十五世紀の東ヨーロッパ


ヴラド=ツェペシュ(1430?−1476)が生きた15世紀はいかなる時代だったか。


 15世紀は変化の世紀であった。中世も終わりを迎え、宗教が支配した文化は やがてその主役を民衆の間に見出していく。
 

 ヴラド=ツェペシュはワラキアに生まれた。ワラキアは現在で言う所のルーマニアの一地方である。 現在のルーマニアに住んでいるのはスラブの影響を強く残している、 原住民族のダキア人と移住してきたローマ人の混血によるラテン民族であるが、 ルーマニア人自体の国が成立していた時期は以外に少ない。
 

 ルーマニア自体は、 ローマの支配を経た後、7世紀後半ブルガリアの支配、 11世紀はハンガリーによるトランシルヴァニア地方の支配、 13世紀にキプチャク・ハン国領となってモンゴル系民族によるモルダヴィア支配を経た後、 14世紀初頭、ハンガリー王国の後継者争いによる国内の動乱に伴い、ワラキアがハンガリーの 属領から独立する。


 以降ワラキアはビザンチン帝国との戦闘などを経て立場を得、 隣国モルダヴィアも公国として成立している。 公国とは言っても公爵が治めていたのではなく、確固とした出自を持たない君主が治めた国に対する 便宜的な分類であったようだ。
 

 15世紀東ヨーロッパの大きな事件と言えば、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の 滅亡が思い出される。
 滅亡の張本人は、オスマン・トルコの7代目支配者スルタン、 メフメト2世だ。
 
 彼はその功績からファティヒ(征服王)とも呼ばれているが、 彼以前にもオスマン帝国の猛進撃は目を見張る物がある。
 13世紀前半に成立していらい、 彼らは何度と無くビザンチン帝国に対し攻撃を加えてきた。それより東のアジアには モンゴル系民族の脅威があったのに対し、ビザンチン帝国は教理上の問題から 新興のカトリック勢力と大きく対立し、またイスラム勢力に相容れずと十字軍の 時代にはかなりその力を失っていた。

 また、地中海を席捲し始めたジェノバや ヴェネツィアといった海洋国家に制海権を奪われ(今ではジェノバ、ヴェネツィアといえば イタリアの都市であるが、勿論その頃はそれぞれ強力な都市国家であった)、 一時はそのラテン人達に国を奪われる事態にまで至った。

 何とかラテン人を追い出し 再建はしたものの、折りしも時は13世紀、帝国の名こそ残っているものの地方の 小勢力と化したビザンチン帝国は、力みなぎるオスマン帝国の敵ではなく、 同じキリスト教国として西欧の助力を得ようにもギリシア正教を唯一とするビザンチン帝国と、 カトリックを信仰とする西欧諸国との間には大きな隔たりがあった。


 とはいえ1453年のコンスタンティノープル陥落までには長い空白があるのだが、 それには様々な要素がからんでいるようだ。
 

 先のバルカン諸国も、強大なトルコ勢力に一致団結して対抗する姿勢を見せつつも、 やはり各国の思惑はその足並みを崩し、お互いに小競り合いを続けざるを得ない状況が続いている。 その好機を得たりとにらんだオスマン朝三代目の支配者ムラトは着々とバルカン侵攻を 進めて行き、ブルガリアやセルビアまでその手に落ちていった。


 そうして属領を 失っていったビザンチン帝国は、帝国自体がオスマン・トルコの属領であるかの 様に様々な制約を課せられ始めている。 ムラトの後を継ぎ、みずからスルタン(首長)を名乗るようになったバヤジットに 変わってもその猛攻は続く。
 

 ワラキア公国は西と南からオスマンの脅威をひしひしと感じ、 ヴラド=ツェペシュの祖父ミルチャの勇敢さと有能さをもってのみ公国の存続がなされる状況であったようだ。
 

 オスマン・トルコのコンスタンティノープル攻略を遅らせた原因の一つには、 先に触れたモンゴル系の外敵であった。14世紀頃台頭してきたサマルカンドの ティムールは、アンカラの戦いでオスマンを見事打ち破り、あろうことかスルタンバヤジットも 囚われの身となったのだ。

 指導者を失ったトルコはしばし混乱の渦となり、 領土拡大どころではなくなる。後継者問題が収まるまで実に20年近くを必要としたが、 それは西欧・東欧が団結しイスラム勢に立ち向かう圧倒的な力を付けるにはあまりにも 短すぎる期間であった。


 国家を安泰にまで導いたメフメト1世、その後をついで 積極的な外征を行ったムラト2世、そしてその子メフメト2世率いる オスマン・トルコ軍のコンスタンティノープルの陥落によりビザンチン帝国は 1000年以上の歴史に幕を閉じた。
 

 それはまるで、 キリスト教に全てを支配された時代の終焉を意味するかの様だ。
 宗教に全てを託し、自らの国が滅びるのも神の裁きであるとして最後まで信仰を 捨てなかったビザンチン帝国の人々に対し、西欧はイタリアに端を発する ルネサンスで、この世の美を謳歌していたのだ。


 ヴラド=ツェペシュが活躍するのはビザンチン帝国の滅亡直後であるが、その後の スルタン、メフメト2世を代表としたイスラム圏と西欧キリスト教圏の対決は、東欧諸国を 境界として激しく繰り広げられた。

 彼の生まれた頃の状況はいかなるものだったか。


[戻る][進む]

HOME inserted by FC2 system