TBN

 「ねっ,やっぱり絵の方が速いでしょ」
 ルンルン口調で話しかける秋山に,デジタライザ片手に井上がうらやましげに答える.
「ひぇ〜,だからって,こう毎日描かされてばかりじゃ,わしゃかなわんよ!」
「でも,ビデオで入力するよりずっと認識率が良いんだから仕方ないよぉ」
「ここに,ほかに絵が描ける人間がいないってわけじゃなし……」
 そうグチをこぼしながらも,彼の手の休まることはないし,その動きは言葉とは裏腹にむしろ生き生きとしている.一日8時間,汎幾何学的な線を組み合わせて没個性的な設計図を引かされている彼の手は,いま正に,アルマジロの絵を描き終えようとしていた.
「やれやれ,もう少しで『あ』も終わりか」
「これで,明日もまた会社へ行くの?」
「当たり前じゃ! でも,これじゃどっちが本業なんだか……」
 答えはとうに分かっている.井上にとって自由に描けるこの時こそが,彼の生きている瞬間なのであって,会社で回路設計している間というのは彼のいわば,世を忍ぶ仮の人生に過ぎない.そして何よりも,今の彼はこの仕事に,一種の生き甲斐を感じていた.
 
 きっかけはこうだった.三週間程前,堂々巡り(即ち,各部署の押しつけ合い)の末,一台の端末がアスキー編集部に届けられた.フェリスと呼ばれるこのコンピュータの詳細な仕様は不明.……となると当然,本体の蓋を開けて中身を見てみたくなるのが編集部員の性(さが)というものだが,何せ『マイクロマウスの迷路』とまで呼ばれる新社屋内,引越して間もないこともあって特に御本尊を捜しに行こうという気骨ある者もなく,フェリスの本体は恒例の解体破壊からはかろうじて免れたのである.
 ともかく,データ未入力の知識データベースであるとのことなので,簡単な手書きのマニュアルを手がかりに,試験的なデータ入力を試みることになった.データの内容に関しては数々の考えが出されたが,結局,このTBNの頁の主幹高橋の
「百科事典にしたら」
 という哲人的意見が安直さと将来性の両面から圧倒的支持を受け,選択された.その任に当たることとなったのが編集部の助っ人秋山なのであるが,これはこの時,彼が最も高橋に近いところに居たという不幸な偶然に過ぎない.

 それから一週間,彼の手により,フェリスは百科事典の知識を吸収し続けた.しかし,彼の努力にもかかわらず,入力はやっと『アカネ』の辺りであった.これは,一つの項目を入力後,次の入力を要求してくるまでの時間が異常に長いためである.その時間と,項目の長さとの間には特に相関関係が認められないことから,彼は,これは恐らく項目同士の関係を解析し,意味ネットワークを形成するのに要する時間なのであろうと推定していた.
事実,最新の入力ほど処理に時間がかかる傾向が見られていて,最近では,処理に数分かかることも稀れではなかった.
「ねぇ,高橋センセ,本当に本気?」
「本気って何が?」
「いや……百科事典全部入れるってアレ…」
「うん.確かにシンドイだろうから,本格的にやるとなったら,他に人を雇うということも考えてはいるけど…」
「そんなんじゃなくてねぇ,最近反応が遅いんだよね」
「ほんまかいな?」
「今だって『アラブ』を入れたところなんだけど,かれこれもう4,5分アブラ売ってる」
「データ,大丈夫なんだろなァ」
「うん.そのハズだよ.でも念のため見てみよか」
しばらくして入力待ちに戻ったターミナルに,秋山は『アカネ』の項目の検索を命じた.
「何じゃこりゃ」
 先に言葉を発したのは高橋の方だった.
「あなた,どうやってこれ入力したの?」
「……………………………………………」
 入力した張本人である秋山には,答えるすべもなかった.懸命に入力した『アカネ』に関する文字データは一行も表示されず,CRTにはオレンジ色の根と白い花がひときわ目立つ茜の絵が描かれていたのである.

 フェリスはあらゆるものを絵にした.抽象的な概念――例えば『愛』――出すら,見るものにそれ以外の単語を想起させ得ぬみごとさで画像化した.時にその画面は喜び,時にその画面は涙していた.
 確かにこの事件は,アスキー編集部に少なからぬ衝撃を与えた.そのはね返りとして妙に白んだ雰囲気に活を入れたのは,
「でも,考えてみれば,文字なんてものは,絵に始まっているわけだろ.ま,進化的先祖返りというところじゃないの」
 という,かの哲人の一言であった.この高橋理論に基づいて,
「いっそ,絵で入力したらどうなるだろね?」
 と言う秋山.その提案を受けて,
「何でもいいから,とにかくデジタライザぶっさして,描いてみようよ」
 と早速実行に移った井上の予感は正しく,秋山が一時間以上かけて入力し,処理されていた項目が,井上の手により,ほんの2,3分で絵にされ,ほとんどリアルタイムに処理されていった.もちろん,ビデオ入力による処理も実験されたが,以外にも,処理にかなりの時間がかかり,デジタイザ入力の20倍近くを要することが判明した.
 かくして彼は秋山ともども,不可思議コンピュータ,フェリスの教育係を拝命し,人類は,絵画に新たなる文明的意義を見出したのである.少なくとも我等がフェリスは,味のある絵がお好きらしい…….

 南青山シンドローム
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