ヴラドの国内政策と粛清


 ヴラドが国力を高める為に最も重要視したのは国内政策であった。中でも、中央集権の強化は必須であり、かつ彼の公位の存続のためには早急に対応せざるを得ない問題でもあった。

 
 ヴラドの祖父ミルチャ<老公>の亡き後公位継承争いは混迷を極めた。

 ワラキアの公位は世襲制であったものの、公家一族の者ならば誰にも継承権が有った為、有力な地主貴族が各々候補者を立てて争いを行った。

 この状態により自然と在位期間は短くなり、また公王が傀儡であることを露呈する結果となって、君主の権威を失墜させた。中央権力の弱体は、地主貴族達の増長を呼び、彼等はその特権を無制限に拡大させていた。
 

 ヴラドが二度目の公位に就いた時も、それまでヴラディスラヴ2世を支持していた貴族は手のひらを返すように彼を捕えて殺し、かつ新しい公王に対しても自分達の良い様に動く傀儡になるかどうかの見極めを行う事しか考えてはいなかった。
 
 ヴラドは、自分の父ヴラド=ドラクルが、主たる要因はフニャディ=ヤーノシュにあったとしても、実質は地主貴族たちの意向によって惨殺されたことを知っていた。それ故、自らもその様に見られていると知ると、城内の一室に呼び寄せた貴族たちに問うた。おまえ達は今まで何人の公に仕えたか、と。

 その中で一番若い貴族が最も少なく7人と応えたが、残りは20人から30人、しかもほとんどその数は把握されていなかった。ヴラドは彼等を一喝し、国力を弱めた責は貴公らに有り、とすべての貴族を串刺しにして処刑したと言う。
 

 このエピソードが貴族たちにもっとも与えた衝撃は、残虐性もさる事ながら、その処刑の方法にあった。
 
 串刺しはヴラドの特別な方法というわけではなく、1453年のコンスタンチノープル攻略のときにもオスマン=トルコが使用しており、ヴラドはこの方法をトルコで学んだのであろうと思われる。ヨーロッパでも斬新な処刑法を好む貴族達には重宝されたとか。

 とはいえ、元々、磔刑などはローマでも最下層の人々に対する刑罰であって、貴族たちがそのような扱いを受けることは無い。ましてや、貴族の中でも最有力の重臣を次々と串刺しにしていく様は、まさに串刺し公のおくりなを与えられるにふさわしかっただろう。
 

 すなわち、新公王は地主貴族に対してそれ程の価値しか見出していないことを示しているのだ。
 
 さすがに大量処刑は地主貴族らの反感を買い、1459年以降には貴族のみ斬首の刑となっているようだが、この事は貴族達を震撼させるだけの目的ならば充分に果たしたと言える。
 
 しかし、この様な強行手段を採らざるを得ない理由もあった。
 
 当時地主貴族たちが持っていた特権は長年の間に強固な物になっており、それに干渉するためには貴族たちが君主に対して謀叛を企てるか、廃嫡した場合のみとされていたからである。

 地主貴族たちの横暴に民意は離れ、あまつさえトルコ側に賛同するものも現れる中、国力は著しく低下しており、地主貴族への権利の抑制は急務であったのだ。
 

 そして、ヴラドは急速に自らの権力を伸ばしていく。
 まずは公室評議会を構成している地主貴族を更迭、権力を持たない者を送り込み弱体化させる。反対意見も多く出るが敢行する。更迭された者は、亡命か殺害か行方不明となった。

 次に、ヴラドは公室評議会に軍事監察官(アルマシュ)を置いた。
 その職務内容は公立裁判所の判決の執行、犯人処罰、監獄警備だったが実質は治安組織の総責任者であり、初代の担当者にはドラクル時代からの腹心であり親族である者を採用、管理体制を強化していった。
 

 ヴラドは政敵に対する弾圧政策を支えるため、私設の軍隊を育成した。このことは、オスマン=トルコのイェニ=チェリを思い出させる。
 トルコに捕囚されていた時代、軍事的訓練を積み、トルコ語もネイティブ並みに習得した彼ならば、それにヒントを得たとしても不思議はないだろう。
 
 加えて、ヴラドはミルチャ老公の例に習い地主貴族とその家臣を中心とした構成であった軍から、農民や自由民を徴集する常設の正規軍に変えて作成。軍隊の質の向上、強化の為に褒賞&処刑、恐怖で運営した。

 正規軍+傭兵で、それまでの地主貴族は戦闘に駆り出されなくなったおかげで彼等地主貴族の存在意義を薄くすることには成功した。

 だが、正規軍の維持には莫大な費用がかかる。そこで経済政策のさらなる充実が不可欠なものとなってくるのだ。

 ヴラドの厳格な態度は地主貴族だけにとどまらない。領民に対してもいかんなく発揮された。

 貧民や犯罪者、村落などの生活共同体から外れて孤立しており、働く気力のない者を集めて小屋に閉じ込めて火を放ち焼き殺す。身体や精神の障害者も同様に弾圧した。しかしこれは、専制君主の中にはしばしば見受けられ、やがて選民思想につながっていくのかもしれない。
 
