ドラキュラ誕生〜父の死


 13世紀末、南カルパチアの山麓アルジェシュで勢力を伸ばしていた豪族バサラプが、ハンガリー国内で起こっていた王位継承争いの混乱に乗じて、ワラキアの地主貴族に後押しされ、大公に就任、ワラキア公国を創建する。

 以降もバサラプはブルガリア皇帝の要請を受けビザンチン帝国軍と交戦しつつ領土を広げる。混乱の中から就任したハンガリー国王ロベルト・カーロイは国内政策に手一杯であったので懐柔策を取り、バサラプと交渉に入る。
 ハンガリー側はワラキアのハンガリー領土侵攻にも、ハンガリーの宗主権を認めさせる事で決着させたが、後にハンガリーの領土侵攻により再び交戦状態に。1320年ハンガリーの領土奪還行為はワラキアを圧倒的な不利に立たせる。


 ハンガリーはワラキアから領土を奪還した上に中心部アルジェシュへと進撃を続けたが、バサラプは周辺の村落を焼き尽くしゲリラ戦法で徹底交戦に。ハンガリーはこれに大敗。ロベルト・カーロイは国璽すら失って逃亡したという。
 

 この事は周辺諸国にワラキア公国の存在を承認させ、ワラキア公国は以後隆盛期を迎える。


 1389年、急激に成長を続けるオスマン=トルコの時のスルタン、ムラトはセルビアに侵攻、コソヴォにて対峙しトルコがこれを撃破。しかしその直後ムラトは奸計により暗殺される。次期スルタンの地位は、バヤジットが兄弟を皆殺しにして主権を掌握した。
 

 以降もワラキアはトルコとの戦闘の矢面に立つことがしばしばあったが、ヴラド=ツェペシュの祖父に当たるミルチャ<老公>の才覚と政治手腕によりその領土を保っていた。


 1418年にミルチャ老公が死に、後継者争いが勃発、以降数年間公位の奪い合いによる頻繁な交代劇が続く。

 1436年、ミルチャ老公の次男であり、ヴラド=ツェペシュの父であるヴラド(ドラクル)が当時公位に就いていたアレクサンドル一世アルデヤを襲い、公位に就く。

 「ドラキュラ公」ヴラド=ツェペシュが生れたのは1430年(1431年)で、その直後にドラクルは教皇の息子でもあった時のハンガリー王ジギスムントを訪問し、アルデアを倒し公位に就く際の援助を依頼する。ジギスムントは了解し、またヴラド=ドラクルをドラゴン騎士団に叙命した。
 

 後に、ヴラドに「ドラクル(竜)」の呼び名を持たせた由来でもある。また、当地方では「ドラクル」は悪魔の意を持っていたため、ドラクルのあだ名はヴラドの脅威を示したものだともいわれる。


 しかし、オスマン=トルコは既にコンスタンチノープル包囲を完了しており、勢いに乗ったオスマン=トルコは敵に回すには巨大過ぎる相手であった。

 ヴラド=ドラクルも、ハンガリーとの関係の手前、トルコに表立って親交することはできなかったが、トルコの脅威の前に服従をせざるを得なかった。

 ヴラド=ドラクルはトルコの尖兵としてトランシルヴァニアに侵攻するも同胞への侵略行為に手加減を加える。しかしこれは、ハンガリーとトルコへの背反行為を同時に行う結果となっていく。


 1437年ジギスムント死去。トランシルヴァニア領主ヤーノシュ・フニャディがポーランド王ヴワディスワフを後見、ハンガリー王となる。
 

 ヴラド=ドラクル治めるワラキアにヤーノシュが侵攻、トルコ軍を壊滅させる。ヴラド=ドラクルはトルコの当時のスルタン、ムラト2世に救いを求めるが息子ヴラド(ツェペシュ)とラドゥを人質にトルコに対する背信をなじられることに。
 ヴラドとラドゥはキリスト教子弟としてエウデシル(ムスリム洗脳教育)を施され、イェニチェリ予備軍に。ラドゥはスルタンの寵愛を受け、首都にとどまる。ヴラドは反抗的かつ狡猾であったので機関に残されることになった。


 スルタンメフメト一世の子ムラト2世は元々文人であったので引退を望み文芸生活を送ろうとする。

 そこでハンガリーと協定を結ぶが、ハンガリーに在住のローマ教皇使節枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニは異教徒との契約は無効であると背信、一方的に戦争を再開したのでムラトの激怒を買うことになった。

 ヤーノシュとヴラド=ドラクルもキリスト教側に付くがハンガリー軍は大敗、ヴワディスワフ王、チェザリーニ枢機卿は戦死する。

 ヴラド=ドラクルは大敗の責任をヤーノシュに追求。フニャディ=ヤーノシュは今までの功績から死罪は免れたが、追放処分となる。変わってヴラド=ドラクルが対トルコの総司令官に。ここでヤーノシュのヴラドへの憎悪が決定的なものとなった。
 

 ヤーノシュは直接指示していなかったと言うが、ヴラド=ドラクル、そして対トルコの英雄、長男ミルチャの父子は地主貴族の意見により惨殺となった。それぞれ、友好の印と誘い出されだまし討ちにあったようだ。
  ヴラド=ドラクルは二人の息子が人質に捕らわれていることも関係してか、徹底して親トルコ政策を展開していた。しかし、彼は龍の騎士に任命されていることからも判るように、本来キリスト教の尖兵として働くべきと考えられていた。その彼がトルコに組する事は周囲の不信を呼ぶと想像に容易い。
1446年、フニャディ・ヤーノシュの後見により、ワラキアの公位はダネスティ家が継ぐ事となる。

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