吸血行為とエロティシズム


  吸血鬼を語る上で外す事が出来ないのが吸血行為に伴うエロティシズムであろうか。 
  吸血鬼とは元来エロティックな怪物であると思われている。 
  既にそれは周知の事として 扱われているので今更述べるのもどうかと思うが、吸血鬼に対する不可解な蟲惑の原因を探る一つの手段として、 避けては通れない道だとも思われるので、あえて述べてみる事にする。 
 

  血液が生命の象徴であり、死者がかりそめの生命を長らえようとして生者のそれを 奪おうとする事が吸血鬼の行動の原点であるとは既に述べた。 しかし、だからといって吸血というものが直接エロティックであるかといえば さにあらず、例えばある人が蚊に血を吸われたとしてそこに倒錯的な快感を 感じるのであろうか。 

  ほとんどの人が只単に嫌悪を感じるのみであり、あるいは 嫌悪の対象が強大なものとなって、たとえばそれが病原菌を撒き散らす毒虫であったりなどして、恐怖に転じる場合も有るかもしれないが、通常では 嫌悪のみが正常な反応であろう。 

  では、蚊が自らの種の生命を長らえる事と、 吸血鬼が生き続けようとする欲望とにどのような差があるというのか。 これはむしろ、犠牲者になる可能性を持ちあわせている我々人間の捉え方に関わっているのに違いない。 
 

  吸血鬼ドラキュラなどは吸血鬼全体の歴史においても割合に新しいキャラクターで あるので洗練、或いは変形している事が想像される為、もっと初期の時代の吸血鬼像に ヒントを得ようと思う。 

  中世に跳梁した吸血鬼の一つは、死者が家族の元に戻ってくると いうものだった。吸血鬼はその自分の家族の元へ戻ってくるか、あるいは墓の中から 家族の精気を吸い取りやがては死に至らしめるという行動をする。我々生者からすれば なんと迷惑な行動かと思うのだが、逆に死者に対する我々の感情を思えばある程度 推測が出来るかと思う。 

  家族内の誰かが死んだという事実は生き残った 家族にとって耐え難い喪失感を伴うものであり、出来れば再び生きて目の前に現れて欲しいと 思うはずのものであるが、それを延長させて死者も生者に対して同じ感情を抱くのではないかと 発想するという事だ。すなわち、一人で黄泉に旅立つのに心もとないと思う死者は自分の 先の知れぬ旅の道連れにもっとも馴染み深い恋人や家族を選ぶのではという考えである。 

  これは両者の間に生前培われた愛情の賜物以外の何物でもなく、その感情はプラス方向に転ずれば 宗教的に死者の世界を夢想し、死者がそこで幸せな生活を営んでいると想像することとなり、 旅立ちに際して寂しさを感じない様に多くの儀礼的手順を踏む、といった整然とした行動に 繋がるのであるが、マイナス方向に転ずるのであれば直ちに恐怖への感情に転化する。 その恐怖は、自分の理解の範疇を超えた外の世界に自分が引きずられていく不安であり、 生存しようとする原初の本能に基づく大脳の警告である。 

  よって、生者は死者に対して 恐怖を抱くのが当然であり、場合によってはその生者が若年などによる生命力の 溢出からくる死の世界への距離がかなり大きい場合があるのだが、そういった場合は 恐怖がその前段階の嫌悪の感情となり得る。 
 

  ここで問題は、死者となる対象が愛情を注いだ者であった場合である。深層の感情により 嫌悪あるいは恐怖を感じているにも関わらず、生前の記憶に対して愛情を伴う為、 それは相反する感情を同時に内に秘めるという倒錯となる。 倒錯した感情の内包は、しばしば互いの感情を爆発的に高めるという効果を持つ。 

  これこそが、吸血鬼の持つエロティックさを大いなる物に支えている原因ではあるまいか。 
 

  では、それが発展したと考えられる近代の吸血鬼の対して抱くエロティシズムはどこに因るものか。 
この場合、ドラキュラなどでも判るように対象は知人でない場合が多い。 
家族でも恋人でもない 不特定の人物像に先の理由で爆発的に感情を抱くというのは考えにくい。 
とはいえ、ドラキュラなどはあきらかにその吸血行為にエロティシズムを内包しており、 それは行動そのものからも容易に推し量られる。 

  たとえばその牙。 牙を使って吸血行為を行う事は直感的にエロティックであると考えられるが、問題はなぜ吸血鬼が それほど直接的にエロスを表現させられているのか、という事だ。 