 また、貿易を重要視していたことから、当時トランシルヴァニアのドイツ系商人から国内の産業を保護するためにこれを弾圧。そして、流通を保護する目的で犯罪に関して特に厳しく当たった。窃盗や強盗は勿論の事、詐欺や不義を働いたものまでみな等しく死刑となった。
 その方法は串刺しをはじめに、釜茹でや皮剥ぎなど、多種に渡ったという。犯罪者隠匿も同罪とされ、摘発できなければ町村全体を破壊するとまで申し渡されたとか。

 おかげで犯罪者は激減し、ヴラドの治世の間には、泉のそばに黄金の杯が置いてあっても、それで水を飲むものは居ても盗むものは現れなかったと言うエピソードも残っている。
 

 先に触れたトランシルヴァニア商人からワラキア国内の商人を守るための政策は、ヴラドと、トランシルヴァニア領内のシビウ、ブラショフ両市との友好関係を悪化させていた。
 この事からシビウ市民は、ヴラドを廃する目的でヴラド=ドラクルの息子を自称するルーマニア人僧侶を擁立する。
 シビウ商人たちのこうした行動は当然ヴラドの怒りを買い、シビウ市民に警告を無視されたヴラドはシビウ周辺各村にワラキア軍を投入、放火し破壊する。

 公位に就くまでの数年間シビウ市で暮らしていたヴラドが即位した途端同市に侵攻するのは不可解ともおもえるが、こうした状況が存在していたようだ。
 

 ワラキア国内のブラショフ商人に対する弾圧の例としては、次のようなものがある。
 国内各都市で商業活動を行っていたブラショフ商人を逮捕、財産を没収の上次々と串刺しに処す。
また、300人余りのブラショフ商人及びその子弟を生きながら焼殺。
 
 が、これらドイツ系サス人のトランシルヴァニア商人(ブラショフ及びシビウ)の行っていた商売行為は、彼等が独自で定めた一方的な価格でワラキア商人と取引をし(ワラキア側の設定代価を支払わない)、返品や転売などを認めないといったものだった。
 また、ワラキアから商品を持ってブラショフ市に入ろうとした商人たちが、ブラショフ市民によって荷物を奪われ、かつ入市を拒否されていたなどの事件が相次いでいた。
 
 このように一方的なやり取りがあったのは、ドイツ系市民がカトリック信者で有る事からハンガリーの後ろ盾を得た上で東方正教会のルーマニア人を差別していたからで、かつブラショフ商人たちは商取引の違約者には絞首などの極刑をもって接しており、それが彼等自身の持つ特権であると信じて疑わなかったためだが、これら経済的侵略と見られる行為でも、トランシルヴァニアとの友好関係を崩せないという外交上の問題から、歴代の公王達はそれを放置せざるを得ない状況だったのだ。
 
 その問題に対して、もっとも極端な方法で対処したわけだが、それを行う以前には警告が出されており、表向きはワラキアの言語を習得すると言う名目で滞在していて焼殺されたブラショフ人子弟らも、おそらくは情報収集、産業技術の取得といった目的があったので、それを無視して滞在し続けることを望んだとも考えられている。
 
 独占的利益を上げていたサス系商人たちは、ヴラドの政策によってワラキア商人たちにそれらを奪われ、ヴラド=ツエペシュに激しい敵意を抱くようになる。
 
 これを利用したのが前公王ヴラディスラヴ2世の遺児、ダン3世で、彼はヴラディスラヴ2世の旧臣でトランシルヴァニアに逃れていた貴族達を集め、トランシルヴァニア商人を苦しめるヴラドを許さぬと宣言、サス系商人達からの支持を得て多額の政治資金を得ることに成功していた。
 しかし、勢いに乗った1460年、ダン3世が貴族らを引き連れてワラキアに侵攻するも、ヴラド公直属の軍隊に撃破され、悲劇的な最期を遂げる。彼は自ら墓穴を掘らされた後、告解した後に首をはねられた。
 
 ダン3世の死により、ヴラドの報復を恐れたブラショフ市は彼に使節団を送るが、ダン3世へ協力した者への罰は厳しく、ワラキア全軍で全町村及び収穫物を焼き払い、逮捕者はすべて教会に連行して串刺しにした。
 住民の抵抗や同情から破壊を達成できなかった自軍の指揮官まで串刺しにして処刑した。
 
 その後、ブラショフ市民が協力を誓ってからはヴラドも態度を軟化、オスマン=トルコとの戦いに向けて備え始めたために平和は維持される事になる。
こうして、ヴラドの専制政治は完成されつつあった。



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