ブラム・ストーカーと「吸血鬼ドラキュラ」


「神よ!神よ!神よ!われわれは今痛い所を襲われて悩んでいるのだ。
われわれが何をしたというのだ!この哀れな人間が何をしたというのだ! 
人間のなかには、まだ古い昔の邪教の世界が授けた宿命というものが 
存在するのか?あんなものが、あんな形で存在しなければならんのか? 
・・・

ああ、どうやったら防げるのか?どうやったら悪魔の総力に対抗できるのか?」 
                                                 〜ヴァン・ヘルシング「吸血鬼ドラキュラ」(平井呈一訳)より〜 
 

  吸血鬼と言えば、ほぼすべての人がドラキュラ伯爵を思い浮かべると言っていいだろう。それほど、ドラキュラのイメージは強烈に我々の中に根づいている。 
  ドラキュラ伯爵はもちろん架空のキャラクターで、誕生はブラム・ストーカー作「吸血鬼ドラキュラ(Dracula)」の中に於いてである。 
  ドラキュラは古今を通じてもっとも有名な吸血鬼小説であり、イギリスでの最初の出版はおよそ100年ほど前の1897年である。 

  時は中世の暗黒時代を経て文明の香りがし、ヴィクトリア女王の元繁栄を極めていた時代。 
  しかしそれはまた、自然に親しむ生活から現代的な都市の生活へと市民が移行して間も無い時であり、急速に進む文明に人々が警鐘を鳴らすときでもあった。 

  それとともに、世紀末の不安と言う事もあり、心霊術やオカルトに人々が関心を持つ時代でもあった。そんな風潮の中、ブラム・ストーカーは古来から信仰と畏怖の対象となっていた怪物、暗黒時代の忘れ形見である吸血鬼をテーマにし、ロンドンの街中に甦らせたのだ。 
 

  ここではまず、「吸血鬼ドラキュラ」の著者ブラム・ストーカーに触れながら、ドラキュラ伯爵のプロフィールを探っていこうと思う。 

  エイブラハム(ブラム)・ストーカーは、1847年11月アイルランドのダブリン市に生まれた。 
市庁の高級官吏の父と、同じく市庁勤めの母の間に生まれたブラムは、本人も役人の職を経つつ、大学在学中より興味の有った演劇に惹かれ、劇評作家の活動が元で名優ヘンリー・アーヴィングと出会い、彼の秘書を任されるようになる。 
そんな中、彼の大学の大先輩レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」が出版され、それを目にしたブラムはたいそう衝撃をうけたようだ。 
  そして自分も吸血鬼ものを書きたいと思っていた折り、彼は奇妙な夢を見る。 

  自分が寝ていると、三人の魅力的な女性が同じ部屋に立っている事に気付く。 
  彼女たちはとても美しく、抗い難い欲望を感じるのだが同時にひどく恐ろしい気持ちにもさせられる。 
  当の自分はと言えば、夢うつつで起き上がる事もままならない。 
  やがて、三人の美女が枕元まで忍び寄り恐怖が最大に達した時、背後に背の高い人物が控えているのが判る。 
  その男は憤慨した様子でこういった。「その男はわたしのものだ!きさまらが手をふれるんじゃない!」 

  幾日も繰り返し訪れるその夢を書き記そうとブラムは試みている。 

  アーヴィングの秘書として、激務をこなす中、彼は休暇をもらい、家族と離れて一人でイギリスの港町ホイットビーに旅行に行く。 
彼はその時来るべき吸血鬼小説のプロットを作る為、色々文献など資料を探っている最中だった。そのホイットビーでブラムは面白い話を聞く。それは難破船「デミトリ号」の入港の話であった。 
  操縦するもののいなくなった船は、危うい様子でなんとか港に引き上げられ、それがその界隈での大きなニュースとなっていた。ブラムは図書館で地方新聞のバックナンバーを調べ、その事件を調査している。 
これが物語り中盤の見せ場「デメテル号」のくだりである。 

