ドラキュラ前史


  ここでいう「ドラキュラ」は、勿論ブラム・ストーカー作「吸血鬼ドラキュラ」 に登場する怪物、吸血鬼ドラキュラ伯爵の事である。歴史の民間信仰に登場する 吸血鬼でも、実在の猛将ヴラド・ドラキュラ公でもない。 
  「吸血鬼ドラキュラ」はブラムの小説のオリジナルキャラクターであるにも 関わらず、それら原形となったもの達の知名度を差し置いて爆発的に 有名になってしまった。
  故に吸血鬼のイメージといえば「ドラキュラ」の イメージが定着し、ヴラド・ツェペシュといえば悪逆非道の怪物と混同される 事態まで呼んだ。

  先の「ドラキュラ生誕100年」のおかげで、それらの 誤解を解く試みがなされたせいもあり、現在では各々が存在をアピールする事に 成功しているとはいえ、肝心の「吸血鬼ドラキュラ」を取り上げるとしても、いざ 文献を調べてみようと思うとこれが少ない。
  前述の「吸血鬼」或いは「ヴラド四世」 についての記述は結構見つけられるのだが、小説「吸血鬼ドラキュラ」に ついて述べてあるものは希少であるといって良い。

  「ドラキュラ」は百年の昔より 映画・演劇、あるいは凡百のパロディに使用されている為、今更「ドラキュラ」を 真剣に取り上げる事に知識人の方々は抵抗があるのか、過去の作品に勝って 読者に対して驚きを与えようというのか、なかなかストレートに扱ってもらえないのだ。
  よって、その記述を制作するにあたっては相当に慎重になるべきだろう。

  小説「吸血鬼ドラキュラ」そのものは空前絶後であるが、吸血鬼を扱った小説と だけ限定してみるなら、前例がないわけではない。
  そこで、まず最初にブラムのドラキュラ以前にいかなるものがあったか。 
  それを「ドラキュラ前史」として主だったものに触れてみよう。 
 

  民間信仰から生まれた吸血鬼の物語は、18世紀には闇を跳梁する怪物として 認識されていた。
  元々の意味を失い、妖怪としての位置を確保していた19世紀の吸血鬼は、怪談として人々の口頭にのぼるものになっていた。

  1816年のある日、ジュネーヴ湖畔の別荘にて。 
  そこには詩人バイロンをはじめとしてその主治医ポリドリ、逃避行の後の シェリーとその実質的な妻メアリ。
  彼らはさながら知識人のサロンに 集まるが如く、その退屈な時を共有していた。もっとも、その実状は 愛憎にまみれたものであったとも聞くが。

  とりわけバイロンは長く続く 雨にすっかり辟易し、最初怪談を楽しんでいたがそれにも飽き、さらには 自分で怪奇の物語を創作せんと提案する。
  当のバイロンは早々と筆を 投げ出していたのだが、メアリ夫人は後にこの時に書いたものを元として 「フランケンシュタイン」を創作したとは広く知られた話だ。 
  そこに、もう一人創作を続けたものがいた。それはバイロンの主治医ポリドリで、 その際バイロンが作りかけた吸血鬼の話に触発され、それを一編に完成させた のが「吸血鬼」小説のはしりと言われている。
  ところでこの「吸血鬼」、 故意にあってかあらずか、バイロン作と宣伝されたようで多いに評判を呼び、宣伝効果は抜群であったようだが当のバイロンに激怒させ、 真の作者ポリドリを破滅においやったという結末を迎える。
  もっとも、 バイロンの怒りの理由として、ポリドリが盗作で稚拙な文章を作り上げたことに 対してとか、中に登場する吸血貴族ルスブン卿がバイロンその人にあまりにも 似すぎていた為、彼の醜聞を暴露するかの様であったからとかなど、諸説が 流れており判然としない。
  作者の悲しい運命とは別に、「吸血鬼」は 大当たりした。すぐに戯曲に書き直され、相当に好評を博して、 憂鬱な貴族イコール吸血鬼という印象を不動のものにした。 

  次に挙げるべきは「吸血鬼ヴァーニー」であろう。
  この小説は、連載という形を取っている事も有り、また各回に読者の注意を 惹きつけ読み捨てられるという運命のせいか内容は極めて荒唐無稽で、 一貫はしていない様だ。
  考えられる限りの伝奇物語が続き、展開の節々には 主人公ヴァーニーは滅び、次の回には一筋の月光を浴びて復活を果たすというものである。
  本当に不死身のヴァーニーの最期は、ヴェスビオ火山の中に投げ込まれて燃え尽きた、とか。 
 

  そして1870年代、また一人大吸血鬼が誕生する。
  件のドラキュラの作者 ブラムの同郷で、大学も同じ先輩のジョセフ・シェリダン・レ・ファニュの 生み出した「吸血鬼カーミラ」である。ブラムも当然「カーミラ」は読んでおり、 少なからず影響を受けているようだ。

  内容は、有名なので紹介するのも どうかと思うが、物語はオーストリアの一地方、都市近郊で。主人公ローラの モノローグから始まる。
  19歳のローラは父と女性家庭教師ら少ない人数で 暮らしていたのだが、とある夜に森の中でやんごとなき令嬢を介抱する事から 彼女と親密になり、半ば愛情を交感していたのだが、そのうちにローラは 目に見えて原因不明の衰弱に陥る。
  同じ頃ローラの住んでいた家の近くにあった 廃虚から発見された絵画を復元していくにつれ、それがカーミラに酷似している 事から、彼女が永劫の時を生きる人外のものであると疑いが生まれ、やがて 以前犠牲になった娘の父親の証言からローラの衰弱の原因が吸血鬼による ものと判明。
  廃虚の墓地を暴くとそこにはみずみずしく横たわる生ける死者、 カルンスタイン伯爵夫人すなわちカーミラが居たのだ。ローラを守らんとする もの達の手により、カーミラは滅ぼされ、ローラは命をとりとめる。

  その物語の展開の秀逸もさることながら、カーミラについてしばしば論じられるのは そのエロティシズムであり、女性吸血鬼と女性の犠牲者の関係である。
  それは現在から見ればほぼ好意的な交友にも採れるのだが、当時の同性愛が かなり深部の禁忌とされていた時代においては、衝撃的であったのに違いない。
  他の吸血鬼小説と同じく、カーミラも恐怖の対象として描かれているが、 物語が終始ローラの一人称において語られている事からローラの内包する、 ひいては当時の女性が深層意識下にまで封印していた所の倒錯と背徳への 欲求をも表現していると語られもする。
  とはいえ、表面に現れるのは キスをしたり愛を語らったりといった程度で、素朴なものである。

  さて、ここでいよいよブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の 登場となるのであるが、
  そこはまた章を新しくして語ってみたい。 


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