  吸血行為のイメージは牙による出血を伴ういわば侵略的な行為であり、しかも吸血鬼自身が 強大な力を伴うという要素を付加する事で抵抗の容易ならざる事が予想され、その侵略は明らかになってくる。 これを快楽だと感じる事はとりもなおさず精神的マゾヒズムを喚起させ、意識下ではそれを否定する事から 倒錯が生まれるのだが、通常の人物像においてもこれは有効なのであろうか。私はこれに条件付きで有効だと 考える。 

 というのは、対象が自分と同等の人間であるならば、ここに被支配欲と言ったものは生まれないのであろうが、 違う点は吸血鬼に対して最初から優位のイメージを与えている事に有る。すなわち、同等の人間に侵略される事は 苦痛であり屈辱でしか有り得ないものが、自分で優位を認めているものに対してはある程度の被支配も厭わないといった 感情に転化するのだ。 

  ここには、人間の持つ進化の欲求も含まれていると思うのだが、今より自分を高みにおしあげたいと 願う時に、自分が認めた力のある存在に支配される事は、その力の恩恵を得る事によりその一部を自分の物とし、 ひいては自分が力のある存在、以前には自分と同等であったはずの存在に力を行使できる存在にまでなると確信するに 至るからであり、一連の行動をとることになんら不可思議の介入する余地はないように思われるからである。 

  これは愛情を注ぐという行動にも酷似しているのだが、ならば、自分に侵略を加える不特定の存在であっても、 それが至高への道程と予測されるのであれば侵略に伴う苦痛は転じて快楽、または肉の愛になるのではないか。 

  しかし、これだけでは恋人を作って愛情を注ぐ過程を比喩したものであるだけで、あの背徳的な倒錯の感情を 思い起こさせる根拠としては不充分であるかもしれない。 

  もう一つの原因を考えて見よう。 
 

  吸血鬼伝説が世界各地に点在するとこは既に述べた。しかし、ドラキュラなどに見られる吸血鬼小説の賞賛、 あるいは吸血鬼信仰ともなるとそうはならない。只単に恐怖があるのみである。 

  では、吸血鬼に倒錯した愛情を抱く対象を見出すのは何ゆえであろうか。 

  「吸血鬼幻想」の中では、その一因をキリスト教の発展に見出している。つまり、死者との交感は宗教的な儀礼である場合も 原始の宗教では含んでいたので、先の家族への愛情の延長である接触の仕方が用いられたのに対し、 キリスト教においては精神、あるいは魂のみが不死なのであり、死後の魂の抜けた肉体は不浄のものと見なされるに 至ったからで、死者に対する畏敬の念は評価されるものの、死者に対して肉の愛を抱く事はまったくの禁忌であると されたからだ。 

  よって、社会的には死者への肉体的な愛が否定されるのだが、個人的にそれを心中で肯定してしまった 場合葛藤が起きる。理性で抑えるのは当然だがそこに解消されないままの衝動が残る。それは潜在的な爆発の要因になりはしまいか。 それによって、理性の制動が除去された場合にバランスが崩れ、今まで劣悪としてきた感情に耽る事になるのだ。 

  例えばその肉の愛に対する偏愛の一例として、黒魔術の黒ミサが思い出される。 これはしばしば性交などの肉体的快楽を伴うのだが、過程においては理性を内に潜める手順を慎重に行っている。 儀式はすべてキリスト教のミサをパロディ化したものであり、これは精神の愛を至高の愛、神の愛とするキリスト教による抑圧の反動に他ならず キリスト教の脅威がなければ生まれる必然も無かった事となり、つまりはキリスト教の影響力の大きさを物語っている結果となっているが、 これと同じ事が吸血鬼からの侵略にも当てはまりはしないだろうか。 

  犠牲者が異性の吸血鬼に襲われる場合は、それが元の恋人であれば死者に対する倒錯した愛情、他人であれば 隣人を姦淫する事なかれとするキリスト教的な背教の愛となってここにも倒錯が生まれる。また、同性の吸血鬼であれば もっと如実になり、これは直接的に同性愛を連想させる事から重い神への罪を背負う事になる。 

  どれも強力な禁忌であって、だからこそ対象が人間ならざる魔物となって具現化するのである。 自分が抵抗不可の強力な魔物に被害を受ける形を採る事により、信仰を失わずに自分の内に潜む欲求に素直に直面できるのである。 

  また、吸血鬼が夜間、それも犠牲者が眠りに就いている場合が多い事もそれを証明するのかもしれない。眠りは 夢の映像にも代表されるように無意識を意識する一番ありふれた機会であり、理性の及ばない世界であると誰もが 認識している。よって、心の奥に潜むイドの怪物は眠りに就いたその瞬間姿を現し、朝日が射し込むと共に滅びていくのである。 


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