  いわく、ルーマニアの一地方ワラキアの伯爵ドラキュラの元にイギリスに購入する土地の契約の為訪れた弁理人ジョナサン・ハーカーがドラキュラの正体を知り、おそれおののいてドラキュラ城から脱出した後、ハーカーの手荷物から住まいを知ったドラキュラが海を越えるのに使ったのが「デメテル号」である。 
  長い航海の中、デメテル号は天災に見舞われ、嵐の中次々と乗組員の姿が消えていく。最後には船長のみがのこるのだが、彼は自分の身が滅びようと意地でも船を港に辿り着かせんと自分の体を舵に縛りつけ、そこで絶命している。 
  その持ち物から航海日誌が発見されるのだが、船長の死体は腕を十字に縛りつけていた…。 

  その図書館での調査の中で彼は一冊の本を見つける。それはワラキアという国についての本で、その中には「Dracula・・・この地方での悪魔の名。しばしば勇敢で残忍で狡猾な人物に対して用いられる」と、のちのドラキュラに影響を与えたであろう一節があるのだが、ブラムが気付くのはまた別の機会。 
  その機会は例の秘書をしているヘンリー・アーヴィング邸で訪れた。高名な東洋学者ヴァンベリ教授である。彼はかのヴァンパイア・ハンターとして後世まで語り継がれるドラキュラ・キラー、ヴァン・ヘルシング教授のモデルになった人物と考えられているが、そのヴァンベリ教授から各地に伝わる吸血鬼信仰の色々について聞くと共に、ワラキアの将軍、ヴラド公がドラキュラとあだ名されていた事を聞かされる。 

  その後にブラムはロンドンの王立図書館で様々な文献を調べているが、その中にヴラド串刺し公についての記述もあったようだ。 
  さて、ドラキュラのイギリス上陸の部分は書き上げたブラムだったが、その以前の物語をいかにせんと試行錯誤していた。そんなおり、彼は休暇中に滞在していたスコットランドの田舎町でその地方の伯爵の居城の廃虚を見つける。そこから、さきのジョナサンがドラキュラ城を訪れるシーンは生まれたのだが、次は話しの舞台である。当初オーストリアの一地方にと考えていたブラム・ストーカーだったが、先述のヴラド公の存在を知るに至り、ルーマニアのカルパチア山脈に変更する。 

  問題は、ブラム自身が港町ホイットビーより東へと足を運んだ事が無い事であり、結局彼は風景、列車の時刻表、人々の服装などすべて資料を元に空想で書き上げたようだ。 
  したがって、冒頭のさながら紀行文ともいえる一節は、皆ブラムの創作だったに過ぎない。今考えるといささか乱暴な話であると思ってしまうが、そこはブラム・ストーカーの才能故か、のちにストーカーの小説を辿ってトランシルバニアを実見するマクナリー&フロレスクの研究書「ドラキュラ伝説〜吸血鬼のふるさとをたずねて」(角川選書)では、 
    「ロンドンの大英博物館で見る事の出来るその地域の地図をしらべる際にいかに苦労したかというストーカーの記述は、すなわち小説のプロットが史実にもとづいていることを強調するものに他ならない。彼はそれらの地図があまりあてにならないようなことをいっているが、実際はストーカーが考えていたより、はるかに精確だったのである。」と述べられている。 

  ともあれ、この後「吸血鬼ドラキュラ」は完成し、空前のヒットを得る。 
  ブラム・ストーカーの死後もこの作品は生き続け、何度となく映画化され、演劇となり、はてはその末裔がテレビに登場し子供たちを怖がらせる道化を演じるなど、その活躍は我々の知る所であり、ストーカーには思いもよらなかった事であろう。 
  そして吸血鬼に対する関心は高まり、精神分析的な解釈をはじめとする様々な解釈が試みられる。 

  もちろん、このサイトもそれが主旨なのであるが、それはおいおい記述を増やしていくとしよう。


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