なぜ血を吸うのか?


吸血鬼は何故血を吸うのだろうかと言う問いはやや的を外れているかもしれない。何故なら、血を吸う鬼こそが吸血鬼と定義されるからであり、それに疑問を投げかける事はあるいは存在そのものへの問いとなる可能性がある。そこで、少し言葉を変えてみる。何故血を吸わなければならないのか。

 血を吸う鬼、とこれは文字どおりであって語源の項でも触れるつもりだが、数多く残っている伝承や作品の中でも吸血の方法については様々である。代表的な吸血鬼ドラキュラは首筋に噛み付き、そこから流れる血液を啜るのだが、そこには傷痕がのこっているもののどのように吸うのかという事ははっきりとしない。
私は幼少の頃、てっきり二本の牙が中空のストロー状になっていて、そこから血液を吸い出すのだと思っていた。その根拠としては、アニメなどでは首に深々と牙がささっており、そこから血を吸い上げる場面を観たからだが、今考えるともし吸血鬼が実際に血液を吸うとするならばおそらく動脈を食いちぎり、吹き出す鮮血を飲み干すのだろうという事になる。
となれば、止血の際はどうするのだろうか。常人なら頚部の動脈を切断されたらとても自然に止血は出来ず、即死してしまうだろうと思われる。それに、いくら吸血鬼に特殊な能力があるといっても獲物を探すのは容易ではないだろうし、同じ人間の仲間に報復の機会を与える事を考えればかなりの危険が伴う行為である事も確かだ。であるならたった一度で犠牲者が死んでしまうのは吸血鬼としては不本意だろうし、ドラキュラには犠牲者の元へ何度も訪れている描写が多く残っている。

では創作物を離れて実際に残る伝承の中の吸血鬼はどうだろうか。これについては後述するが、多くの場合直接的に血液を吸うところは目撃された事がない。結果的に血を吸った痕跡のある(可能性のある)埋葬された死体を吸血鬼と定義づけているのみだ。

もっとありふれた例で考えるならば、現実の吸血生物の代表チスイコウモリは家畜などのおとなしい動物の体に噛み付き、流れる血を舐める程度であるという。それら吸血生物の特徴として、その唾液等に血液の凝固を抑える成分が含まれているらしい。科学的に観測されている吸血動物と呼ばれるものたちの中では、その獲物が傷口から雑菌の侵入などにより結果的に死に至る事はあったとしても、血を吸い尽くして殺してしまうことは有り得ない。

とすれば、吸血鬼にもそれはありそうな話で、映画に見られるような細い2本の犬歯の傷口から流れる血液程度ではとても貧血状態までに至らないだろうし、ならば現実の吸血生物の如く長い時間をかけて血を凝固させない何かの分泌物を使ってのんびり舐めるとも考えることができるが、それでは家人に知られずに、という点で条件が厳しくなる。やはり動脈から、というのが一番可能性が高い。
現代のアメリカの小説や映画に登場する吸血鬼にはもっとダイナミックに行動を起こすものが多いようで、一気に首を切断して大量に血を浴びながら溢れ出る血液を飲む。ヴィジュアル的にはとても興味深いのだが、これでは犯行の隠匿の面で極めてお粗末である。もっともそれすら必要ないように社会的な地位を獲得し、自分の邸宅のみを殺しの場として下僕の人間に始末させるという合理的な吸血鬼もいるようだが。

とはいえこれは人口の多い都会でのみ通用する離れ業で、小さな集落では成功しない。大量の血を流した痕跡が発見されて、果たして警戒しない者があろうか。いくら魅了の能力があってもこれでは割に合わない。


観点を変えてみる。伝承的なものと、創作的なものを併せて推測してみよう。


伝承の中の吸血鬼は、
・墓の中から家族や知人などに死を伝染させる
・墓を掘り起こすと口の周りを血に染めており、そこから蘇って血を吸っていた事が類推される
といったものがほとんどだ。
ここから考えて、吸血行為は何らかの象徴的な行為であり、犠牲者は血液を吸われはするがそれは微量で、むしろ生命力そのものを吸われるのではないか。
故に、創作の中であっても事後の犠牲者は相当に衰弱した状態で発見されるのではないか。

「吸血鬼幻想」では、それを「オド・ヴァンピリスムス」と紹介している。「オド」とは、「人間の肉体から発する一種の動物磁気」と説明してあるが、今風にいえば「マナ」とか「オーラ」とか、「精気」あるいは「霊気」といったものではないかと推測する。

カロリーとかヴィタミンといった実際に肉体を構成する為の要素とは別に、なにか科学では解明されていない未知の、しかし感覚的にはおぼろげに理解できるようなそんな謎の物質の存在を古くから人は信じていたのだ。
現代の我々は科学による洗礼を受けているので、にわかにそういったものを肯定する事は難しいが、その各々の時代の人々にとっては、それが科学に替わるものだった。今となってはその根拠と結論に至る過程が失われているので不可解なものと映るが、当時の人々には実感できる共通の認識であったかもしれない。

