ナルコ』なの,ほんとうは……」
「へぇ〜.『ナルコ』ね.……ナ・ル・コっと……」
 『ナルコ』を福井は再入力したが,再度の十数秒の沈黙の後,フェリスが返してよこした答えは,またも全く同じであった.
 失望を隠し切れない二人に
「そういえば,まだ『た』の辺ぐらいまでしか入力してないんじゃなかったかなぁ」
 と平然とした調子で言う中本であったが,女性二人にほとんど同時に,
「何でそれを先に言わないのよぉ」
 と食ってかかられて,流石に恐縮して,
「すんません…….じゃあ,福井さんの住んでる市川なんてのは,どうでしょうかねぇ」
 と取りなす.
「でも,入っているかしら?」
 最初の失敗で多少疑心暗鬼気味になっていた福井だが,千葉県も『イチカワ』の名を出されて,まんざらでもない.『ナルコ』を入力したときとはまた,ひとあじ違ったかろやかなタイプさばきで,早速入力を試みる.しばらくして,フェリスは,それが地名であるのか人名であるのかをたずねて来た.ここまでくれば九分九厘成功である.彼女は力強く地名であるとフェリスに指示する.
 もちろん,皆は多くを期待していなかった.いや,むしろ,三人は地図の類が画面に現れるであろうことをかなりの確信をもって予想していた.

 しかし,画面は真赤に揺らいだ.そう,それは確実に赤く揺らぐ何物かを映していた.
「わぁ,きれい」
 そんな遊佐の感想に水を注すように
「でも,こわれてるんじゃないですか?」
 と言う中本.そんな二人の前で,じっと画面を見つめていた福井が,ポツリと言う.
「でも,ちろちろ揺れて,火事みたい」
「えっ?」
 思いがけぬ彼女の発言に二人が思わず顔を見合わせて叫ぶ間にも,彼女は自分のデスクの電話機を目指す.その後に,ガチャン,ガチャンと二度聞こえた乱暴な音は,恐らく彼女の電話のかけ間違いであったのだろう.アスキーに一人一台ずつ備えられている内線電話は,慣れるとそうでもないのだが,恐ろしく使いづらいのである.確かに,機能的には日本でも最強の処理能力を有するのであるが,普通の電話をかけるには,まず,外線指定の“0”を指定しなければ,110番や119番すらできないという恐るべき欠点を持っているのである.
 極度の興奮状態にあっても,何とか外線接続には三度目に成功したらしい福井の声が断片的に聞こえる.
「やっぱり〜,えぇ! そんなに? うん.でも,ウチは平気なんでしょ?」
「そう.うん.でも,もう安心ね.いえ,ちょっと気になったんで…….でも,かけて良かったぁ」
「うん.もちろん.今日は早く帰るから…….それじゃ,また……」
 それだけで充分だった.遊佐と中本には,市川で大火があったこと,それが少なくとも福井の家までは延焼しなかったのだということがすぐ分かった.ふと気が付くと,南青山は我がもの顔に吹き荒れる強い北西風にあおられ,スポーツ紙が四階の窓あたりにまで舞い上げられている.厳しい季節である.

 「あちっ!」
 中本はフェリスのターミナルに夢中で,自分が火のついた煙草を持っていたことを忘れていた.あわてて灰皿を捜すはずみに,彼はターミナルのケーブルに足を引っかけてしまった.幸い,彼の両足によるケーブルの過度の牽引,それに伴うターミナルの横方向への強制移動,物理的配置より起こるターミナルの机上からの落下,位置エネルギーが運動エネルギーに置き換えられた結果起こるターミナルの破壊――という最悪の事態は免れたものの,どうした具合か,端末の画面がぱっと変わり,そこにはまぎれもない『市川』の地図が表示されていた.
 だいぶ前から,中本の煙草により被覆を熔かされ,一部分がショートしたままになっていたターミナルの回線が,同じ中もとの足を引っかけた反動で無事修覆され復旧したというのが事の真相である.しかし,彼等がそれに気づくには,修覆後の煙草のこげ後が外から見る限りでは余りに小さかった.また,フェリスのターミナルがこうして修覆されたのとほとんど同じころ,市川の大火も鎮火していたのであるが,彼等はそれを知るよしもなかったし,恐らくは,それは何億分の一からの偶然に過ぎなかったのであろう.フェリスというコンピュータは,まことに偶然というものに恵まれた不可思議コンピュータである.

 南青山シンドローム
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