ヴラドの戦争


 ヴラドはモルダヴィアの内政にも干渉する。

 ヴラドが公位に就いた際、同じく亡命していたシュテファンを同行させている。

 ボグダン公を暗殺して公位に就いたペトル・アロンはワラキアを追放された親ヴラディスラヴの反ヴラド派貴族を匿った為、モルダヴィアは反ヴラド派の巣になりつつあり、ペトル・アロンはヴラド、シュテファンの共通の敵となっていた。

 ヴラド公はシュテファンを送り込み亡命時代の誓約を果たして公位に就かせる事を決意、1459年春にシュテファンを公位に就かせることに成功する。

 しかし、国内の反対派勢力に対してヴラドの様に極端な行動を取らないシュテファンは、大国との外交関係を崩すことは望ましく思っておらず、またトルコに対しても融和的な政策をとったため、ヴラドとの間に確執が生まれた。

 ヴラドはトルコがモルダヴィアと結んで自国に攻め入ることを懸念し、トランシルヴァニアに協力を求めている。

 両公の方針が異なってくると、通商拠点でもあるキリア市の重要性が増してくる。これに関してはポーランド王や、トルコのスルタンも同意見であった。

 だが、元々モルダヴィア領であった重要拠点キリア市にヴラドがハンガリー守備隊を招き入れようとしたために、キリアをモルダヴィア領であると主張するシュテファンはどうしても同意することが出来ず、ポーランド王と協定を結んで戦略を開始する。

 
 トルコのスルタンがキリアを狙っているという情報を聞いたシュテファンは、ヴラドとワラキア軍ではトルコの侵攻を防ぎきれないと判断して、攻略を始める。それによって、ヴラドは東方に軍を裂かねばならず、対オスマンの兵力が弱まった結果となっている。

 シュテファンがキリア攻略を後に回し、ワラキア軍と協力してオスマンに対抗したなら、もっとルーマニア側が有利になったのであろうが、実際にそれがかなうことはなかった。
 

 ヴラドは公位就任当初、国内の反対勢力が依然強かったことと、彼の大きな協力者であったフニャディ=ヤーノシュの死によって後見人の不在により国内政策の充実が最大の目標であったため、対外的な政策までは手が回らない状態で有ったので、トルコに関しては融和的な政策を続けた。
 ヴラドが新公位の座に就いたという情報を得たメフメトは、納貢金として年1万ダカットを要求したが、最初の2年まではヴラド自らトルコに赴き、これを支払っていたと言う。
 
 ヴラドは対立する勢力の粛清を行い、自分の君主としての地位が確立されるのに伴い、次第に対トルコの戦略を固めていった。
 ダン3世を倒した後はハンガリー王となった、フニャディ=ヤーノシュの嫡子マーチャーシュ=コルヴィヌスと同盟を結び、トルコからの納貢金を拒否し始める。

 スルタンからは、滞納している金額として3年分の支払いと、500人のデヴルシメ(ムスリム洗脳教育)制度を受けさせる為の少年を差し出すことを要求される。

 しかし、滞納金だけは支払う素振りを見せながらも、はっきりと拒絶をしてスルタンを激怒させた。とはいえ、この時メフメトは多方面での戦略に忙しく、ワラキアに力を裂けなかったために納貢金だけで妥協するとして特使を派遣する。彼等は串刺しにされて処刑、もちろん納貢金は支払われていない。
 

 ヴラドのこうした反トルコの姿勢はよそに、ヨーロッパ西側諸国の反応は冷めたものだった。
 オスマンの席捲によりキリスト教世界が脅かされるのを恐れた時の教皇ピウス2世は、オスマンに対して十字軍を提唱する。

 だが、彼の恐れたキリスト教的(中世的)価値観の崩壊は既に浸透し始めており、コンスタンチノープル陥落によるビザンツ帝国の崩壊も、西側の諸国にとっては対岸の火事であった。

  また、所詮実害を及ぼすことはないと考えた事と、十字軍と言う多分に中世的な事業に、まったく意義を認めなかった事から、教皇の発言は無視されることとなった。

 十字軍が組織されるとなればもっとも先頭にたって指導するべき立場にある神聖ローマ帝国にしても、選帝候らの許可を得ずに歩兵3万人強、騎兵1万人を供出すると約束するも実際には守られない。

 フランスは見返りにナポリ王位にフランス王家ゆかりの者を推薦することを要求、ポーランドはチュートン騎士団との抗争により戦列を不参加。

 イギリスに至っては自国の戦争の調停を依頼するといった始末で、対トルコに関して具体的な案を示すものは誰一人としていなかった。

 長い討議の末、失望したピウス2世はすべてのキリスト教徒が反トルコ戦として、毎週日曜日に教会のミサに出席して祈るよう宣告して閉会した。
 次に教皇は、カトリックの保護者として名高いハンガリーに協力を求めた。

 ハンガリー王マーチャーシュは、一旦は協力を約束し4万ダカットもの準備金をもらったにも関わらず、一向に出兵する素振りは見せなかった。

 
 そのような状況の中で、ヴラドとトルコとの直接対決がついに始まる。
 
 スルタンはヴラドを懐柔しようと色々な手を使う。

 それに失敗すると見ると、今度はハムザ・パシャを送り込んで会見の場を設け、ヴラドをトルコ宮廷に招待する。
 

 これはメフメトの罠だったのだが、奇しくもこれは18年前にヴラドの父ドラクルが陥ったのと同じ状況であって、ヴラド=ツェペシュはこれを忘れてはいなかった。

 ジウルジウで包囲されたヴラドは、逆に包囲したトルコ軍を上回る大部隊を森の中に配置しておき、返り討ちに成功。

 ジウルジウ要塞は徹底的に破壊し尽くされ、トルコ守備隊はワラキアの首都トゥルゴヴィシテに連行された後、郊外で串刺しにより処刑。


 このときのトルコ側の死者は2万人を越したと言う。
 この事件により、トルコとの関係は一気に緊迫する。
 

 このニュースをハンガリー王マーチャーシュは教皇にヴラド自身の手紙を添えて上奏することに。
 もっとも、ヴラド自身には教皇への直接的な交流は無く、すべてマーチャーシュを介してのものだった。
 
 その後もヴラドは勢いに乗じオスマン領を席捲するが、来るべき大反撃を予測していないわけではなかった。

 オスマンは冬季には戦闘行為を避けていたが、春になればその報復に大部隊が投入されることは目に見えており、ヴラドはその旨を各国に触れて協力を仰いだが、ハンガリーを始めとする諸国の同意は得られなかった。

 西欧諸国ならいざ知らず、自国の侵略の危機にもさらされるであろうハンガリーまでが、ワラキア領内に駐在していた兵までも引き上げさせたのには、おそらくスルタン側の働きかけがあったのだろうと思われる。

 ヴラドとトルコに中立を誓うことにより、暫時の平穏を選んだのだ。
 

 加えてワラキア領内でヴラドに反感を持つ地主貴族も少なくなかった。

 彼等は、君主の横暴を訴え、スルタンに救いを求めた。
 

 これにより、オスマン=トルコの公的な介入が正統化されたことになり、メフメトのワラキア侵攻の準備は着々と進んでいた。


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