ともかくその生命力は、生きる為に不可欠なものであり、我々が例えばそれを得ようとするならば、まず食事をする。そして、太陽を浴びる。栄養が偏った食事を摂ればそれは低下する。肉食のみの動物も、草食動物の摂った栄養を間接的に奪い、生命力を貯える。我々は、その両方と植物を合せて取り入れる事でより完璧なかたちでそれを維持する。

ならば、その完璧なまでに貯えられた生命力を吸引すれば事は足りる。これがおおもとの吸血鬼の吸血行為に達する経過ではないかと思う。実際に閉ざされた孤島の中で生態系が変化し、極端に食料や栄養分が足りない状況の中で、鳥類の一種が別種の鳥の雛を襲って血液を代わるがわる舐め盗み取るという事例も存在する。それほど血液は物質的にも象徴的にも栄養価の高い、生命力に溢れたものなのだ。
これは別に申命記の「血は生命である」という言葉を引用しなくても自明の話だ。キリスト教化されていない例えば未開の集落が過去に有ったとして、もちろん科学の洗礼も存在しない時代であっても彼らは血を生命力の源と考えていただろう。どれほど原始的な段階であっても、血が流出されればその個体が死に近づくと言う事は経験で判る。それが「血液」であると知らなくても理解している。逆にいえば、血液こそが生物を生かしているということを直感で悟る事ができていたに違いない。


故に、吸血鬼は老化しない。そして、太陽を浴びない。我々人間や植物が日光から得る体内での滋養の生成を必要としない為に浴びる意味を持たないのだ。裏を返せば、もはや死の状態にある彼らはそういう過程でしか生命力を得られないのだともいえる。我々人間は太陽をあまり長期に渡って浴びないとビタミンの欠乏により軽いうつ症にかかりやすくなる場合もあるが、吸血鬼の中に陰鬱な性格が多いのもあるいはそういった事例への婉曲や暗喩であるのかもしれない。

古来より、太陽は生命を育む創造の象徴とされてきた。逆になにものも生み出さぬ月光はそれに対し虚飾の印象を常に付き纏わされてきた。すなわち、吸血鬼を始めとする不死の生物はかりそめの生を受けているため、虚構の光源の中でしか活動できないのだ。日光の下にさらされれば、その嘘は看破され、真実の姿を曝け出す。それは死の姿、遠い昔に死を迎えた朽ち果てた姿なのだ。


とにかく、吸血鬼達は生命力を生者から奪う事で仮の生を成立させている。ならば、本来その結果が得られるならばプロセスはどうでも良くなってくる。霊気とともに肉体すべてを取り込んでもよいだろう。自ら犠牲者に触れなくても良いだろう。そうすると、吸血鬼の、或いはその眷属が行う吸血行為の範囲は急激に広がる。

例えば、夢魔という存在がある。これは元々、悪夢を見た際なんだか自分の上に何かが乗っているような息苦しさを感じて目を覚ますと誰もおらず、ただ倦怠感が残っている現象を自分にとって合理的に解決し納得する為の手段だと思え、現代医学なら別の理由付けがされるのだが、その人にとっては夢魔という存在がもっとも適切であったのだろう。

この派生型として、吸精鬼というものがあるが、インキュバスとかサキュバスといった呼称で呼ばれる彼らも、目的は違えど残る現象は同じである。それは、自覚の無い犠牲者と理不尽に疲労した体である。故に彼らは人が寝ている間に生命力を吸い取っていく想像上の動物の存在を疑わなかったのだ。

一旦その動物の存在が認知されれば、様々な現象がそれによって証明される。誘拐、殺人、死体遺棄などどいった犯罪も、加害者が不明の状況で、犯罪の立証が困難なほど不可解なケースであれば、そうした怪物の仕業と考える方が妥当だろう。

むしろ、同じ生活共同体に暮らす隣人に疑惑と不審の目を向けるよりも、その加害者の精神の異常性に対し考証するよりも、ある意味で健全な合理的思考方法であるかもしれない。

以上、吸血鬼というものが実際に血液を吸うと仮定する上でその理由を考えてみた。吸血鬼が血と共に生命力の象徴たる何かを吸う事は吸血鬼を考える上で必要となる前提であると思われる。そこから派生して、血液のみならず生命力の象徴自体を吸うものすべてを吸血鬼とその眷族といってしまうのはいささか乱暴であるかもしれない。


しかし、吸血鬼の成立を考える上で前述の疑問は生まれて来るだろうし、その疑問は我々人間の理解の外にある吸血鬼の行動を考える度にどこまでも付き纏うであろう。その答えは吸血鬼というキャラクターの発生する理由とその意義に密接に関わってきて、その中に人々へ潜在する強大な悪への羨望といったものも含まれると私は思う。


何故吸血鬼は血を吸うのか。何故血を吸わなければならないのか。その答えの一つには、彼らがかりそめの存在で有る事から発生する生命力の直接的かつ非常の摂取手段である事が挙げられ、裏を返せば人類が血液こそ生命の根源であると考えた太古の記憶が関与している事になる。それには吸血鬼が人間的な死を迎えている事が重要だが、生きている者を吸血鬼と見なす事はないだろう。大量殺人を犯した者を吸血鬼とも呼ぶが、これはあくまでも比喩表現であり、彼らが科学的に人間として分類されている限り血液のみで生命を維持する事は不可能である事から前提として矛盾しないと考えている。


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